<成果をほめる>ということは、その成果に繋がる何某かの行動をしっかりと観察し、その価値を評価するという一連のプロセスがあり、結果だけを見て
ほめちゃおう!というような都合の良いものでは決してありません。
その意味では<ほめる>も<叱る>も労力は同じ。もっと冷静に見るならば、仕事の指示の段階から、手抜き厳禁の姿勢が問われることになります。
たとえば得意先への表敬訪問の手土産を準備するよう指示した場合、そもそもどのようなものがふさわしいのかというジャンルやら過去のリストやら、予算的なこと、季節的な配慮など、それなりの情報提供がなくてはなりません。
しかもそれを聞いている部下、後輩、担当者の顔つきを見ながら、理解度合いを斟酌することが指示する側の重大な責任でもあります。
期待したことがその通りに為されるか、成されないかは案外、この段階の手抜かり度合いに直結しています。なぜならば、解釈の違いもさることながら、大元の理解レベルにも相当な個人差があるからです。
新幹線の座席指定の手配ひとつも、慣れてくればあらかじめ第2、第3希望くらいは確認した上で対処するようになりますが、初めはそれすら難題です。
何時何分初の<のぞみ○号>の禁煙席!とだけ聞いて、駅まで行って、
満席でした!と舞い戻ってくるのは、よくある無駄足のパターンです。
それだけに指示段階でいくつかの代案を考え、用意できるならば、それなりの成果が見えてこようというものです。もしかすると、この見届けの有無こそが、労をねぎらう自然なほめ言葉の生みの親なのかも知れず、その意味でほめる力の源はゴールではなくスタートラインにあるのかもしれません。
「こんなこともできないのか」と叱らずに済む指導のヒントが、見えますか?
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