2006年10月31日火曜日

傘かたげ

地下鉄を利用するとき、我が家から最も近いのは今出川駅になります。
その駅に向かう道すがら、寺町から烏丸までの今出川通りの大半は南側が御所、北側が同志社。歩道は圧倒的に南側が広く、北側は狭くなります。

いつだったか、雨の朝。結構、急ぎ足で駅に向かう時間帯が見事に同志社の学生サン達の通学タイムにバッティングしたことがありました。しかもたまたま同志社前のバス停のめったに押されない押しボタン信号が青になり、いつもなら南側の御所サイドの広い歩道で烏丸までを歩きぬくのに、、、その日に限ってなぜか、北側歩道に進路を取ってしまいました。

おかげさまで駅までの道中は当方の行く手を阻むかのような、学生さんたちとの激しくも情けない、すれ違いバトルが展開されることになりました。

『傘かたげ』という言葉をご存知でしょうか?狭い道で誰かとすれ違うときに自分の傘が相手の傘とぶつからないように、双方が互いの傘をどちらかに傾けてすれ違いを滑らかにする仕草のことを言います。

京都のそこかしこに点在する狭い路地にあっては、お互い様にこの『傘かたげ』をして譲り合いながら、気持ちよく行き交う知恵を育んできたはず。
そしてそれはこの国のどこでも語り継がれ、受け継がれてきたはず、、、。
ではなかったことをその朝、しっかり思い知らされました。

傘の中の顔がこちらからは見えないほどしっかり深くさした傘で、ズンズン突き進んでくる様子はまるで闘牛の牛さながら。正面衝突を避けるためにこちらが傘をよけていても、すれ違うたびに必ず傘のどこかがぶつかり、その拍子に飛び散る雨のしぶきが容赦なく顔や肩に振りかかってくる始末。

もちろん、傘がぶつかったからとて、『ごめんなさい』もなければ、『失礼』も
なく、『あっ』とか『えっ』すらないことに、段々、怒りを通りこして不安と絶望がシャッフルされたような、実にやるせない気分になってしまいました。
いくら見ず知らずの他人とは言え、お互い様に譲り合う心とその表わし方としての公共マナーの教室をこうなったら開催するほかないのでしょうか?

2006年10月30日月曜日

咄嗟の一言

公共マナーにもの申す以上、当方にも自覚と実践が問われますが、急ぎ改善が求められるものとして、【道を行く見ず知らずの人と人がすれ違いざまに軽くぶつかったりするような、偶発的接触時の咄嗟の対応のあり方】が課題です。

大都会であればあるほど悪気なく人と人は不本意ながら触れ合わねばならない機会にしょっちゅう遭遇します。満員電車しかり、コンビにしかり、先日やっと拝見できた平日なのに大盛況のプライスコレクションしかり。

混み合う場所での公共マナーについては、つくづく習慣の重要性に言及したいと思います。それは、たとえば悪気なくすれ違いざまに誰かと自分の肩と肩がほんのわずかであれ、ぶつかったとき、咄嗟にわびる言葉が出るか出ないかの
身体的反応への問いかけという意味になります。

正直に申せば、ここ数年、気になりつつも実践できない我が身があります。
そしてそれは総じて、日本人全体の課題でもなかろうかと思い至ります。
たとえば、どこかの改札口で、あるいはランチで混み合う食堂で、はたまたバーゲンセールのごったがえす人混みの中で、誰かと軽く接触したとき、何某かの謝罪の言葉がスンナリと出てきますか。出せておられますか?

公共マナーとしてぜひ、見習いたいのは、状況はどうであれ、理由すら問わずに、その瞬間に、『ソーリー』とあっさりと謝罪の言葉が出るアメリカ型の体質でしょうか。それはおそらく、見知らぬ者同士の不要な諍いを未然に防ぐための狩猟民族系ならではの基本の処世術の伝承の成果と思われます。

先日、やや急ぎ足で四条通りを東に向かって歩いているときに、同様に急ぎモードで西を目指す、見ず知らずの女性とよけたつもりの最後の瞬間に右手の甲と相手のおそらく左手の甲が瞬間、カツン!と接触しました。

痛い!とこちらが感じた以上、相手も痛かったはずなのに、振り向きもしないで遠ざかる背中に内心、チッ!と舌打ちしている自分がいて、『あーー、まただ!まだダメだ』となんとか反省はするものの技には至らぬ不甲斐無い状況です。『失礼』と咄嗟にさわやかに言葉が出せるようになりたい!四の五の言わずに不愉快を瞬間に主体的に消化する癖付け獲得をしたいと願う日々です。

2006年10月29日日曜日

天風先生座談(著者:宇野千代)

タイトル:天風先生座談
著者:宇野千代(故)
初版:1987年
出版社:廣済堂出版

今月もあと数日、読書の秋!もまもなく終盤戦といった頃合になりますが、納得できる本との出会いや、感動の活字体験を堪能されましたでしょうか?

さて、ほんの少し、昨日のテーマにも関連するあたりから始めてみたいと思います。【想像するから創造される】ということについて。

かつてそのセクシーな容姿で世界的な大女優に登り詰めたマリリンモンローは、その不幸な生い立ちのせいで、幼心に『幸せは決していつまでも続かない』と深く刻みつけてしまった、と言われています。故に後年、人も羨むロマンスの中、幸せの絶頂で彼女はいつもその言葉を思い出し、これはいつまでも続かないと悲しい別離を繰り返すことになります。彼女の私生活はまさに彼女が心に決めて想像した通りに現実を創造し続けた、という切ない解釈になります。
今もって謎とされる死因にもそんな悲しい背景が多分に絡んでいそうです。

反対に時代背景からすれば、驚くほど自由奔放に恋愛をし、しかも明るく楽しく、人生を謳歌し、成功し、長寿を全うされた日本人女性として、故宇野千代さんがおられます。多くの作品を残されましたが、実は映画にもなった『おはん』という作品を執筆後、18年間、1行も書けない!という時期を過ごしておられます。宇野さんがこの長きに亘る暗闇から抜け出し、見事に光溢れる世界に戻ることが出来たのは、あの有名な故、中村天風氏との出会いに拠ります。

宇野さんが書かれた『天風先生座談』は廣済堂出版から1987年に出版されていますが、おそらく今、これを手に入れるのはかなり難しい気もいたします。
が、中村天風氏の本は、宇野千代さんをはるかに超えるほど沢山、出版されていますので、この機会にぜひ、何かにトライしてみてください。

ご自身の体験を土台とされた人生訓は多くの政治家・官僚・経営者が今もって
師と仰ぎ、価値ある人生への羅針盤とも言うべき実践の指南に溢れていますが、
宇野千代さんが天啓と受け止めたそれは『人間は何事も自分の考えた通りになる。出来ないと思うものは出来ない。出来ると信念することはどんなことでも出来る』という言葉だったそうです。

『書けると思えば、書けるの?』そしたら、『本当に書けるようになっちゃったの!』と宇野さんが語る言葉は力強い輝きのメッセージでもあります。

2006年10月28日土曜日

想像と創造

カッコウという鳥は歌でも有名ですが、もうひとつ【托卵する】ことでも知られています。【托卵】とは他の鳥に卵を委託することを意味しています。

まるで保育所みたいに偉く面倒見の良い便利な鳥がいるわけではなく、カッコウが勝手に別の鳥の巣に自分の卵を産み落としてゆくという我儘な方法論です。初めてテレビの番組で見たそれはかなり衝撃的であり、自然界の凄さに舌を巻いた記憶のひとつ。カッコウは親鳥がわずかに巣を離れた隙に、神業とも言うべき素早さで卵を産み、数合わせにもともとあった卵を1個もって逃げます。

カッコウはおよそ14個の卵をこうして、ダルマツグミをはじめ、様々な鳥の巣に1個づつ、産み落としてゆきます。その後、何かの本で眼にした記事には、カッコウはその巣に中の卵に似せた卵を産み分けることすら出来ると紹介されていました。つまりカッコウは別の鳥の巣の中の卵を見て、こんな卵を産むぞ!とイメージし、それを現実にクリエイトする能力を持っている!ということになります。

これは凄い!と感動しつつ、でもカッコウごときに出来るなら、人間だって簡単に出来るのかもしれないとあらためて考えていた折、ある建築関係の方にこの話をしたら、【イメージして、クリエイトする】そんなの当たり前じゃないかごく普通のことだとあきれられてしまいました。

いわく、『家を建てよう!という時、いきなり工事には取り掛からないよね』
まずはどんな家を建てたいのか、予算は?構造は?広さは?そして様式は、とありとあらゆることをイメージして、ひとつひとつ詰めてゆく。その結果、洋風の2階建ての建坪いくらの、予算がどのくらいの、、、、という計画が出来上がり、これに沿って具体的な工事、すなわちクリエイトが始まってゆく次第。

確かにおっしゃる通り。晩御飯の買い物ひとつも、今日はシチューとイメージを決めてからその食材調達というクリエイトが始まるわけです。

この言葉を日本語にすれば、【想像するから、創造される!】となりますね。

2006年10月27日金曜日

きれい好きの価値

京都を代表する河原町通り、中でも多くの人出で賑合う三条から四条界隈は中心スポットゆえに公共マナーが問われるメッカでもあります。日頃から環境美化、あるいはその維持継続への商店街の皆々様のご苦労は察するに余りありますが、休日明けなどはさすがに街全体がグッタリして見えるから不思議です。前日の賑わいを物語る道端のゴミがそうした印象の決め手なのでしょうか。

そうした街中で、朝から清掃されている様子を時折、タクシーやバスの車中から拝見していますと、道端のゴミの大半はタバコの吸殻ではないかと思えるのですが、実際はどうなのでしょうか?バス停などでも灰皿が備え付けてあるところと、そうでないところが様々ですが、あればあったで汚いことこの上なし。喫煙マナーを守っておられる愛煙家には申し訳ありませんが、東京千代田区の如く、禁煙都市宣言をすべき!ではと本気で思ったりしております。

さて【割れ窓理論】をご存知でしょうか?道端に放置された乗用車。何日かが過ぎ、ある日、誰かが悪ふざけて、窓を割ってしまう。途端に乗用車はそれまでとは異なり、あっという間に見るも無残に壊されてゆくというストーリー。
つまり、【割れた窓】というあるきっかけが生じたことで、この場合は【破壊行為】というべき、何かが加速度的に形成されることを意味しています。
ニューヨークの地下鉄の落書きを排除するために、徹底して掃除をした結果、地下鉄の犯罪が激減した事実はあまりにも有名ですが、これと同じことを逆から眺めた理論ということになります。

京都の街に古くから続く【門掃き】の習慣は、こうして考えて見ると景観美化とともに門前のきれいさが実は安全安心への眼に見える設計手順と知っていたからこその知恵の伝承なのかもしれません。

毎朝、自社のトイレを素手で掃除し続けて超有名なイエローハットの創業者、鍵山さんを見習うことは無理でも、せめて自らの行為で街を汚さない!会社を汚さない、あらゆる公共スペースにそんなつもりで向き合えれば、お互い様の快適が心地よさを生む善循環の流れに必ず発展してゆきます。
汚いよりきれいが好きなのは、人類の共通点のひとつ。身も心も環境もきれいをめざして、意識してきれい!がラッキーの体質を育みます!

2006年10月26日木曜日

壁に耳あり、適正音量

10月も終盤を迎え、紅葉便りがそろそろ気になる頃、秋の虫の音色がだんだん
遠のいてゆきます。我が家は京都御所のすぐ近くなので、夜毎の愛犬のお散歩タイムがちゃっかり、御所の虫の音コンサート拝聴も兼ねていたりします。
やがてしんしんと静寂だけに包まれる頃、随所に点在する大銀杏が見事な景観を見せ始めることになり、紅葉のオーケストラが姿を現します。

さて、公共マナーの乱れに伴い、京都御所内のそこかしこに設置されていたゴミ箱が撤去、集約されて早や5年以上にもなるのでしょうか?ゴミ箱があるから、ごみがあふれかえる状況へのかなり切迫した対処ではなかったかと推察しますが、ようやくごみは持ち帰るが鉄則になりつつある昨今、京都市は今月からのごみ収集袋の有料化もあって、ますます一人ひとりの自覚に根ざした取り組みへの期待が問われる段階といえそうです。

そこで老若男女を問わず、自覚に根ざした取り組みに期待したい事柄として公共スペースでの【声の音量】を問いかけたいと思います。ここ数年、いつのまにか通勤ラッシュとは無縁の生活パターンになり、その分、昼間の地下鉄・バス・私鉄各線の利用頻度が高まる中、一番、ビックリしたのはボリューム調整機能を持たない大きな声で繰り広げられる仲間内の会話!でした。

空いているバスなどでこういうケースに遭遇すると、あえて聞き耳をダンボのように欹てずとも、らくらく人様のプライベートなお話が伺えちゃう特典付きでもあります。こういう事態を安定供給してくれるのは、やはり高校生がダントツのようですが、大の大人も捨てたものではないので困ったものです。

どこの何がどう美味しいとか、どこの店がどんなサービスをしてくれるとか、このあたりなら罪がなくてよいのでしょうが、先生の誹謗中傷や授業内容のいささか突っ込んだ話になってくると、実名なども容赦なく飛び交うだけに、いささか事態は様相を変えることになります。加えて制服だったりする場合はダメージは学校評価にも直結します。では私服なら構わんのか!ではなく、こちらも路線によりある程度は察しのつくケースもあり、指導の限界なのか、放棄なのか、いずれにしても先生方が目指しておられる姿とはかけ離れた状況へと加速邁進するプロセスに相成ります。それでなくても今、大変だとは思いますが、、、、、。

適正音量への指導はいつから、どこで始めればよいのか、きちんと考えなくてはいけない大きな課題のひとつと重く受け止めています。ちなみにビジネスマン各位も案外堂々と大きな声の車中会話で、そんなこと言っていいの!を連発されておられます!
壁に耳あり、障子に眼あり!

2006年10月25日水曜日

キーボードの音色

新幹線の乗車模様で様変わりした光景といえば、やはりパソコン持込み普及度でしょうか。膝に広げたノートスタイルに向かってド真剣に仕事の資料作成に取り組む方もいらっしゃれば、ゲーム、映画鑑賞等、様々ですが、車中でもオフィスでも案外、耳障りなのは、キーボード操作に伴う音。

いわゆるブラインドタッチで大変、滑らかな操作が出来る方の場合は見事に音がしないのですが、我が身も含めて、まだまだ!というレベルの層が操作する時のキーボード音がやけに大きく響いて、なんとも不快指数大!ということがあります。とりわけ、変換キーやエンターキーを押すときに妙に力が入る癖などは本人はまったく自覚がない分、改善の兆しが望めないので、あえてこの場を借りて自己点検をお願いします。いっそ、パソコン教室のメニューの中に【キーボード操作の力加減】というメニューを加えて頂いてもよいかも?

指圧の場合は指先の力加減を客観的に掌握するために秤を押して、ひとつの目安にされるようなので、同じ要領で叩き方の音量点検が出来れば楽しいかも!

個人的かつ過去の体験をもとに、言わせて頂ければ、どういう訳か特定のキーを叩く時だけ、その指先が一旦、上昇し、力強く振り下ろされるという段取りが多いように思われます。そんなに力いっぱい叩かなくても、わかってますから、、、という声がキーボードから聞こえてきそうな勢いです。その結果、お隣さん及びご近所の思考力はその都度、妨害、阻害モードになり、おかげさまでストレスは目に見えて上昇ルートに乗っかることになります。究極は職場の生産性の低下にまっしぐら。なので細かなことと見逃すわけにもいきません。

音というのは不思議なもので一旦、気になりだすと止まることなくどんどん、気になって意識の大半を占めてしまう、厄介な性質がありそうです。ピアノの音がうるさいとか、レコードが耳障りだとか、足音が響くとか、BGMも大きすぎれば、仕事の邪魔、かくして騒音公害の種は尽きないことになります。

【他者配慮が欠落すると、どんな動作も音がする】という原点に照らして、動作が生み出す様々な音に公共性の観点からも意識を向けたい秋の静かな夜です。

2006年10月24日火曜日

便利の先の不便の未来

仕事をしていく上でなくてはならないものは沢山ありますが、中でも重要度の高い【パソコン、携帯電話】あたりは、およそ30年前!には存在しなかった代物だけに、今日の普及浸透ぶりはいささか空恐ろしくもあります。

携帯がなければ仕事に支障をきたすだけでなく、日常生活にも影響しちゃう!という知り合いはいっぱいおられます。取り分けメールのやり取りの便利さは対人関係のコミュニケーションレベルを一気に進化させたのではないかと睨んでおります。但し、それは【狭く、深く】においての成果であり、親しい間柄がより一層、肌理細やかなやり取りで、親密度を飛躍的に向上させつつある点に限られていそうで、そこにえもいわれぬ大きな課題の気配が漂います。

便利であればあるほど不便な事態に突き進んでゆく実態は、先日、携帯を持ち忘れて外出した折に痛感させて頂きました。たとえば、今や携帯は個人の記憶の役割も担ってくれているため、どこかに電話しようとしても番号がまったくわからない!という至って不都合な状況が展開されます。以前なら覚えていたソレを今は完全に携帯任せ!故に携帯水没事故に遭遇された友人知人はしばし社会生活からの抹殺を余儀なくされるということになります。

さて、この携帯電話の公共マナーにおいては多くの方々が眉を顰めてやまない状況であろうと推察いたします。電車やバスの中での車内放送が滑稽に思えるほどの狼藉ぶりは、どういう訳か、老若男女を問わずの光景でもあります。
若者だけならいざ知らず、そこそこの恰幅のどこかの社長と思しき御仁が誰、憚ることなくわめき散らす姿には、なんとかしないとこの国が危ない!という危機感すら感じさせます。大人が大手を振ってやって見せれば、それを子供が真似するのは自然な現象であります。

緊急事態もおありでしょうが、せめて小声で!かつ周囲に配慮している気配を身体の姿勢に漂わせつつ、、、、そんな指導がその内、メニューに加わりそうです

2006年10月23日月曜日

公共マナーの行方

電車やバスなどの公共交通機関で気になることのひとつに、飲食のマナーがあります。飴やガムくらいはまあ、いいとして、パンとかおにぎりを食べるのは如何なものでしょうか?クッキーならよくて煎餅はダメ?みかんはいいけどバナナはいけない。いえ、いえ食べ物の種類によって良し悪しを判断する問題ではなさそうです。公共スペースでそもそもどこまでそれが許されるのかという捉え方が非常に曖昧かつ認識の格差が急速に広がりつつあるように思います。

正直言って、お行儀のあまりよろしくない今時、若者系の作法違反ならば、それはいつの時代にも形を変えて出現するありがちな光景として、見逃してもよいのですが、、、昨今のそれはいささか状況が異なってきているようです。

つい先日も和服姿の妙齢のご婦人が混み合うバスの中でムシャムシャとサンドイッチを召上がる姿を拝見しました。スーツにネクタイのビジネスマンがいかにも朝ごはんという風情でボックス型紙パックのオレンジジュースにヨーグルトとクロワッサン!を交互に口に運ぶ光景はいくらなんでも公共マナーを蔑ろにしすぎてはいないでしょうか。

秋祭りの帰り道、アツアツのたこ焼きを買って夕暮れの道すがらに頬張って歩くのと一緒にしちゃいけない何かが、そこには公共道徳の名のもとに存在したはずです。それが急速に失われつつある危機感をどう言えばいいのでしょうか。

とは言え、なんとも割り切れないもどかしさはその一方で確かに存在し、悩みは深まります。それは新幹線の車中やJRの特急列車なら、お弁当を食べてお茶飲んでも良いのに、在来線はなぜダメ?なのかという問題です。どこから良くてどこからが許されないのか、その境界線が至って不鮮明です。時速何キロ以上で定めるべきなのか、はたまた旅行ですから!という乗車目的で判断すべきなのか、あるいは混み合う場合はご遠慮ください!という緩やかな応対でいくのか。ここらあたりが余計に問題を複雑に仕立ててゆくようです。

個人的には外でモノは食べちゃいけません!と教育されて育った世代だけに、基本的にはすべてNO!なのですが、じゃ、遠足のお弁当はどうなるのかと問われたら、思い出せませんと国会議員答弁になっちゃいそうです。そんな訳で今週は他人との関わりという公共性も踏まえてマナーの行方を捜索してまいりたいと思います。

2006年10月22日日曜日

勝ちに行く身体(著者:坂田信弘、斉藤孝)

タイトル:勝ちに行く身体
著者:坂田信弘氏(プロゴルファー)、斉藤孝(明治大学文学部教授)
初版:2006年6月10日
出版社:角川書店
705円(税抜)

サラリーマン時代の最終的な肩書きはがんばってた割には【課長】止まりで、今からすれば、なんだ!という気がしなくもありませんが、それはそれで結構大変なプロセスの成果ではありました。昇格試験なんてものをクリアしない限りはその役職にはなれない訳で、しかも試験を受けるためには日頃の勤務態度やら上司からの評価がある一定以上でなければならず、となると当然、仕事だけやっていれば、良いわけでもなく、なかなか狭き門の茨道でした。

そんな課長職まではまだ、随分遠かった頃、故塚本会長の発案で社内呼称が廃止になりました。つまり当時は名前の後に役職名がセットされた呼び方が一般的でしたが、それをやめて一律、さん付けで呼び合うことが導入された訳です。昨日まで岡村社長と呼んでいたのを岡村さん、水谷課長と呼んでいたのを水谷さん!狙いはたしか欧米の職場にように上司と部下がフランクな間柄を設計して、自由な空気の中で職場の生産性を上げようということだったと思います。

が、なかなか呼ぶ方も呼ばれる方も、長い歴史に逆らうことにはかなり抵抗があり、それが定着するのには相当な年月を必要としました。終身雇用が当然で、社員はみな正社員の時代ならではの懐かしい思い出です。

さて、自由にモノが言い合える環境作りに、『さんづけ』がどれほど貢献したのか、わかりませんが、今にして思えば、そのあたりからどうも敬語の使い方がルーズになり、お互い様にだんだん下手になっていったような気がします。

『うん、うん』という部下の返事をいつの間にか、上司が許すようになり、その代わりに部下は上司を可愛い!と見くびるようになり、、、、。
きちんとした言葉使い、そして敬語は相手をどう思っているのかという待遇表現であることをあらためて学ばなければならない切迫した状況やもしれません。

2006年10月21日土曜日

器用、不器用?

世の中には生まれつき何かにつけ器用で、トントンとスムーズにことを為すタイプと、何をするにしても不器用で、大層、時間のかかるタイプがあります。

ある瞬間だけを切り取ってみれば、間違いなく前者がうらやましいのが人情ですが、人生ステージのロングスパンで眺めてみると、一概にそうとも言い切れないのが人生の妙味だったりします。

あらためて周りをゆっくり見渡してみると、なんでも簡単に出来てしまうが故に、幅広く多趣味ではあるものの、どうも全般的に底が浅く、結局すべて中途半端で投げ出してしまうような、器用貧乏的展開も案外、多いものです。
反対に取っ掛かりが下手だからこそ、人一倍コツコツ努力を重ねるうちに他の者には見えない愉しさみたいなものを発見して、さらに精進を重ねるうちにいつしか、先人が見出しえなかった偉業達成などという展開になることも、歴史上の伝記物を持ち出すまでもなく、よく有る話といえます。

そんなことがだんだん、はっきりとわかってくるのが実は加齢の醍醐味のひとつかもしれません。といっても高齢社会の今日にあっては加齢と称せる年代の特定がこれまた、結構難しくもあります。

何かの本で紹介されていた、大徳寺の尾関和尚の講話の中に『五十、六十、花なら蕾、七十、八十、働き盛り、九十になって迎えが来たら百まで待てと追い返せ』とありました。こうなると還暦くらいでは、まだまだひよこ扱いかもしれませんが、どうも年齢を重ねなければわからないことや、見えないことって、沢山有るのではないでしょうか。たとえば、その場の空気が読めたり、他人の顔色がわかるのもある種、年齢と共に鍛えられてゆく能力であって、研修やセミナーに参加して教えてもらったから出来るようになる訳ではなさそうですね。

いつだったか、老獪な人生の達人ともいうべき先輩から、語呂合わせの言葉を
頂きました。その時は『そうかな?』だった感想が、やがて『そうかも』になり、近頃『そうだな』に変わりつつあります。その言葉は『不器用は武器よ!』

2006年10月20日金曜日

謝ることは難しい?

『たいしたことではないから、、、、』とつい見過ごしたり。
『そんな細かいことにいちいち口を出さなくても、、、』とためらったり。
そういう気分が半々ではなく、51対49のようなバランスになったとき、何かが崩れ始めたり、どこかに歪みが生じたりするのではないかと考えます。
『ま、いいか』と1度、見逃したことは、こちらはおおめに見たつもりでも見逃された相手にすれば、それ自体がどのようなことであれ、『この前は良くて今回はなぜダメなの?』と気づきの矛先がその段階ですでにぶれる危険性も孕んでいます。叱ることの難しさと重要性はここに強く根ざしていそうです。そのときその場で叱る、スリと同じで現行犯!と相当、明快に自覚していても嫌われたくないという思惑も手伝って、叱ることは至難の業へと登り詰めます。

先日、ある会に連絡もなく欠席された御仁から、数日たって行けなかった理由をご報告頂きました。正直言って、今更、理由を伺っても、だからどうなの?という気分であり、むしろ理由はどうあれ、連絡もなく欠席した行為に対してなぜ一言の謝罪もないのか、不思議でしょうがないのが率直な感想です。

たとえば約束の時間に遅れてきて、あれこれ遅れた理由をまくしたて、自己を正当化して『だから自分は悪くない!』と見事に証明して見せたつもりでも、待たされた相手がそれで納得するはずはありません。百歩譲って、たしかに最もな理由があったとしても、まず遅れた事実を謝る。素直に謙虚に誠実にあっさり謝る!ことがなぜか、出来にくいことになってきてはいないでしょうか。

そんなモヤモヤを抱えつつ、京都流を眺めていたら、【おやかまっさん】の中でドンピシャリのご指摘があり、少し背中を押して頂いた気分です。
謝ること!がまるで何かの負けを認めることであるかのような錯覚から早々に脱却し、それは決して自己否定ではないことに思い至りたいと考えます。
むしろ、謝ることは、その時点の自らの至らなさにをありのままに素直に潔く自己肯定する重要なプロセスのひとつではないでしょうか。それがあるからこそ、次なる成長のプロセスが始まる。いえ、そこからしか始まらない。

理由探しの責任転嫁の循環がやがてもたらすものと、謝罪に始まる自己鍛錬の再設計循環のもたらすものの違いは、とてつもなく大きい!

誰しも間違うし、しくじるし、そんな時、間髪いれずにごめんなさい!と言える体質こそ、ラッキーの種ではないかと思うのですが、、、、。

2006年10月19日木曜日

無意味の見直し!

ピンクレディの復活コンサートの模様をドキュメンタリー番組で見たとき、正直凄いな!と感動した記憶があります。さほど変わらない年齢(のはず?)の2人の身体のラインの美しさとしなやかさ、そして圧倒的なパワー。最も驚いたのはスタジオでのケイちゃんのインタビュー姿。床に座って左右に大きく開脚、身体を前傾させ、床に両肘をつけながらのインタビュー姿。つまりストッレッチの合間に取材!という設定。その柔軟性にガツン!と刺激を受けました。

根拠を問われると困るのですが、持論のひとつに【頭の固さは身体の硬さに比例する】というのがあります。たまにやって頂く、頭皮マッサージなどで『頭固いですね?』と言われる度に、その部位の硬さよりも【考え方や思考、捉え方や見方などの柔軟性の低下】を指摘されているようで、内心ひどくダメージを受けることがありますが、、、、それはこの信条にも近い持論によります。

赤ちゃんのときにはぐにゃぐにゃに柔らかな身体。頭脳も同様に柔らかく、ゆえに驚くほどのスピードで沢山のことを学んでいきます。しかし、加齢と共にやがて硬くなってゆく身体。そこで停止する思考。

個人的にはストッレチや筋トレに毎朝、そこそこ勤しんでいたのですが、、、、
ケイちゃんを見て『足りない!努力不足だ!』を痛感し、以来、いつものメニューに床に胸がつく!をプラスしてそろそろ丸2年、、、ようやく近頃は少しマシになった気が致します。ということで、どうせ身体を動かすなら意味のない仕草や動作より、目標のあるソレをお薦めいたします。

ミズタニセレクトで、感じワルイ!動作を挙げれば、【腕組み・頬杖・足組み・指先いじり・爪いじり、髪の毛いじり・全開放のあくび・だらしない姿勢全般・、指差し・つめをかむ・仁王立ち・首をかしげる・口ビルを突き出す・反り返る】あたりでしょうか?いずれも無意味なら即刻、改善が望まれます。

いつだったか、東京出張の折。会社の後輩に近くの郵便局の場所を尋ねたら、その場の床に足で地図を書き始めたので、びっくり仰天!
その場で指導!となりましたが、何気なくやっていることって怖いかも、、、。

2006年10月18日水曜日

腕組み・考察

癖になっている仕草や、悪気ない動作がもし自分の印象を知らず知らずの内に悪くしているとしたら、誰だってすぐさま改善行動に取り組むはずです。

ところがそうも理屈通りにゆかないところが人の世の常であり、不思議な処。
身体には良くないとわかっていてやめられないタバコやお酒。ダイエットの敵と言いながら、ちょっとだけならとするつまみ食い。運動不足を嘆きながらゴロゴロとテレビの前から微動だしない身体。ギャンブルしかり、寄り道しかり、無駄使いしかり、『イカンいかん』と言いつつ繰り返している何かが、誰にでも一つや二つはありそうです。

『だから人生、おもしろいのよ!』と達観できる年齢、心境かつ自他共に認められる状況に至るまでには、もう少し時間も努力も問われそうですね。そこであらためて注目してみたいのが【腕組み】という課題。だいたいどういう状況において、人は腕組みをするのでしょうか?と質問されたら、どう答えますか?

難しい問題に直面して、考え込む時には、むしろ【ロダンの考える人】のポーズになりそうですね。となれば、悩んでいる?困っている?あるいはただ手持ち無沙汰?そもそも腕組みなんか、めったにしない?あるいはしているか否か自覚がない?このあたりからの検証も必要かもしれませんね。反対に向き合う誰かに【腕組み】をされたとき、どんな気分になりそうでしょうか?

【腕組み】がよく見受けられるシチュエーションとしてはセミナーや講演等で誰かの話を聞いている時、はたまた商談や会議中、あるいは数人でのミーティング中、もしくは電車の中での居眠りモード。かなり勇気を振り絞って申し上げるならば、かつ偏見かもしれませんが圧倒的に男性の方に【腕組み】が多いように思いますが如何なものでしょうか?
【腕組み】は実は防御であり、勢い他者から身を守るために相手を<拒絶、否定する>という意味を持つ動作になります。

ゆえに【相手を受け入れる、認める】気分の時には、NG動作となる次第。

2006年10月17日火曜日

仕草のエピソード

朝晩ほどは混み合っていないもののそこそこの乗車率の電車の中。
肩より少し長めの髪形をした若い女性がドア付近に立っておられました。
その女性の後ろにはほぼ同じ背格好の少し年配の女性が立っておられました。
何気なく、見ているとドア側の女性が肩より少し長めの髪の毛をどういう訳か、ひっきりなしに後ろに掻き揚げています。

それはまさにシャンプーリンスのコマーシャルやちょっと気取った雰囲気のシチュエーションならピッタリの仕草という感じです。が、しかし、そこは大阪地下鉄・御堂筋線の中。しかも押しなべて高い乗降率を誇る、梅田から本町に向かう車中での光景でした。

彼女がうなじに差し入れた手の甲で後方に撥ね上げる髪の毛は、彼女の背中に向き合っている少し年配の女性の顔を1度ならず、、2度、3度とまるでからかうように直撃します。当然、その攻撃に出くわした後方の女性はその都度、前後左右に顔をそらして応戦モード。だんだん不愉快色が濃くなってゆきます。

自分の悪気ない仕草が後ろでどんな事態を展開させているのか、まったく気づいていないその女性は涼しい顔で、癖としか言いようがない仕草をテンポよく繰り返します。さて、この間、時間にすれば、おそらく1分足らず。

とうとう堪り兼ねた後方の女性が『ちょっとアンタ、さっきから髪の毛が顔に当たってんね、そんなにうっとしいねやったら、散髪いって、切ってきよし!』とピシャリ、明快なご意見のご指摘!をなさいました。

驚いたのは車中の反応です。何人かのくすくす笑いと数名のぱちぱち!と賛同の拍手と『スミマセン!』とびっくりしつつうなだれる女性の謝罪の声とが、ほとんど同時にそこに展開されました。皆さん、見てないようで見ていたんだ!と妙に心地よい一瞬の出来事でした。大阪弁っていいな!こういうのいいな!こんなふうに何かが上手くキャッチボールできたら、、、、いいな!

そんなことをしみじみ考えさせてくれた仕草・実話エピソードでした。

2006年10月16日月曜日

無くて七癖、、。

『無くて七癖、有って四十八癖』(ナクテナナクセ、アッテシジュウハックセ)と申しますが、ご自身の癖はいくつくらい掌握されていますか?

ここでことわざ通りに最低7つ、スラスラ言えるようなら、なかなかの御仁。ところが普通は自分の癖に案外、無頓着なものです。むしろ職場の仲間のように、身近な他人の方がしっかり掌握してくれているから不思議です。鼻をこする、耳をいじる、おでこをかく、顎をさする、口をとがらす、首の後ろをなでる、髪の毛をひっきりなしに指先にからめる等など、あらためて観察してみるとあれこれ、結構目に付き始めます。さらにからだ全体にこれが拡大されれば、さぞ個性的な癖の数々が散見されることになるでしょうね。ちょっとした癖と日常動作に伴う仕草、その仕草の集合体としての動作、このあたりの切るに切れない関わりを【滑らかな対人関係の構築】という観点から捉えることで、好感度設計の新たな手掛り探索につなげることが出来るかもしれません。

そういえば、商談中にいつも器用にボールペンを指先でくるくる回している営業マンがいらしゃいました。へえー、随分器用だな!と感心して横目で眺めつつ、内心は<意味のないことしてないで、メモでも取りなさいよ!>と思うことがしばしばありました。

あるいは、この夏、どこかのビアガーデンでいかにも今時の若者、アルバイト嬢がこちらのオーダーをボールペンで手の甲に書き留める姿にびっくり仰天。思わず『メモ用紙とかはないの?』と親身になって聞いてしまっていました。

ちょっとした癖、仕草にまつわる快、不快は紙一重。しかし、こうしたものがすこしづつ積み重なって、やがて確たる個人の評価が作り上げられていくのも事実です。多民族国家であるが故に、動作学<キネシクス>が早くから発達したアメリカに比べると、日本におけるソレはまだまだ、特殊なケースのリハビリモードが中心となるのかもしれませんが、日常の何気ない仕草にも課題は沢山ありそうです。今週は意識してそんな無意識に向き合ってまいります。

2006年10月15日日曜日

私の履歴書、乱にいて美を忘れず、貫く・創業の精神(著者:塚本幸一)

著者:塚本幸
タイトル:私の履歴書
初版:1991年
出版社:日本経済新聞社
タイトル:乱にいて美を忘れず
初版:1992年
出版社:東京新聞出版局
タイトル:貫く・創業の精神
初版:1996年
出版社:日本経済新聞社

穏やかな秋晴れの休日、夕暮れの散歩の道すがら、かすかに色づき始めた木々を眺めていると毎年、ごく当たり前に繰り返される光景ではありますが、自然の凄さに改めて畏敬の念を抱かずにはいられません。命あるものがその生命の輝きに向かって精一杯努めることが、どれほど大切なことか、突然、そんなことがしみじみ有難いな!とこみ上げてくる瞬間です。

個人的に秋はどうも、そういうモードになりやすいようで、勢い思い出すのは<生かされた人生>が持論の故・塚本幸一氏のことです。ご存知のように女性下着メーカー、ワコールの創業者であった塚本氏は私が同社に入社した頃は、もちろんお元気バリバリ!年に2回のボーナスの折には必ず、本社ビル勤務の全員に握手で賞与を手渡してくださり、夕方には手がパンパンに腫れ上がった実績の御仁。ハンサムでパワフルで遊び人で強烈なリーダーシップの持ち主。
その後、京都商工会議所会頭を始め、多くの公務のかたわら、それでも毎月の社内報には欠かさず巻頭言を執筆され、月初朝礼では多忙な中を縫って、壇上に立ち、いつも熱弁をふるっておられました。そんな時、お話はやがてあのインパール作戦からの奇跡の生還へと発展し、【人間は生きているのではなく、生かされている!】と声をひときわ強めて語られたことが、懐かしく蘇ります。

人間の命は①植物的生命②動物的生命③精神的生命の三種構造といわれています。①の植物的生命は植物にも動物にもあり、消化、呼吸、循環などの働きを司る生命で、人間の場合は主として内臓の働きをコントロールする役割を担い、最も原始的な生命【第一生命】と呼ばれています。心臓がちゃんと動く。呼吸が乱れない。生物として生きるための根本生命です。しかもこれは見事に自動的にそう動くようにあらかじめ設計されています。今、この瞬間にも血液は体をめぐり、意思の働きとは別次元で生命維持への営みが行われています。これだけみても人間は自らの力で生きているのではなく、生かされているのだということに思い至りますが、本当に自覚しているかというと怪しいものです。

そこで、生かされていることへの謙虚な気づきを塚本氏の言葉で味わってご覧になりませんか?代表的な3冊をご紹介します。

2006年10月14日土曜日

運とは?

時まさに秋の運動会シーズンですが、中高年、かつ日頃の運動不足の各位にあっては記憶の中の運動能力と現状のそれの格差がはなはだ激しいため、いかなる競技においても参加のための必須条件は無理は禁物ということになります。

毎年、この時期の休日明けには運動会での無理な活躍が仇となり、やれ靭帯が伸びた、切れた、骨折した、肉離れで動けない等などの、故障に至る実話の在庫が多いせいか、くれぐれも油断大敵、全力投球でない挑戦をお薦めしたいと思います。その運動会やら様々な競技会の結果はもとより、人生の様々な局面でもよく『運が良かっただけ』とか、『運に見放された』とか、『運も実力の内!』などと申しますが、そもそも『運』とはどういう意味なのでしょうか?

早速、辞書を引いてみますと【移動・回転する】【めぐる・はたらかせる・はこぶ】あるいは【人知では計り知れない身の上の成り行き】とか、【人の身に降りかかる幸、不幸を支配する人間の意志を超えた働き】とあります。何かわかったようで、わからなくはありませんか?

吉田兼好こと兼好法師が徒然草の中で、【運は日にあらず、人なり】と綴られた意味に照らして、しばし考え深めて見ますと、、、、。

『運命』とは、運ばれる命のこと。では何によって運ばれるのかというと、これは時によって運ばれます。つまり運命とは時のこと。
では『運勢』とは?すなわち、時の勢いの良し悪しをいいます。
そこで『幸運』とは幸せな時が続いている状態。ちなみに幸せに対して不幸といいますが、幸運に対して不幸運とは言わず、不運といいます。『不運』とは幸せな時がないということになります。
つまり、『運』はそれ自体が【時】をあらわしているが故に、時の集まりである日の中で左右されるものではないということを兼好法師は看破しておられたことになります。

運の良し悪しはその日の気分や時間によるものではなく、どのような人と関わるかによるという次第。良い対人関係が望まれる訳はここにもありました。

2006年10月13日金曜日

1:29:300の法則

昨日は日帰りで山口県防府市まで出張してまいりました。防府信用金庫さん本店の会議室を拝借して、地元企業の方々の勉強会で90分の講演を行うためです。午後、2時35分京都駅発ののぞみで新山口まで、そこから山陽本線に乗り換えて、防府まで約15分。同じルートで京都駅に帰り着いたのは夜の23時30分。久々に長時間、JRの中で過ごしました。おかげさまで本を読んだり、気になっていることをゆっくりと考えたり、一見、もてあましそうな時間が結果的にはとても有意義なひと時となりました。

実は昨今、トラブルとまでは言えないまでも、何やら納得がゆかない事柄がざわざわと心の片隅にいくつか、居座っております。表面的な現象は異なりますが、どうも同じメッセージを内包している気配を感じつつ、思考の限界と時間不足でしばし棚上げ状態の案件にわずかながら整理の目処が立ってきました。

労働災害事例の統計分析の結果、導き出された【ハインリッヒの法則】というのがあります。【1:29:300】の法則としてご存知の方も多いと思いますが、いわく、【1件の事故(アクシデント)が起きるまでには、29件の出来事(インシデント)とさらにその影には300件の異常(イレギュラリティー)がある】といわれるものです。現実的な1件のクレームにはそれ以前に29件の何某かの苦情や不満があり、その前提として各担当者が一瞬、ヒヤリとしたり、ハットした300の出来事があると分析するものです。ゆえにともすれば、ありがちな『たまたま不注意で、、、』という事故との向き合い方は大間違いということになります。なるべくしてなった事態ならば、目の前の事の処理だけでは足りず、根本の仕組みに目を向ける瀬戸際のチャンスという受け止め方が問われます。

個人的な局面での気づきではありますが、フロイトのいう、超意識が人類共通ならば、何某かのヒントになればと思います。クレームの現場でよく使われる『ピンチはチャンス』という言葉は手前味噌すぎて、賛同しがたい点もありますが、この法則に照らせば、さらなる災い回避のラッキーチャンスかもしれません。『手間隙惜しむと手がかかる』は数多い、座右の銘のひとつですが、面倒な何かを丁寧に片付ける癖付けが重要とあらためて自らに種蒔きの出張でした。

2006年10月12日木曜日

可動域のフル活用

ここ数年来、そこかしこで日本古来の歩き方として【なんば歩き】が注目されています。その昔、飛脚はこの歩き方で1日、百キロ以上を歩いたといわれています。この歩き方はご存知のように同じ側の手と足を動かす歩き方で、実に日本人の生活に適した歩き方であったといえます。右手、右足が前に出て、次に左手、左足。実は研修などであらためて日頃の歩き方の点検のため、VTRを撮影しましょう!となると緊張してこの【なんば歩き】になる方が少なからずいらっしゃいます。思わず、ご本人も苦笑いの一場面なのですが、これももしかして日本人ならではのDNAのなせる業かもしれません。

現代歩行法が義務教育の一環として、明治時代の西洋式軍隊の歩行練習からスタートしていることを考えてみれば、歴史的なキャリアは比較するまでもなく【なんば歩き】に傾きます。いわく腰が捻じれない分、着物が乱れないという理に適っていましたし、武士が刀を扱うときも右手、右足が前、そうでなければ振り下ろした刀で自分の左足を傷つける危険性があります。同様に農民が鍬で土を耕すときもこの姿勢。なるほど!と思わず感心してしまいませんか?

さて、私達の身体にある関節にもなるほど!と感心したくなる課題があります。それは関節の可動域です。可動域とはどこまで動かすことが可能かという範囲のことになります。たとえば腕の可動域は手をどの方向に動かすかによっても当然異なります。たとえば、身体の前方に手を上げてゆくと耳の横くらいまで上がります。すなわち180度は動きます。では身体の側面、つまり横に上げてゆくとどうか。この時も、最終は耳の横まであがりますが、腕の可動域は実は横の場合は120度、そこから先は背中にある肩甲骨がグルッと回ることで残り60度を上げられることになります。では、腕を後方に上げてみるとどうでしょうか。かなり柔らかい方でも90度は難しいですね。後ろへは45度あがれば、それが十分な可動域ということになります。ところが歩く練習を実際に行ってみて、手を振りましょう!と言うと、概ね前方にのみ手が出ます。これはどうも【なんば歩き】の名残ではないでしょうか?

そこで正しい歩き方で歩くときに、あらためて肘を中心に腕を後ろに引くと強く意識してみてください。こうすることで胸をはりやすく、自然に背筋が伸びてくる!颯爽とした歩き方のコツは腕の可動域をフル活用した振り方にもあるようです。

2006年10月11日水曜日

足音も歩き方の課題

社会人になって間もない頃は仕事の大半が会議資料のコピーであり、その会議室にお茶を運ぶことでした。今にして思えば、そうした仕事にもいくつもの大きな意義があるのですが、当時はそんなことに気付けるはずもなく、ただのつまらない仕事として受け止め、その分、実に可愛くない態度で事に当たっていたはずです。

そんなある日、午後からの会議開始直後、いつもと同じようにお茶を運んでいた折、突然、会議に参加されていた、ある方から『足音がうるさい!』と小声でしたが、とても厳しく注意をされました。ところがあまりにも突然の事態に一瞬、何を言われたのかがよくわからないまま、恐らく『はあ?』と聞き返したのだと思います。これに対して、その方からは『あなたのヒールの足音がうるさい。気をつけなさい!』と再度、ピシャリと叱責されました。
めんどくさそうにいやいやお茶を運んでいるせいだったのでしょうか、静かな会議室の中で議長挨拶が行われていて、数十人の参加者がそれに熱心に聞き入る中、お茶を配る新人の足元からカツンカツンと遠慮のない靴音が邪魔をする。きっと耳障りなその足音に誰もが厳しい叱責の目配せを送られていたかもしれません。でもそんなことに気付くはずもない全身丸ごとの不出来さをその方の一言がなんとか救ってくださった一幕でした。もちろん、そんな風に思えたのはしばらく後のことで、その瞬間は生意気盛りそのままに、ムッとしたはずですが、ひょいと視線をあげてみると、そこには実に多くの同感!の迷惑顔が飛び込んできて、さすがにさっと顔から血の気が引く!という生体験をさせて頂きました。言われてみれば反論しようのない場の空気にいかに愚かといえども、気付かされた顛末は今でもありありと情景の浮かぶ不始末のひとつです。

『他者配慮がないと私達の動作は思いのほか、大きな音を伴います。』ここに気付く原体験があの遠い会議室の出来事でした。ご自身の歩き方にはどんな足音が伴っていますか?駅の階段の昇り降りでカンカンと甲高いミュールの足音に思わず顔をしかめた経験はありませんか?あるいはドスン、ドスンと威嚇するような足音にどこのプロレスラー?と振り返ってしまったことはありませんか?歩き方の完成度向上をめざして、足音に気配りを!

2006年10月10日火曜日

ミルキングアクション

私達の体の中を絶え間なく流れ続ける血液の量は体重の10分の1と言われますが、その時々によって必要なところに多く配給する【重点配給】ということが常時、自然に行われています。

本人はまったく気付いていませんが、たとえば食後は胃の中の食物の分解のため、胃の蠕動運動(ゼンドウウンドウ)支援に多くの血液が配給されます。
ちなみにこの蠕動運動は20秒に1回、すなわち1分間に3回行われるそうで、大人も子供も日本人も外国人も皆、同じだそうです。なんか、凄くないですか。
この時、身体の中の血液は内臓に多く配給されるため、位置的に上になる頭、すなわち脳の血液量はかなり少なくなり、故に活動休止状態を余儀なくされます。これが食後に眠くなる理由です。心臓から送り出された血液が全身をめぐるとき、地球上の引力も手伝って、下半身に向かう流れは滑らかですが最下点の足の裏まで到達して、そこから頭のてっぺんまで上り詰めるのはそれなりに大変だろうと予測されます。この大変さの克服に大きく貢献するのが筋肉です。

足から上に順調に血液が流れていくためには血管のまわりの筋肉の動きが不可欠です。しかも血液が逆流することがないように設計されている血管の中の蓋のようなものを下から上に押し開けながら血液を送り出さなければならないため、かなり勢い良い状態が求められます。これを歩く動作の内側で黙々と実践してくれているのがふくらはぎの筋肉になります。それはちょうど雑巾を絞るようにぎゅっ、ぎゅっと収縮します。この収縮運動こそが血液運搬の立役者。たとえて言うなら、牛の乳搾りを思い浮かべてみてください。牛の乳房を手のひらで握り、小指から順に上の指へと絞り込んでゆきます。こうすることでびゅーと乳が搾り出されます。この手の動かし方をミルキングアクションといいますが、これと同じ現象がふくらはぎの筋肉をして血液を元気良く送り出す仕組みとなっています。

ゆえに歩くことを通して、沢山の血液が安定して全身を巡るため、頭が冴えてくる!というのもなるほど筋が通っている話といえます。
ミルキングアクションの活性化のため、歩きましょう!胸を張って。

2006年10月9日月曜日

歩幅を意識して、歩く!

人間の身体を構成している筋肉は実は上半身にはあまりなくて、ナント腰から下の下半身で70%を占めています。中でも大きい筋肉といえば、太ももの裏側のハムストリングという部位になりますが、ここがしっかり鍛えられていないと座った姿勢からまっすぐ上に立ち上がることが出来ません。( 以前、正しい座り方の中で触れたように頭の重さを利用して斜め前方に身体が出て行く格好になります。)

つまり下半身をしっかり鍛えることは大きな筋肉を鍛えて基礎代謝をあげることにも直結する課題であり、その意味からも【歩く】ことはとても大切なテーマと言えます。颯爽と歩きながら、筋肉を鍛えるために意識したいのは【歩幅】になります。すでに万歩計を肌身離さず携帯されておられる方なら、ご自身の基本の歩幅もご存知かと思いますが、そうでない場合は1度計ってみることをお薦めします?女性の場合は履く靴によっても結構、違いますね。しかも歩きやすい靴とそうでない靴の場合、ここにもわずかながら差が出ます。

昨今、流行の巨大ショッピングモールなどで今、どこにいるのだろう?という不安や悩みにしっかり答えてくれる【現在地の表示】と同じように、何事によらず実態把握は課題解決の重要な出発点です。基本の歩幅がわかったらその数字より数センチだけ広めの歩幅で歩くとイメージしましょう。さらにこのときには腰からが足!と意識して足を振り出すことがポイントです。

特に横断歩道は絶好のチャンス、白黒の幅が90センチなのでここぞとばかり広めの歩幅に挑戦してみてください。白から白に足を置いてゆく感じで、自然と腰から足を運ぶ感覚が磨かれてゆきます。しかもゴルフをなさる方なら、90センチは1ヤードなので、アプローチやパターの歩測時にも持って来いの身体感覚強化策となります。

家庭の主婦がごく普通の日常生活で、約4000歩は歩いているそうですから、ほんの少し、意識することで何かが大きく変わるかもしれません。毎日をどう歩いて行くのか、この延長線上に人生をどう歩くのか?というテーマが見えます。1歩1歩を大切に意識して歩く!に挑戦したいですね。

2006年10月8日日曜日

お坊さんだって悩んでる(著者:玄侑宗久)

タイトル:お坊さんだって悩んでる
著者:玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)
出版社:文芸春秋新書
820円(税抜)

我が家にはまもなく満8歳を迎える愛犬がおります。人間の年齢にすれば50代後半あたりになるのでしょうか。いつの間にか飼い主の年齢を追い越し、これからは年々歳々、足早にその差を広げてゆくことになるのかと思うとしみじみ胸がキュン!と締め付けられる秋の夕暮れです。だいたい我が家では愛犬のお散歩がいつのまにか夕暮れ時の1日1回になり、春から夏にかけては日に日に遅くなる日暮れが勢い、生命力に活力らしきものを与えてくれる気がします。ところが昨今はまさにその反対です。秋の陽のつるべ落としの夕暮れが、これからどんどん早くなる冬場の夜の訪れの切なさに拍車をかけ、まだ夕方5時なのに星空を仰ぎ見る季節ならではの寂しさといいますか、えもいわれぬ感慨にこころなしか愛犬の足取りもトボトボと老い始めたかのような錯覚に囚われたり致します。そんな飼い主の思惑とは裏腹に幸い我が家の愛犬は寒いところでその原種が誕生した犬種のため、ここからこそが暮らしやすい季節の到来と気温が下がるに従って体調万全のようですが、本当に人というのは考えなくてもよいことに思い煩う生き物なのですね。

考えてみれば明日の朝ごはんの心配をするわけでもなく、星空を眺めて今日の失敗にくよくよ悩むわけでもなく、人間に比べたらなんともうらやましいほど動物たちはただその日その瞬間を生きていることになります。もちろん、本当のところはわかりませんが、、、、そういえば、発売当初大ヒットしたバイリンガルならぬ、犬の気持ちの翻訳機、バウリンガルとやらはさらに進化しているのでしょうか?

ちなみに犬や猫などの動物が1日中寝ている訳をご存知ですか?実は人間以外の動物は原則、熟睡することはないそうです。野生であればごもっともですよね。よほど身の安全が確保されない限り、熟睡は襲われて即、死を意味します。
ゆえに四六時中、うつらうつらと熟睡できない分、仮眠しているそうです。たしかに我が家の愛犬も熟睡しているようでいて、かすかな物音にも敏感です。

死ぬほど悩んで眠れないと言っても、丸2日も起き続けていれば、さすがに3日めには熟睡できるが故の人間ならではのややこしい人生の悩みに、お坊さんという職業の視点から答えてくれる1冊をご紹介いたします。

2006年10月7日土曜日

効率と効果

仕事に限らず、日常の多くの場面で問われる課題のひとつに【効率と効果】があります。『もっと効果的な方法はないの?』と問いかけられたり、『効率的にみてどうよ?』と問いかけたりします。実は言うほうも言われるほうも、さほど真剣に考えていないけれども、表向きかつ対面的に真面目に考えていますという雰囲気作りのための常套句のひとつがこのよく似た2つの言葉ではないでしょうか?たとえば、家事ひとつもあらかじめ、段取りを決めて取り掛かるのと、思いつくまま行き当たりばったりでことに臨むのとでは、時間的にも経費的にも、労力的にも大きな違いをもたらすことは紛れもない事実です。料理も掃除も洗濯も、スムーズな進行には事前の計画性がなくてはならず、この段取りの良し悪しが成果に与える影響は相当大きいはず。ましてや、これが仕事になれば、生産性との関わりから、ロスやミスを極力排除し、安く、早く、人手をかけずにいかに良いものを作り出せるかが、競争社会の至上命題。そうしたプロセスの中で声を大にして叫ばれてきたのがこの【効率と効果】でした。

が、しかし『狭い日本、そんなに急いでどこへ行く』という視点も年々、着実に賛同を深めており、2007年を目前にロハスを始め、これまでとは異なる社会がすぐそこまで来ているような気配です。となれば、近々、【効率と効果】はどうでもいいんじゃないの。ゆっくりのんびり、行き当たりばったりもまた楽しい!で死語扱いにされそうなので、今のうちに【効率と効果】の違いについて真面目に注目しておきたいと思います。だいたい会社の会議などでワイワイ検討しているときに議論がまとまりきらない最大の理由はこの2つの言葉がほとんど同じ意味で使われてきたからではないかと、実は随分前から疑いを持っておりました。ただ、職場の上司や先輩に向かって、【効率と効果】はどう違うのですか?と今更、正面きって問い質すのはあまりにも大人気ないような気がして、、『ま、いいか、、とりあえず、、』を決め込んできた次第です。

何某かの成果すなわち<アウトプット=OP>を導き出すためには当然、何らかの投資すなわち<インプット=IP>が必要です。かつての高度成長時代にはドンと投資してドンと成果を出す!ことが可能でした。しかしそればかりでは立ち行かなくなり、【効率・効果】が注目されました。つまり【効率】とは【OPは従来通りでIPを縮小する】ための方法論の模索検討を意味します。
反対に【効果】とは【IPはこれまで通りで、OPを拡大する】ための方法論の模索検討になります。似ているようでも言葉が違えば、意味は異なります。

言葉に対する感度を磨くことは言葉を扱うことが許された人間の大いなる責任と思い至り、今頃なんですが、反省を込めてこのカテゴリーの効果を期待して!

2006年10月6日金曜日

本音と建前

社会人になって以来、今日まで対人関係において戸惑ったことは山のようにありましたが、取り分け納得がゆかずに、使い分けも下手だったのが、【 本音と建前 】という代物でした。初めてこの言葉を耳にしたときはその意味すらよくわからない状態でした。それから長い歳月が流れて、若かりし頃から比べれば老獪とも言えるほど使いこなしに熟練した感はありますが、それでも未だに本音で物申して何が悪い、なぜ悪い!と内心沸き立つものを抑え切れないときがあります。

いつまでたっても大人になれない未熟さとうなだれる反面、本音がじゃんじゃん言い合えてこそなんぼ!という理想を追い求める気概、半分。『上司の顔色を見ることが仕事ですか?』と食って掛かった世間知らずの若い頃がたまらなくなつかしく愛おしくなるときがあります。そういえば、その頃は会社の言いなりになることこそが、サラリーマンの至上命題として『休まず、遅れず、逆らわず』というフレーズが合言葉のように密かに巷にコダマしておりました。

10年、20年というロングスパンで眺めてみると、時代は大きく変化しました。今では会社の言いなりになる社員など不要とばかりの様変わり。雇用形態も勤務形態も多種多様化して、ひとつきりのものさしでは測りきれないことばかりになりました。そして建前はよいから、本音はどうなんだと迫られる始末。

当然、言い方には配慮せねばなりませんが、歯に衣着せぬはっきりした意見や物言いがむしろ、RJP=リアルスティック・ジョブ・プレビュー<本音採用>として採用現場の主流の座を占めつつあります。接客販売の現場でも終始、ほめ殺し的な対応よりも本音でのやり取りを望む声もしばしば聞かれます。

時代はようやく本音と向き合う季節を迎えようとしているのでしょうか。この機に多くの本音が滑らかに行き交う事を切に願って、ラッキーの種のご提案です。それは誰かの意見を聞く時の姿勢の有り様について。いささか苦言めく気配もありますが、『誰に言われたのか?』ではなく『何を言われたのか?』その内容にこそ耳を傾ける癖付けが急ぎ問われる気がしています。時として5歳の子供から学ぶこともあるはずです。社長が言うから聞く、そんな時代の幕はもうすでに降りているのかもしれません。

2006年10月5日木曜日

歩き方・再考察

時まさにスポーツの秋なので、歩いたり走ったり!身体を動かしやすいタイミングですね。そこで速やかに昨日の続きに取り組みます。疑問とご意見にお答えすることでより丁寧な説明になればと願いながらすすめて参りますが、あらためて文字だけで語ることの難しさを痛感させていただきました。すなわち、それはご指摘の一文に対する当方の理解の仕方やその正否も含めて、言わんとされていることをどこまでしっかり受け止められたか、この疑問も含めて至らなさを懸念しつつ、、、という意味になります。

まず、ハイヒールを履いた歩き方はご紹介した歩き方の手順を強制する方法論では決してありません。現にモデルさんでもハイヒールできれいに膝を伸ばして歩けない方がおられますし、一般においては尚更です。ハイヒールの定義も様々ですが仮に7センチ以上とすれば、これを履いてあの手順を踏襲すれば、かかととつま先が同時に着地することにお気づき頂けると思います。ゆえにむしろ、裸足やローヒールの場合こそ、かかとから着地が原則となります。

研修会でも『膝を伸ばす!』というと両足を棒のように突っ張ってしまう方が結構おられますが、自然に振り出せば膝は伸びます。そのままを意識していただくために、膝を曲げずに!とあえて解説していますが、その足をかかとから着地してつま先に体重移動して蹴りだせば膝はそのとき後方に曲がります。
もしかして膝を伸ばすという意味があまりにも突っ張りすぎで、反り繰り返ったようになる<過伸展>のことを心配されたのでしょうか?
このあたりを懸念されているのでしたら、【観察による歩行分析】という専門書をぜひお読みください。株)医学書院出版で、著者はドイツ人、月城慶一氏他3名の翻訳です。また歩くと走るでは身体が宙に浮くという点で大きな違いがありますし、走るに関しても短距離と中長距離で走法が違うのはご承知の通りかと思います。

さて、最後のコメントにありました、『10代の頃 普通に、、、、、腰を痛めることをよく見かけます。』という一文につきましてはその原因の特定は非常に難しいように思います。そもそも普通というのが定義しにくい課題です。筋肉と骨と関節にとって自然でラクで健やかさにつながる普通の状態と自分にとって楽な姿勢の普通は必ずしも同じではないはずです。確かに膝関節に支障をきたして歩行困難に至るケースなどは、長年に亘る間違った歩き方が多くの原因ではありますが、それとて本人にすれば普通だったかも。颯爽と美しく歩くことは実は健やかな身体の状態の維持設計に欠くべからざるものと確信しております。ただ、本当に文字だけでこれ以上の具体論を掘り下げられないもどかしさと、解釈の時点で誤解なく受け止められていることを願ってやみません.

2006年10月4日水曜日

腰から歩く!

本日は深まる秋を体感すべく、大好きなゴルフに行ってまいりました。で、そのお仲間と今からワイワイ、反省会兼飲み会に出かけます。なので朝のうちに大半は書いておいたブログの続きをちょいとまとめて出かける算段でパソコンに向かいましたら、、【水谷さんのページを読んで!】を見つけ、急ぎ拝見しました。丁重かつ真剣なご意見をありがとうございます。本来ならこのままご意見への返答やら解説に進まなければなりませんが、、申し訳ありません。また、あらためて!ここは当初の計画通り、朝の続きを完成させてお出かけします。何卒、ご容赦くださいませ!

秋たけなわの頃を迎えると、急に着物なんぞを着てお出かけしたくなりますが、和装のときにはどうしても膝歩行になってしまいます。すなわち、膝から下だけを動かして歩くスタイルです。そのためには、膝関節を基点にそこから上は出来るだけ動かさないように意識することになります。この時、正しく立った状態で膝が伸びていては、とても動きにくくなりますので膝は緩め、その分膝関節は軽く曲がった状態がキープされます。私たちが歩くときに膝が曲がってしまいがちな原因は実はこうした歴史のDNA的要素にも起因していますし、仕事やお稽古やあるいは趣味でお着物をお召しになる機会が多ければ、都度都度意識の切り替えが結構、難しくも思われます。

また一方で、そもそもの認識において実は案外、捉え方に起因する動かし方の制限という課題があります。たとえば、『手を上げてください』とお願いしたとき、人により手の上げ方は様々です。それは手はどこからどこまでが手だと認識しているかによって変わります。同様に【足はどこから足ですか?】ここから、足という部位を指してみてください。歩くという動作は足を前後に動かす以上、足がどこから足なのかという意識はその動かし方に大きく影響します。一般には足の付け根の辺りを指されたのではないでしょうか?その上はお尻、腰という捉え方ですね。しかし実際に私たちの身体の内側から観察してみると足の筋肉はお尻から腰から背中の真ん中あたりまで繋がっているものだと確認できます。つまり外観上のソレと実際のそれは筋肉の動かし方ということでは随分、異なるということになります。指先を腰の方に向けて、両方の手のひらをウエストより少し上の背中にあてて、歩いてみてください。この時にその部位が足の動きと連動して動いていることが自覚できますか?動いていると感じる場合は腰から歩くことが出来ています。逆にその部位がほとんど動いていないようなら、歩き方は足の付け根から下だけの動かし方になっていると自己点検できます。おへその辺りが前から引っ張られているつもり!という手順はここの改善を目指しています。腰から歩く!を意識してみましょう。

2006年10月3日火曜日

颯爽と歩く、手順

数年来のウオーキングブームのおかげで自分の歩き方に疑問を抱き始めた御仁が増え、喜ばしい限りですが、本当の課題はここから。その昔、今ほど有名人でなかった時代に初めてデューク更家氏にお会いしたときにズバリそのことを看破しておられました。すなわち、人間ってどちらからしい【 思う、動く、出来る 】と発展するパターンと【 考える、止まる、やめる 】となっちゃうパターンと。特に歩く!なんて一応、今だってお出来になっているものを取り扱う場合、よほど変でなければ、動機不十分で結果、実践の変革に至らなかったりします。なので相当、強引を覚悟で申し上げますが、自分の歩き方はどうなんだろう?と素直に思ってください。で、そのまま以下の実践の手順に従って、動くモードにお進みください。

正しい歩き方の基本は①正しい姿勢で立ち、どちらかの足の膝を曲げずに前に振り出します②振り出した足に体重を乗せ、③かかとから地面に着地します④おへその辺りを前方からひっぱられているつもりで腰をしっかり前にだしてゆきます⑤1本の線の上を歩くつもりで交互にこれを繰り返します⑥手は振り出した脚とは反対の手を前に出し、肩を基点に自然に前後に振りますがイメージとしては肘を後ろに引くと意識することで一層しゃんとした上半身を維持しやすくなります。まずは姿見などを使って全身を映し出しながらやってみましょう。歩くときも走るときも着地はかかとから。つまさきから着地のくせはなかなか自覚しにくいので、出来れば誰かにチェックしてもらいましょう。見方のコツは身体の上下動になります。なので普段から上下に大きく身体が揺れるようなら、ほぼ間違いなく、つま先から着地していることになります。かかとから乗り込んでつま先で蹴りだす。この基本は歩く動作をまるでコマ送りで再生するように実践し、片足が地面に付いた状態で一旦、静止させ、どちらか片足だけで立つことを繰り返して習得します。

鏡に映ったご自身の身体は肩幅を結んだラインがヘッドとなった逆三角形のVの字に見えますか?ここで注意したいのは両足の間に生じる隙間ですね。どちらかの足を前に振り出すときに1本の線を意識して、さらに前にある足の膝に振り出す足の膝をくっつけるつもりを意識しましょう。こうすることで膝関節に負担をかけやすい状態をいささかなりとも軽減させ、同時に見た目上も両足の間に向こうの景色がハッキリ見えてしまうO脚歩きからの脱却を目指します。

何はともあれ、今日からは他人の歩く姿に大いに注意を払いましょう。人の振り見て我が振り直す!幸い良くないサンプルが今ならヨリドリミドリ!かも。

2006年10月2日月曜日

ブームを超えて!

ここ10年くらいの間に巻き起こった大きなブームといえば、どんなことを思い浮かべますか?眺める視点やその評価基準により、答えは様々。マイブームなどというのを含めれば、さらに多岐に亘るかと思いますが個人的に云わせて頂くならば、【ウオーキング・ブーム】こそがイの1番です。

ある日を境に何かが急に大きな注目を集め、多くの人がそれに関心を持って、いたるところで話題になり、実践が始まり、浸透してゆく。エアロビクスしかり、ヨガしかり、ジョギングにしても同様なのですが、その基礎ともいうべき【 歩き方 】への着目と具体的手順の解説とそのユニークな実践指導の方法論などを眺めていると、単にそれをブームとして捉えては失礼なほど、重要かつ根本的な課題に対する取り組みであって、それゆえに流行すたりの枠を超えて、かなり画期的なことではないかと受け止めています。

【 歩く 】ということは基本的に誰でも出来ることだけにむしろ難しいというハードルを見事に飛び越えて見せてくれた事実にもしっかり拍手を贈りたいと思っています。だって、言っちゃなんですが、自分自身も含めて、日本人の歩き方ってちっともきれいじゃないですよね。しかも歩き方の課題は公共マナーのように若い子だけが問題!とか言うのではなく、老若男女問わずの国民的課題であるといえば、言い過ぎでしょうか。もちろん街中を颯爽と闊歩する日本人だっていらしゃいます。が、しかしたいていの場合、ぺたぺた、ちょこまか、あるいはドタドタ、のっそり、そんな雰囲気ではないでしょうか。アヒルのインプリンティングよろしく、最初に見た身近な誰かに瓜二つの歩き方から、正しい歩き方に変えていくことで印象が変わり、姿勢が変わり、もちろん良好な健康にも大いに関わってくる課題です。ここらでよってたかって本気になっても罰は当たらないと思いますが、、、。なので一過性のブームにとどまらず、この先もこの流れが続くことを願いたいし、応援したい。そういう土台の姿勢表明をしつつ、今週からは歩き方を取り上げてゆきたいと思います。

今日は今から大阪で内定式。来春、社会人になる方々にこの半年間で身につけたい社会への入り口までの【 歩き方 】をご提案してまいります。

2006年10月1日日曜日

笑いの経済学<吉本興業・感動産業への道>(著者:木村政雄)

タイトル:笑いの経済学<吉本興業・感動産業への道>
著者:木村政雄(元吉本興業常務取締役)
出版社:集英社新書

今日から10月、秋本番ですね。明日はいつのまにやら恒例になった大阪のとある会社の内定式に参加します。来年の春になったら社会人になる皆さんと毎年、この時期に出会いを頂き、『半年後の自分のために今、出来ることは何なのか?』を問いかけながら、年々確実に広がってゆく親子以上の年齢差もどのくらいまで持つのか、それはそれで楽しみな機会のひとつになってきました。御堂筋の街路樹が美しく映える高層ビルの一角で過ごす、数時間が大層、価値在るものに思える季節の訪れです。

しかしながら、京都からフルマラソンの距離を隔てた大阪にはJRなら新快速で30分、私鉄を使っても1時間以内にはラクに到着できるのですが、なぜか、疎遠。こうした研修や講演以外で出向くことが少なく、近くて遠い!というのが実感でしょうか。そのせいか、当然 大阪に関する知識や情報もあやふや三昧です。水の都・大阪とか言っても淀川しか浮かびませんし、食道楽の町とか言ってもたこ焼きとか、ソース2度づけ禁止の串揚げとか。もうかりまっか、ぼちぼちでんな!の定番の大阪弁も今時なら、どなたでもご存知のはず。

その大阪が誇る日本一には実はこんなものがあるそうです。【信号のフライング率は世界1らしいのですが、ひったくりが21年連続日本1で全国シェアの3割を占めているそうです。さらに自動車の窃盗、少年犯罪、自殺者、詐欺事件、ひき逃げ、おまけに損害保険の払い戻し高も日本1!】なんだか凄い都市ですが、その一方で特許出願数も日本1だそうです。要するにベンチャースピリットが旺盛であり、それを裏付けるデーターとして戦後の日本で興った77業種のうち、57業種が大阪から生まれています。いくつか思い浮かびますか?
【スーパーマーケット、プレハブ住宅、カプセルホテル、回転寿司、消費者金融、屋上ビアガーデン、魔法ビン、ノーパン喫茶、、、、等など】

『建前ではなく本音』が堂々とまかり通る大阪の魅力は、京都がいささか苦手と感じつつ、その実、真似ようのない永遠の憧れの種かもしれません。