2006年10月28日土曜日

想像と創造

カッコウという鳥は歌でも有名ですが、もうひとつ【托卵する】ことでも知られています。【托卵】とは他の鳥に卵を委託することを意味しています。

まるで保育所みたいに偉く面倒見の良い便利な鳥がいるわけではなく、カッコウが勝手に別の鳥の巣に自分の卵を産み落としてゆくという我儘な方法論です。初めてテレビの番組で見たそれはかなり衝撃的であり、自然界の凄さに舌を巻いた記憶のひとつ。カッコウは親鳥がわずかに巣を離れた隙に、神業とも言うべき素早さで卵を産み、数合わせにもともとあった卵を1個もって逃げます。

カッコウはおよそ14個の卵をこうして、ダルマツグミをはじめ、様々な鳥の巣に1個づつ、産み落としてゆきます。その後、何かの本で眼にした記事には、カッコウはその巣に中の卵に似せた卵を産み分けることすら出来ると紹介されていました。つまりカッコウは別の鳥の巣の中の卵を見て、こんな卵を産むぞ!とイメージし、それを現実にクリエイトする能力を持っている!ということになります。

これは凄い!と感動しつつ、でもカッコウごときに出来るなら、人間だって簡単に出来るのかもしれないとあらためて考えていた折、ある建築関係の方にこの話をしたら、【イメージして、クリエイトする】そんなの当たり前じゃないかごく普通のことだとあきれられてしまいました。

いわく、『家を建てよう!という時、いきなり工事には取り掛からないよね』
まずはどんな家を建てたいのか、予算は?構造は?広さは?そして様式は、とありとあらゆることをイメージして、ひとつひとつ詰めてゆく。その結果、洋風の2階建ての建坪いくらの、予算がどのくらいの、、、、という計画が出来上がり、これに沿って具体的な工事、すなわちクリエイトが始まってゆく次第。

確かにおっしゃる通り。晩御飯の買い物ひとつも、今日はシチューとイメージを決めてからその食材調達というクリエイトが始まるわけです。

この言葉を日本語にすれば、【想像するから、創造される!】となりますね。

2006年10月27日金曜日

きれい好きの価値

京都を代表する河原町通り、中でも多くの人出で賑合う三条から四条界隈は中心スポットゆえに公共マナーが問われるメッカでもあります。日頃から環境美化、あるいはその維持継続への商店街の皆々様のご苦労は察するに余りありますが、休日明けなどはさすがに街全体がグッタリして見えるから不思議です。前日の賑わいを物語る道端のゴミがそうした印象の決め手なのでしょうか。

そうした街中で、朝から清掃されている様子を時折、タクシーやバスの車中から拝見していますと、道端のゴミの大半はタバコの吸殻ではないかと思えるのですが、実際はどうなのでしょうか?バス停などでも灰皿が備え付けてあるところと、そうでないところが様々ですが、あればあったで汚いことこの上なし。喫煙マナーを守っておられる愛煙家には申し訳ありませんが、東京千代田区の如く、禁煙都市宣言をすべき!ではと本気で思ったりしております。

さて【割れ窓理論】をご存知でしょうか?道端に放置された乗用車。何日かが過ぎ、ある日、誰かが悪ふざけて、窓を割ってしまう。途端に乗用車はそれまでとは異なり、あっという間に見るも無残に壊されてゆくというストーリー。
つまり、【割れた窓】というあるきっかけが生じたことで、この場合は【破壊行為】というべき、何かが加速度的に形成されることを意味しています。
ニューヨークの地下鉄の落書きを排除するために、徹底して掃除をした結果、地下鉄の犯罪が激減した事実はあまりにも有名ですが、これと同じことを逆から眺めた理論ということになります。

京都の街に古くから続く【門掃き】の習慣は、こうして考えて見ると景観美化とともに門前のきれいさが実は安全安心への眼に見える設計手順と知っていたからこその知恵の伝承なのかもしれません。

毎朝、自社のトイレを素手で掃除し続けて超有名なイエローハットの創業者、鍵山さんを見習うことは無理でも、せめて自らの行為で街を汚さない!会社を汚さない、あらゆる公共スペースにそんなつもりで向き合えれば、お互い様の快適が心地よさを生む善循環の流れに必ず発展してゆきます。
汚いよりきれいが好きなのは、人類の共通点のひとつ。身も心も環境もきれいをめざして、意識してきれい!がラッキーの体質を育みます!

2006年10月26日木曜日

壁に耳あり、適正音量

10月も終盤を迎え、紅葉便りがそろそろ気になる頃、秋の虫の音色がだんだん
遠のいてゆきます。我が家は京都御所のすぐ近くなので、夜毎の愛犬のお散歩タイムがちゃっかり、御所の虫の音コンサート拝聴も兼ねていたりします。
やがてしんしんと静寂だけに包まれる頃、随所に点在する大銀杏が見事な景観を見せ始めることになり、紅葉のオーケストラが姿を現します。

さて、公共マナーの乱れに伴い、京都御所内のそこかしこに設置されていたゴミ箱が撤去、集約されて早や5年以上にもなるのでしょうか?ゴミ箱があるから、ごみがあふれかえる状況へのかなり切迫した対処ではなかったかと推察しますが、ようやくごみは持ち帰るが鉄則になりつつある昨今、京都市は今月からのごみ収集袋の有料化もあって、ますます一人ひとりの自覚に根ざした取り組みへの期待が問われる段階といえそうです。

そこで老若男女を問わず、自覚に根ざした取り組みに期待したい事柄として公共スペースでの【声の音量】を問いかけたいと思います。ここ数年、いつのまにか通勤ラッシュとは無縁の生活パターンになり、その分、昼間の地下鉄・バス・私鉄各線の利用頻度が高まる中、一番、ビックリしたのはボリューム調整機能を持たない大きな声で繰り広げられる仲間内の会話!でした。

空いているバスなどでこういうケースに遭遇すると、あえて聞き耳をダンボのように欹てずとも、らくらく人様のプライベートなお話が伺えちゃう特典付きでもあります。こういう事態を安定供給してくれるのは、やはり高校生がダントツのようですが、大の大人も捨てたものではないので困ったものです。

どこの何がどう美味しいとか、どこの店がどんなサービスをしてくれるとか、このあたりなら罪がなくてよいのでしょうが、先生の誹謗中傷や授業内容のいささか突っ込んだ話になってくると、実名なども容赦なく飛び交うだけに、いささか事態は様相を変えることになります。加えて制服だったりする場合はダメージは学校評価にも直結します。では私服なら構わんのか!ではなく、こちらも路線によりある程度は察しのつくケースもあり、指導の限界なのか、放棄なのか、いずれにしても先生方が目指しておられる姿とはかけ離れた状況へと加速邁進するプロセスに相成ります。それでなくても今、大変だとは思いますが、、、、、。

適正音量への指導はいつから、どこで始めればよいのか、きちんと考えなくてはいけない大きな課題のひとつと重く受け止めています。ちなみにビジネスマン各位も案外堂々と大きな声の車中会話で、そんなこと言っていいの!を連発されておられます!
壁に耳あり、障子に眼あり!

2006年10月25日水曜日

キーボードの音色

新幹線の乗車模様で様変わりした光景といえば、やはりパソコン持込み普及度でしょうか。膝に広げたノートスタイルに向かってド真剣に仕事の資料作成に取り組む方もいらっしゃれば、ゲーム、映画鑑賞等、様々ですが、車中でもオフィスでも案外、耳障りなのは、キーボード操作に伴う音。

いわゆるブラインドタッチで大変、滑らかな操作が出来る方の場合は見事に音がしないのですが、我が身も含めて、まだまだ!というレベルの層が操作する時のキーボード音がやけに大きく響いて、なんとも不快指数大!ということがあります。とりわけ、変換キーやエンターキーを押すときに妙に力が入る癖などは本人はまったく自覚がない分、改善の兆しが望めないので、あえてこの場を借りて自己点検をお願いします。いっそ、パソコン教室のメニューの中に【キーボード操作の力加減】というメニューを加えて頂いてもよいかも?

指圧の場合は指先の力加減を客観的に掌握するために秤を押して、ひとつの目安にされるようなので、同じ要領で叩き方の音量点検が出来れば楽しいかも!

個人的かつ過去の体験をもとに、言わせて頂ければ、どういう訳か特定のキーを叩く時だけ、その指先が一旦、上昇し、力強く振り下ろされるという段取りが多いように思われます。そんなに力いっぱい叩かなくても、わかってますから、、、という声がキーボードから聞こえてきそうな勢いです。その結果、お隣さん及びご近所の思考力はその都度、妨害、阻害モードになり、おかげさまでストレスは目に見えて上昇ルートに乗っかることになります。究極は職場の生産性の低下にまっしぐら。なので細かなことと見逃すわけにもいきません。

音というのは不思議なもので一旦、気になりだすと止まることなくどんどん、気になって意識の大半を占めてしまう、厄介な性質がありそうです。ピアノの音がうるさいとか、レコードが耳障りだとか、足音が響くとか、BGMも大きすぎれば、仕事の邪魔、かくして騒音公害の種は尽きないことになります。

【他者配慮が欠落すると、どんな動作も音がする】という原点に照らして、動作が生み出す様々な音に公共性の観点からも意識を向けたい秋の静かな夜です。

2006年10月24日火曜日

便利の先の不便の未来

仕事をしていく上でなくてはならないものは沢山ありますが、中でも重要度の高い【パソコン、携帯電話】あたりは、およそ30年前!には存在しなかった代物だけに、今日の普及浸透ぶりはいささか空恐ろしくもあります。

携帯がなければ仕事に支障をきたすだけでなく、日常生活にも影響しちゃう!という知り合いはいっぱいおられます。取り分けメールのやり取りの便利さは対人関係のコミュニケーションレベルを一気に進化させたのではないかと睨んでおります。但し、それは【狭く、深く】においての成果であり、親しい間柄がより一層、肌理細やかなやり取りで、親密度を飛躍的に向上させつつある点に限られていそうで、そこにえもいわれぬ大きな課題の気配が漂います。

便利であればあるほど不便な事態に突き進んでゆく実態は、先日、携帯を持ち忘れて外出した折に痛感させて頂きました。たとえば、今や携帯は個人の記憶の役割も担ってくれているため、どこかに電話しようとしても番号がまったくわからない!という至って不都合な状況が展開されます。以前なら覚えていたソレを今は完全に携帯任せ!故に携帯水没事故に遭遇された友人知人はしばし社会生活からの抹殺を余儀なくされるということになります。

さて、この携帯電話の公共マナーにおいては多くの方々が眉を顰めてやまない状況であろうと推察いたします。電車やバスの中での車内放送が滑稽に思えるほどの狼藉ぶりは、どういう訳か、老若男女を問わずの光景でもあります。
若者だけならいざ知らず、そこそこの恰幅のどこかの社長と思しき御仁が誰、憚ることなくわめき散らす姿には、なんとかしないとこの国が危ない!という危機感すら感じさせます。大人が大手を振ってやって見せれば、それを子供が真似するのは自然な現象であります。

緊急事態もおありでしょうが、せめて小声で!かつ周囲に配慮している気配を身体の姿勢に漂わせつつ、、、、そんな指導がその内、メニューに加わりそうです

2006年10月23日月曜日

公共マナーの行方

電車やバスなどの公共交通機関で気になることのひとつに、飲食のマナーがあります。飴やガムくらいはまあ、いいとして、パンとかおにぎりを食べるのは如何なものでしょうか?クッキーならよくて煎餅はダメ?みかんはいいけどバナナはいけない。いえ、いえ食べ物の種類によって良し悪しを判断する問題ではなさそうです。公共スペースでそもそもどこまでそれが許されるのかという捉え方が非常に曖昧かつ認識の格差が急速に広がりつつあるように思います。

正直言って、お行儀のあまりよろしくない今時、若者系の作法違反ならば、それはいつの時代にも形を変えて出現するありがちな光景として、見逃してもよいのですが、、、昨今のそれはいささか状況が異なってきているようです。

つい先日も和服姿の妙齢のご婦人が混み合うバスの中でムシャムシャとサンドイッチを召上がる姿を拝見しました。スーツにネクタイのビジネスマンがいかにも朝ごはんという風情でボックス型紙パックのオレンジジュースにヨーグルトとクロワッサン!を交互に口に運ぶ光景はいくらなんでも公共マナーを蔑ろにしすぎてはいないでしょうか。

秋祭りの帰り道、アツアツのたこ焼きを買って夕暮れの道すがらに頬張って歩くのと一緒にしちゃいけない何かが、そこには公共道徳の名のもとに存在したはずです。それが急速に失われつつある危機感をどう言えばいいのでしょうか。

とは言え、なんとも割り切れないもどかしさはその一方で確かに存在し、悩みは深まります。それは新幹線の車中やJRの特急列車なら、お弁当を食べてお茶飲んでも良いのに、在来線はなぜダメ?なのかという問題です。どこから良くてどこからが許されないのか、その境界線が至って不鮮明です。時速何キロ以上で定めるべきなのか、はたまた旅行ですから!という乗車目的で判断すべきなのか、あるいは混み合う場合はご遠慮ください!という緩やかな応対でいくのか。ここらあたりが余計に問題を複雑に仕立ててゆくようです。

個人的には外でモノは食べちゃいけません!と教育されて育った世代だけに、基本的にはすべてNO!なのですが、じゃ、遠足のお弁当はどうなるのかと問われたら、思い出せませんと国会議員答弁になっちゃいそうです。そんな訳で今週は他人との関わりという公共性も踏まえてマナーの行方を捜索してまいりたいと思います。

2006年10月22日日曜日

勝ちに行く身体(著者:坂田信弘、斉藤孝)

タイトル:勝ちに行く身体
著者:坂田信弘氏(プロゴルファー)、斉藤孝(明治大学文学部教授)
初版:2006年6月10日
出版社:角川書店
705円(税抜)

サラリーマン時代の最終的な肩書きはがんばってた割には【課長】止まりで、今からすれば、なんだ!という気がしなくもありませんが、それはそれで結構大変なプロセスの成果ではありました。昇格試験なんてものをクリアしない限りはその役職にはなれない訳で、しかも試験を受けるためには日頃の勤務態度やら上司からの評価がある一定以上でなければならず、となると当然、仕事だけやっていれば、良いわけでもなく、なかなか狭き門の茨道でした。

そんな課長職まではまだ、随分遠かった頃、故塚本会長の発案で社内呼称が廃止になりました。つまり当時は名前の後に役職名がセットされた呼び方が一般的でしたが、それをやめて一律、さん付けで呼び合うことが導入された訳です。昨日まで岡村社長と呼んでいたのを岡村さん、水谷課長と呼んでいたのを水谷さん!狙いはたしか欧米の職場にように上司と部下がフランクな間柄を設計して、自由な空気の中で職場の生産性を上げようということだったと思います。

が、なかなか呼ぶ方も呼ばれる方も、長い歴史に逆らうことにはかなり抵抗があり、それが定着するのには相当な年月を必要としました。終身雇用が当然で、社員はみな正社員の時代ならではの懐かしい思い出です。

さて、自由にモノが言い合える環境作りに、『さんづけ』がどれほど貢献したのか、わかりませんが、今にして思えば、そのあたりからどうも敬語の使い方がルーズになり、お互い様にだんだん下手になっていったような気がします。

『うん、うん』という部下の返事をいつの間にか、上司が許すようになり、その代わりに部下は上司を可愛い!と見くびるようになり、、、、。
きちんとした言葉使い、そして敬語は相手をどう思っているのかという待遇表現であることをあらためて学ばなければならない切迫した状況やもしれません。