何事によらず、出来ない理由の筆頭はなんと言っても<忙しい>という事情に尽きるのでしょうか。はたから拝見している限りはどう贔屓目に見ても段取りが悪いだけだったり。先送りにした結果、余計な手数が増えたせいだったりというようにしか思えない場合も当の本人はそうは思わないのが世間の相場です。
かくいう私自身も人には言うまいと相当、覚悟を決めていても、何かの不手際やご無沙汰の理由を気がついたら忙しさのせいにしていたりします。
さらにこのあたりの事情が知識としてしっかり備わっている場合、ことが進捗しない状況への言い訳は単に忙しいの一点張りではなく、<やる気はあるのですが、時間がなくて>という具合に微妙に変化してゆくことになります。
ただし、どう取り繕ってみても、仮にその言い分の精度が100点満点の
レベルであっても所詮、言い訳は言い訳。このことをわきまえていないと
相当聞き苦しく、言えば言うほど価値を下げることになってゆきます。
それは簡単な約束ひとつも守れないのに、まわりが自分を信頼してくれない!と嘆く愚かさが、せいぜい20代前半までにだけ許される特権であるように。
しかもそれはやがて社会の常識という大きな壁にぶちあったってきちんと自らを律する方向に修正される前提で容認されるべき特権でしかないように。
どんな場合も事実は、厳然とそこにあり、それを変えるのは行動のみです。
さて、永平寺の管長によれば、『悟り』とは
『毎日、同じ時間に同じことをすること』だそうです。
それは人が見ていようがいまいが、自らのために行う大切な何かであって、
そうである以上は何事にも優先して、あるいは必ず取り組まねば成らない何かであるはずです。そしてそれを継続して獲得する成果とその継続そのものから育まれる自信という価値だけがラッキーにも悟りという頂への道筋を示唆してくれるようです。毎日、欠かさずにしていることは何ですか?
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