世の中には生まれつき何かにつけ器用で、トントンとスムーズにことを為すタイプと、何をするにしても不器用で、大層、時間のかかるタイプがあります。
ある瞬間だけを切り取ってみれば、間違いなく前者がうらやましいのが人情ですが、人生ステージのロングスパンで眺めてみると、一概にそうとも言い切れないのが人生の妙味だったりします。
あらためて周りをゆっくり見渡してみると、なんでも簡単に出来てしまうが故に、幅広く多趣味ではあるものの、どうも全般的に底が浅く、結局すべて中途半端で投げ出してしまうような、器用貧乏的展開も案外、多いものです。
反対に取っ掛かりが下手だからこそ、人一倍コツコツ努力を重ねるうちに他の者には見えない愉しさみたいなものを発見して、さらに精進を重ねるうちにいつしか、先人が見出しえなかった偉業達成などという展開になることも、歴史上の伝記物を持ち出すまでもなく、よく有る話といえます。
そんなことがだんだん、はっきりとわかってくるのが実は加齢の醍醐味のひとつかもしれません。といっても高齢社会の今日にあっては加齢と称せる年代の特定がこれまた、結構難しくもあります。
何かの本で紹介されていた、大徳寺の尾関和尚の講話の中に『五十、六十、花なら蕾、七十、八十、働き盛り、九十になって迎えが来たら百まで待てと追い返せ』とありました。こうなると還暦くらいでは、まだまだひよこ扱いかもしれませんが、どうも年齢を重ねなければわからないことや、見えないことって、沢山有るのではないでしょうか。たとえば、その場の空気が読めたり、他人の顔色がわかるのもある種、年齢と共に鍛えられてゆく能力であって、研修やセミナーに参加して教えてもらったから出来るようになる訳ではなさそうですね。
いつだったか、老獪な人生の達人ともいうべき先輩から、語呂合わせの言葉を
頂きました。その時は『そうかな?』だった感想が、やがて『そうかも』になり、近頃『そうだな』に変わりつつあります。その言葉は『不器用は武器よ!』
2006年10月21日土曜日
2006年10月20日金曜日
謝ることは難しい?
『たいしたことではないから、、、、』とつい見過ごしたり。
『そんな細かいことにいちいち口を出さなくても、、、』とためらったり。
そういう気分が半々ではなく、51対49のようなバランスになったとき、何かが崩れ始めたり、どこかに歪みが生じたりするのではないかと考えます。
『ま、いいか』と1度、見逃したことは、こちらはおおめに見たつもりでも見逃された相手にすれば、それ自体がどのようなことであれ、『この前は良くて今回はなぜダメなの?』と気づきの矛先がその段階ですでにぶれる危険性も孕んでいます。叱ることの難しさと重要性はここに強く根ざしていそうです。そのときその場で叱る、スリと同じで現行犯!と相当、明快に自覚していても嫌われたくないという思惑も手伝って、叱ることは至難の業へと登り詰めます。
先日、ある会に連絡もなく欠席された御仁から、数日たって行けなかった理由をご報告頂きました。正直言って、今更、理由を伺っても、だからどうなの?という気分であり、むしろ理由はどうあれ、連絡もなく欠席した行為に対してなぜ一言の謝罪もないのか、不思議でしょうがないのが率直な感想です。
たとえば約束の時間に遅れてきて、あれこれ遅れた理由をまくしたて、自己を正当化して『だから自分は悪くない!』と見事に証明して見せたつもりでも、待たされた相手がそれで納得するはずはありません。百歩譲って、たしかに最もな理由があったとしても、まず遅れた事実を謝る。素直に謙虚に誠実にあっさり謝る!ことがなぜか、出来にくいことになってきてはいないでしょうか。
そんなモヤモヤを抱えつつ、京都流を眺めていたら、【おやかまっさん】の中でドンピシャリのご指摘があり、少し背中を押して頂いた気分です。
謝ること!がまるで何かの負けを認めることであるかのような錯覚から早々に脱却し、それは決して自己否定ではないことに思い至りたいと考えます。
むしろ、謝ることは、その時点の自らの至らなさにをありのままに素直に潔く自己肯定する重要なプロセスのひとつではないでしょうか。それがあるからこそ、次なる成長のプロセスが始まる。いえ、そこからしか始まらない。
理由探しの責任転嫁の循環がやがてもたらすものと、謝罪に始まる自己鍛錬の再設計循環のもたらすものの違いは、とてつもなく大きい!
誰しも間違うし、しくじるし、そんな時、間髪いれずにごめんなさい!と言える体質こそ、ラッキーの種ではないかと思うのですが、、、、。
『そんな細かいことにいちいち口を出さなくても、、、』とためらったり。
そういう気分が半々ではなく、51対49のようなバランスになったとき、何かが崩れ始めたり、どこかに歪みが生じたりするのではないかと考えます。
『ま、いいか』と1度、見逃したことは、こちらはおおめに見たつもりでも見逃された相手にすれば、それ自体がどのようなことであれ、『この前は良くて今回はなぜダメなの?』と気づきの矛先がその段階ですでにぶれる危険性も孕んでいます。叱ることの難しさと重要性はここに強く根ざしていそうです。そのときその場で叱る、スリと同じで現行犯!と相当、明快に自覚していても嫌われたくないという思惑も手伝って、叱ることは至難の業へと登り詰めます。
先日、ある会に連絡もなく欠席された御仁から、数日たって行けなかった理由をご報告頂きました。正直言って、今更、理由を伺っても、だからどうなの?という気分であり、むしろ理由はどうあれ、連絡もなく欠席した行為に対してなぜ一言の謝罪もないのか、不思議でしょうがないのが率直な感想です。
たとえば約束の時間に遅れてきて、あれこれ遅れた理由をまくしたて、自己を正当化して『だから自分は悪くない!』と見事に証明して見せたつもりでも、待たされた相手がそれで納得するはずはありません。百歩譲って、たしかに最もな理由があったとしても、まず遅れた事実を謝る。素直に謙虚に誠実にあっさり謝る!ことがなぜか、出来にくいことになってきてはいないでしょうか。
そんなモヤモヤを抱えつつ、京都流を眺めていたら、【おやかまっさん】の中でドンピシャリのご指摘があり、少し背中を押して頂いた気分です。
謝ること!がまるで何かの負けを認めることであるかのような錯覚から早々に脱却し、それは決して自己否定ではないことに思い至りたいと考えます。
むしろ、謝ることは、その時点の自らの至らなさにをありのままに素直に潔く自己肯定する重要なプロセスのひとつではないでしょうか。それがあるからこそ、次なる成長のプロセスが始まる。いえ、そこからしか始まらない。
理由探しの責任転嫁の循環がやがてもたらすものと、謝罪に始まる自己鍛錬の再設計循環のもたらすものの違いは、とてつもなく大きい!
誰しも間違うし、しくじるし、そんな時、間髪いれずにごめんなさい!と言える体質こそ、ラッキーの種ではないかと思うのですが、、、、。
2006年10月19日木曜日
無意味の見直し!
ピンクレディの復活コンサートの模様をドキュメンタリー番組で見たとき、正直凄いな!と感動した記憶があります。さほど変わらない年齢(のはず?)の2人の身体のラインの美しさとしなやかさ、そして圧倒的なパワー。最も驚いたのはスタジオでのケイちゃんのインタビュー姿。床に座って左右に大きく開脚、身体を前傾させ、床に両肘をつけながらのインタビュー姿。つまりストッレッチの合間に取材!という設定。その柔軟性にガツン!と刺激を受けました。
根拠を問われると困るのですが、持論のひとつに【頭の固さは身体の硬さに比例する】というのがあります。たまにやって頂く、頭皮マッサージなどで『頭固いですね?』と言われる度に、その部位の硬さよりも【考え方や思考、捉え方や見方などの柔軟性の低下】を指摘されているようで、内心ひどくダメージを受けることがありますが、、、、それはこの信条にも近い持論によります。
赤ちゃんのときにはぐにゃぐにゃに柔らかな身体。頭脳も同様に柔らかく、ゆえに驚くほどのスピードで沢山のことを学んでいきます。しかし、加齢と共にやがて硬くなってゆく身体。そこで停止する思考。
個人的にはストッレチや筋トレに毎朝、そこそこ勤しんでいたのですが、、、、
ケイちゃんを見て『足りない!努力不足だ!』を痛感し、以来、いつものメニューに床に胸がつく!をプラスしてそろそろ丸2年、、、ようやく近頃は少しマシになった気が致します。ということで、どうせ身体を動かすなら意味のない仕草や動作より、目標のあるソレをお薦めいたします。
ミズタニセレクトで、感じワルイ!動作を挙げれば、【腕組み・頬杖・足組み・指先いじり・爪いじり、髪の毛いじり・全開放のあくび・だらしない姿勢全般・、指差し・つめをかむ・仁王立ち・首をかしげる・口ビルを突き出す・反り返る】あたりでしょうか?いずれも無意味なら即刻、改善が望まれます。
いつだったか、東京出張の折。会社の後輩に近くの郵便局の場所を尋ねたら、その場の床に足で地図を書き始めたので、びっくり仰天!
その場で指導!となりましたが、何気なくやっていることって怖いかも、、、。
根拠を問われると困るのですが、持論のひとつに【頭の固さは身体の硬さに比例する】というのがあります。たまにやって頂く、頭皮マッサージなどで『頭固いですね?』と言われる度に、その部位の硬さよりも【考え方や思考、捉え方や見方などの柔軟性の低下】を指摘されているようで、内心ひどくダメージを受けることがありますが、、、、それはこの信条にも近い持論によります。
赤ちゃんのときにはぐにゃぐにゃに柔らかな身体。頭脳も同様に柔らかく、ゆえに驚くほどのスピードで沢山のことを学んでいきます。しかし、加齢と共にやがて硬くなってゆく身体。そこで停止する思考。
個人的にはストッレチや筋トレに毎朝、そこそこ勤しんでいたのですが、、、、
ケイちゃんを見て『足りない!努力不足だ!』を痛感し、以来、いつものメニューに床に胸がつく!をプラスしてそろそろ丸2年、、、ようやく近頃は少しマシになった気が致します。ということで、どうせ身体を動かすなら意味のない仕草や動作より、目標のあるソレをお薦めいたします。
ミズタニセレクトで、感じワルイ!動作を挙げれば、【腕組み・頬杖・足組み・指先いじり・爪いじり、髪の毛いじり・全開放のあくび・だらしない姿勢全般・、指差し・つめをかむ・仁王立ち・首をかしげる・口ビルを突き出す・反り返る】あたりでしょうか?いずれも無意味なら即刻、改善が望まれます。
いつだったか、東京出張の折。会社の後輩に近くの郵便局の場所を尋ねたら、その場の床に足で地図を書き始めたので、びっくり仰天!
その場で指導!となりましたが、何気なくやっていることって怖いかも、、、。
2006年10月18日水曜日
腕組み・考察
癖になっている仕草や、悪気ない動作がもし自分の印象を知らず知らずの内に悪くしているとしたら、誰だってすぐさま改善行動に取り組むはずです。
ところがそうも理屈通りにゆかないところが人の世の常であり、不思議な処。
身体には良くないとわかっていてやめられないタバコやお酒。ダイエットの敵と言いながら、ちょっとだけならとするつまみ食い。運動不足を嘆きながらゴロゴロとテレビの前から微動だしない身体。ギャンブルしかり、寄り道しかり、無駄使いしかり、『イカンいかん』と言いつつ繰り返している何かが、誰にでも一つや二つはありそうです。
『だから人生、おもしろいのよ!』と達観できる年齢、心境かつ自他共に認められる状況に至るまでには、もう少し時間も努力も問われそうですね。そこであらためて注目してみたいのが【腕組み】という課題。だいたいどういう状況において、人は腕組みをするのでしょうか?と質問されたら、どう答えますか?
難しい問題に直面して、考え込む時には、むしろ【ロダンの考える人】のポーズになりそうですね。となれば、悩んでいる?困っている?あるいはただ手持ち無沙汰?そもそも腕組みなんか、めったにしない?あるいはしているか否か自覚がない?このあたりからの検証も必要かもしれませんね。反対に向き合う誰かに【腕組み】をされたとき、どんな気分になりそうでしょうか?
【腕組み】がよく見受けられるシチュエーションとしてはセミナーや講演等で誰かの話を聞いている時、はたまた商談や会議中、あるいは数人でのミーティング中、もしくは電車の中での居眠りモード。かなり勇気を振り絞って申し上げるならば、かつ偏見かもしれませんが圧倒的に男性の方に【腕組み】が多いように思いますが如何なものでしょうか?
【腕組み】は実は防御であり、勢い他者から身を守るために相手を<拒絶、否定する>という意味を持つ動作になります。
ゆえに【相手を受け入れる、認める】気分の時には、NG動作となる次第。
ところがそうも理屈通りにゆかないところが人の世の常であり、不思議な処。
身体には良くないとわかっていてやめられないタバコやお酒。ダイエットの敵と言いながら、ちょっとだけならとするつまみ食い。運動不足を嘆きながらゴロゴロとテレビの前から微動だしない身体。ギャンブルしかり、寄り道しかり、無駄使いしかり、『イカンいかん』と言いつつ繰り返している何かが、誰にでも一つや二つはありそうです。
『だから人生、おもしろいのよ!』と達観できる年齢、心境かつ自他共に認められる状況に至るまでには、もう少し時間も努力も問われそうですね。そこであらためて注目してみたいのが【腕組み】という課題。だいたいどういう状況において、人は腕組みをするのでしょうか?と質問されたら、どう答えますか?
難しい問題に直面して、考え込む時には、むしろ【ロダンの考える人】のポーズになりそうですね。となれば、悩んでいる?困っている?あるいはただ手持ち無沙汰?そもそも腕組みなんか、めったにしない?あるいはしているか否か自覚がない?このあたりからの検証も必要かもしれませんね。反対に向き合う誰かに【腕組み】をされたとき、どんな気分になりそうでしょうか?
【腕組み】がよく見受けられるシチュエーションとしてはセミナーや講演等で誰かの話を聞いている時、はたまた商談や会議中、あるいは数人でのミーティング中、もしくは電車の中での居眠りモード。かなり勇気を振り絞って申し上げるならば、かつ偏見かもしれませんが圧倒的に男性の方に【腕組み】が多いように思いますが如何なものでしょうか?
【腕組み】は実は防御であり、勢い他者から身を守るために相手を<拒絶、否定する>という意味を持つ動作になります。
ゆえに【相手を受け入れる、認める】気分の時には、NG動作となる次第。
2006年10月17日火曜日
仕草のエピソード
朝晩ほどは混み合っていないもののそこそこの乗車率の電車の中。
肩より少し長めの髪形をした若い女性がドア付近に立っておられました。
その女性の後ろにはほぼ同じ背格好の少し年配の女性が立っておられました。
何気なく、見ているとドア側の女性が肩より少し長めの髪の毛をどういう訳か、ひっきりなしに後ろに掻き揚げています。
それはまさにシャンプーリンスのコマーシャルやちょっと気取った雰囲気のシチュエーションならピッタリの仕草という感じです。が、しかし、そこは大阪地下鉄・御堂筋線の中。しかも押しなべて高い乗降率を誇る、梅田から本町に向かう車中での光景でした。
彼女がうなじに差し入れた手の甲で後方に撥ね上げる髪の毛は、彼女の背中に向き合っている少し年配の女性の顔を1度ならず、、2度、3度とまるでからかうように直撃します。当然、その攻撃に出くわした後方の女性はその都度、前後左右に顔をそらして応戦モード。だんだん不愉快色が濃くなってゆきます。
自分の悪気ない仕草が後ろでどんな事態を展開させているのか、まったく気づいていないその女性は涼しい顔で、癖としか言いようがない仕草をテンポよく繰り返します。さて、この間、時間にすれば、おそらく1分足らず。
とうとう堪り兼ねた後方の女性が『ちょっとアンタ、さっきから髪の毛が顔に当たってんね、そんなにうっとしいねやったら、散髪いって、切ってきよし!』とピシャリ、明快なご意見のご指摘!をなさいました。
驚いたのは車中の反応です。何人かのくすくす笑いと数名のぱちぱち!と賛同の拍手と『スミマセン!』とびっくりしつつうなだれる女性の謝罪の声とが、ほとんど同時にそこに展開されました。皆さん、見てないようで見ていたんだ!と妙に心地よい一瞬の出来事でした。大阪弁っていいな!こういうのいいな!こんなふうに何かが上手くキャッチボールできたら、、、、いいな!
そんなことをしみじみ考えさせてくれた仕草・実話エピソードでした。
肩より少し長めの髪形をした若い女性がドア付近に立っておられました。
その女性の後ろにはほぼ同じ背格好の少し年配の女性が立っておられました。
何気なく、見ているとドア側の女性が肩より少し長めの髪の毛をどういう訳か、ひっきりなしに後ろに掻き揚げています。
それはまさにシャンプーリンスのコマーシャルやちょっと気取った雰囲気のシチュエーションならピッタリの仕草という感じです。が、しかし、そこは大阪地下鉄・御堂筋線の中。しかも押しなべて高い乗降率を誇る、梅田から本町に向かう車中での光景でした。
彼女がうなじに差し入れた手の甲で後方に撥ね上げる髪の毛は、彼女の背中に向き合っている少し年配の女性の顔を1度ならず、、2度、3度とまるでからかうように直撃します。当然、その攻撃に出くわした後方の女性はその都度、前後左右に顔をそらして応戦モード。だんだん不愉快色が濃くなってゆきます。
自分の悪気ない仕草が後ろでどんな事態を展開させているのか、まったく気づいていないその女性は涼しい顔で、癖としか言いようがない仕草をテンポよく繰り返します。さて、この間、時間にすれば、おそらく1分足らず。
とうとう堪り兼ねた後方の女性が『ちょっとアンタ、さっきから髪の毛が顔に当たってんね、そんなにうっとしいねやったら、散髪いって、切ってきよし!』とピシャリ、明快なご意見のご指摘!をなさいました。
驚いたのは車中の反応です。何人かのくすくす笑いと数名のぱちぱち!と賛同の拍手と『スミマセン!』とびっくりしつつうなだれる女性の謝罪の声とが、ほとんど同時にそこに展開されました。皆さん、見てないようで見ていたんだ!と妙に心地よい一瞬の出来事でした。大阪弁っていいな!こういうのいいな!こんなふうに何かが上手くキャッチボールできたら、、、、いいな!
そんなことをしみじみ考えさせてくれた仕草・実話エピソードでした。
2006年10月16日月曜日
無くて七癖、、。
『無くて七癖、有って四十八癖』(ナクテナナクセ、アッテシジュウハックセ)と申しますが、ご自身の癖はいくつくらい掌握されていますか?
ここでことわざ通りに最低7つ、スラスラ言えるようなら、なかなかの御仁。ところが普通は自分の癖に案外、無頓着なものです。むしろ職場の仲間のように、身近な他人の方がしっかり掌握してくれているから不思議です。鼻をこする、耳をいじる、おでこをかく、顎をさする、口をとがらす、首の後ろをなでる、髪の毛をひっきりなしに指先にからめる等など、あらためて観察してみるとあれこれ、結構目に付き始めます。さらにからだ全体にこれが拡大されれば、さぞ個性的な癖の数々が散見されることになるでしょうね。ちょっとした癖と日常動作に伴う仕草、その仕草の集合体としての動作、このあたりの切るに切れない関わりを【滑らかな対人関係の構築】という観点から捉えることで、好感度設計の新たな手掛り探索につなげることが出来るかもしれません。
そういえば、商談中にいつも器用にボールペンを指先でくるくる回している営業マンがいらしゃいました。へえー、随分器用だな!と感心して横目で眺めつつ、内心は<意味のないことしてないで、メモでも取りなさいよ!>と思うことがしばしばありました。
あるいは、この夏、どこかのビアガーデンでいかにも今時の若者、アルバイト嬢がこちらのオーダーをボールペンで手の甲に書き留める姿にびっくり仰天。思わず『メモ用紙とかはないの?』と親身になって聞いてしまっていました。
ちょっとした癖、仕草にまつわる快、不快は紙一重。しかし、こうしたものがすこしづつ積み重なって、やがて確たる個人の評価が作り上げられていくのも事実です。多民族国家であるが故に、動作学<キネシクス>が早くから発達したアメリカに比べると、日本におけるソレはまだまだ、特殊なケースのリハビリモードが中心となるのかもしれませんが、日常の何気ない仕草にも課題は沢山ありそうです。今週は意識してそんな無意識に向き合ってまいります。
ここでことわざ通りに最低7つ、スラスラ言えるようなら、なかなかの御仁。ところが普通は自分の癖に案外、無頓着なものです。むしろ職場の仲間のように、身近な他人の方がしっかり掌握してくれているから不思議です。鼻をこする、耳をいじる、おでこをかく、顎をさする、口をとがらす、首の後ろをなでる、髪の毛をひっきりなしに指先にからめる等など、あらためて観察してみるとあれこれ、結構目に付き始めます。さらにからだ全体にこれが拡大されれば、さぞ個性的な癖の数々が散見されることになるでしょうね。ちょっとした癖と日常動作に伴う仕草、その仕草の集合体としての動作、このあたりの切るに切れない関わりを【滑らかな対人関係の構築】という観点から捉えることで、好感度設計の新たな手掛り探索につなげることが出来るかもしれません。
そういえば、商談中にいつも器用にボールペンを指先でくるくる回している営業マンがいらしゃいました。へえー、随分器用だな!と感心して横目で眺めつつ、内心は<意味のないことしてないで、メモでも取りなさいよ!>と思うことがしばしばありました。
あるいは、この夏、どこかのビアガーデンでいかにも今時の若者、アルバイト嬢がこちらのオーダーをボールペンで手の甲に書き留める姿にびっくり仰天。思わず『メモ用紙とかはないの?』と親身になって聞いてしまっていました。
ちょっとした癖、仕草にまつわる快、不快は紙一重。しかし、こうしたものがすこしづつ積み重なって、やがて確たる個人の評価が作り上げられていくのも事実です。多民族国家であるが故に、動作学<キネシクス>が早くから発達したアメリカに比べると、日本におけるソレはまだまだ、特殊なケースのリハビリモードが中心となるのかもしれませんが、日常の何気ない仕草にも課題は沢山ありそうです。今週は意識してそんな無意識に向き合ってまいります。
2006年10月15日日曜日
私の履歴書、乱にいて美を忘れず、貫く・創業の精神(著者:塚本幸一)
著者:塚本幸
タイトル:私の履歴書
初版:1991年
出版社:日本経済新聞社
タイトル:乱にいて美を忘れず
初版:1992年
出版社:東京新聞出版局
タイトル:貫く・創業の精神
初版:1996年
出版社:日本経済新聞社
穏やかな秋晴れの休日、夕暮れの散歩の道すがら、かすかに色づき始めた木々を眺めていると毎年、ごく当たり前に繰り返される光景ではありますが、自然の凄さに改めて畏敬の念を抱かずにはいられません。命あるものがその生命の輝きに向かって精一杯努めることが、どれほど大切なことか、突然、そんなことがしみじみ有難いな!とこみ上げてくる瞬間です。
個人的に秋はどうも、そういうモードになりやすいようで、勢い思い出すのは<生かされた人生>が持論の故・塚本幸一氏のことです。ご存知のように女性下着メーカー、ワコールの創業者であった塚本氏は私が同社に入社した頃は、もちろんお元気バリバリ!年に2回のボーナスの折には必ず、本社ビル勤務の全員に握手で賞与を手渡してくださり、夕方には手がパンパンに腫れ上がった実績の御仁。ハンサムでパワフルで遊び人で強烈なリーダーシップの持ち主。
その後、京都商工会議所会頭を始め、多くの公務のかたわら、それでも毎月の社内報には欠かさず巻頭言を執筆され、月初朝礼では多忙な中を縫って、壇上に立ち、いつも熱弁をふるっておられました。そんな時、お話はやがてあのインパール作戦からの奇跡の生還へと発展し、【人間は生きているのではなく、生かされている!】と声をひときわ強めて語られたことが、懐かしく蘇ります。
人間の命は①植物的生命②動物的生命③精神的生命の三種構造といわれています。①の植物的生命は植物にも動物にもあり、消化、呼吸、循環などの働きを司る生命で、人間の場合は主として内臓の働きをコントロールする役割を担い、最も原始的な生命【第一生命】と呼ばれています。心臓がちゃんと動く。呼吸が乱れない。生物として生きるための根本生命です。しかもこれは見事に自動的にそう動くようにあらかじめ設計されています。今、この瞬間にも血液は体をめぐり、意思の働きとは別次元で生命維持への営みが行われています。これだけみても人間は自らの力で生きているのではなく、生かされているのだということに思い至りますが、本当に自覚しているかというと怪しいものです。
そこで、生かされていることへの謙虚な気づきを塚本氏の言葉で味わってご覧になりませんか?代表的な3冊をご紹介します。
タイトル:私の履歴書
初版:1991年
出版社:日本経済新聞社
タイトル:乱にいて美を忘れず
初版:1992年
出版社:東京新聞出版局
タイトル:貫く・創業の精神
初版:1996年
出版社:日本経済新聞社
穏やかな秋晴れの休日、夕暮れの散歩の道すがら、かすかに色づき始めた木々を眺めていると毎年、ごく当たり前に繰り返される光景ではありますが、自然の凄さに改めて畏敬の念を抱かずにはいられません。命あるものがその生命の輝きに向かって精一杯努めることが、どれほど大切なことか、突然、そんなことがしみじみ有難いな!とこみ上げてくる瞬間です。
個人的に秋はどうも、そういうモードになりやすいようで、勢い思い出すのは<生かされた人生>が持論の故・塚本幸一氏のことです。ご存知のように女性下着メーカー、ワコールの創業者であった塚本氏は私が同社に入社した頃は、もちろんお元気バリバリ!年に2回のボーナスの折には必ず、本社ビル勤務の全員に握手で賞与を手渡してくださり、夕方には手がパンパンに腫れ上がった実績の御仁。ハンサムでパワフルで遊び人で強烈なリーダーシップの持ち主。
その後、京都商工会議所会頭を始め、多くの公務のかたわら、それでも毎月の社内報には欠かさず巻頭言を執筆され、月初朝礼では多忙な中を縫って、壇上に立ち、いつも熱弁をふるっておられました。そんな時、お話はやがてあのインパール作戦からの奇跡の生還へと発展し、【人間は生きているのではなく、生かされている!】と声をひときわ強めて語られたことが、懐かしく蘇ります。
人間の命は①植物的生命②動物的生命③精神的生命の三種構造といわれています。①の植物的生命は植物にも動物にもあり、消化、呼吸、循環などの働きを司る生命で、人間の場合は主として内臓の働きをコントロールする役割を担い、最も原始的な生命【第一生命】と呼ばれています。心臓がちゃんと動く。呼吸が乱れない。生物として生きるための根本生命です。しかもこれは見事に自動的にそう動くようにあらかじめ設計されています。今、この瞬間にも血液は体をめぐり、意思の働きとは別次元で生命維持への営みが行われています。これだけみても人間は自らの力で生きているのではなく、生かされているのだということに思い至りますが、本当に自覚しているかというと怪しいものです。
そこで、生かされていることへの謙虚な気づきを塚本氏の言葉で味わってご覧になりませんか?代表的な3冊をご紹介します。
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