2006年12月31日日曜日

ゴール<最速で成果が上がる21ステップ>(著者:ブライアン・トレーシー)

タイトル:ゴール<最速で成果が上がる21ステップ>
著者:ブライアン・トレーシー
初版:2006年4月28日
出版社:PHP研究所
1、400円(税抜)

本年、最後の日です。振り返ってみてどんな1年でしたか。
良いこととそうでないことの出現率はどういう配分だったでしょうか?

何はともあれ、本日の最も大きな仕事はこの1年の総決算を行うことですが、
多くの場合はそんなことはそっちのけで日頃の2倍3倍の勢いで、慌しく掃除やら買出しやら、新年に向けての準備に追われて過ぎてゆきます。

そこで本来ならば、他の何を差し置いても<今日すべきこと>とそれを今日、出来るように<明日しておかなくてはならないこと>をこの1年の締め括りとして、ご紹介したいと思います。

<今日、すべきこと>は本年の出発となった平成18年1月1日に掲げた目標の成果診断です。どれほどの夢が実現したか、その検証を行うことになります。

検証するためには、当然、目標の記録が必要です。それは手書きでもパソコン資料でも構いませんが、作業はそれを眺めながら行うことになります。
(もし、手元にそれらしきものがないとしたら、残念ながら検証は不可能ですが、迎える新しい年の大晦日にこそ、この検証が出来るように明日準備しましょう。)

実現できたものは、赤線で消去し、少なくともその数の分相当の新しい夢を
明日、元旦に加えられるように今晩のうちに思いを整理しておきます。

つまり<明日しておかなくてはならないこと>とは目標の設計、追加とその明文化という作業になります。こうして『1年の計は元旦にあり』が実践されることになり、毎年の積み重ねで着実に夢が実現されることになります。

2006年12月30日土曜日

願いを込めて、袋!

家族や親しい間柄での心を込めたやり取りとしての<お便り>であれば、実のところ書式などを気にすることはありませんが、ビジネスレターとなるとやはり基本の書式くらいはきちんとマスターしておかなければなりません。

このあたりが面倒な気分を盛り上げる最大の難所と思われがちですが、あにはからんや、実際は基本のパターンさえ覚えてしまえば案外、簡単です。

特に<頭語>と<結語>はそもそもペアになっていますので悩む必要は一切、ありません。ビジネスレターの場合は相手に対して<大いに尊敬を表わす言葉>として頭語が「謹啓」で結語は「謹言または敬白」になります。

また「拝啓」と「敬具または拝具」の組み合わせは、目上の方を含め、誰に対しても使える便利な組み合わせとして大いに活用しましょう。

「前略」と「草々」は前置きを省略して、いきなり本題や主文に入ってゆくだけに主にプライベートなお便りで活躍する組み合わせになります。
ご縁の初期においてのビジネスレターではあまり使用しませんが、おいおい親しみを込めて<往信>で使い始る分には何ら問題はありません。

これらに対しての<返信>の場合、「謹復」と「謹言または敬白」の組み合わせであったり、「拝復」と「敬具・拝具」になったりします。

こんなふうに組み合わせが決まっている言葉は至って便利なので、ひたすら使い慣れること。つまり回数勝負で「習うより慣れろ」という次第です。

そう言えば、大晦日の前の忙しさにも随分、慣れたせいでしょうか、新年の箸袋やお年玉用のぽち袋を自分で折ってみませんか?なんていう雑誌の特集を愉しんだり出来る余裕の今宵。

佳き年の到来を願って<袋>を折りましょう<不苦労>を祈って。

2006年12月29日金曜日

好きこそものの上手なり

昨日及び本日が仕事納めの職場もあれば、年末年始こそハードワークが待っている職場も多々あります。いずれにしても年の瀬ならではのあわただしさだけは平等に、まるで今朝からの雪のようにしんしんと降り積もります。

さて、ビジネス文書における<お便り>は昨今はパソコン任せがむしろ常道。見やすい、読みやすい、に加えて、書きやすい、素早いという双方のメリットが見事に一致しておりますので、この流れはもはや確定感が漂います。

但し、いささか込み入った礼状や詫び状などは原則、直筆と心得ておいた方が良さそうです。もちろんプライベートな手紙や目上の方へのお願い事なども直筆がベースになりますので、まだまだ折衷時代は続きます。

そうは言ってもあまりに悪筆の場合は文面はパソコン文字ながらも、せめて署名だけは直筆にします。加えて素っ気ない事務用の上質紙ではなく、和紙や少し手の込んだ紙などで、丁寧に向き合っている誠意を示します。

そんな工夫も含め、何事によらず「好きこそ物の上手なり」の言葉通りにあれこれ考え、延々飽きもせずに続けられることは間違いなく上達します。

芸事然り、料理然り、家事然り、スポーツ然り、仕事もその意味では同じです。
となれば、好きなことを仕事にする、あるいは好きなことしか仕事にしない。そんな原点にしっかり向き合うことが、物凄く重要なことかもしれません。
しかし、そんな視点の教育が世の中のどこかで行われているのでしょうか?

残念ながら個人的な記憶においても、そんな視点で誰かに<生き方>や<仕事への向き合い方>を教えられたことは1度もなかったように思います。

むしろ好きなことをやっているだけじゃ、それだけじゃ、人生を生きてはゆけないからと諭されて、仕方なく、悟ったふりをしたのではありませんか。

1年のつもり積もった何かを払い落としながら、新しい年へのラッキーの種である<大好きなもの>を突き詰めてみたい年の瀬です。

2006年12月28日木曜日

書く愉しみの所以

<タイミング>と<丁寧さ>を意識しながらお便りを書くにあたっては、一般的には万年筆の黒または濃いブルー系のインクがスタンダードのようです。
もちろん由緒正しく日本人らしく縦書きの筆文字もかなり格調高いスタイル。

めったに頂くことはありませんが、巻紙に筆文字などで礼状を書き綴り、いささか度肝を抜くような企みが個人的には大好きです。

ちなみに愛用の万年筆なんぞはお持ちでしょうか?この際、本気でお便り上手を目指すのであれば、思い切ってそんな筆記具を入手されることも近道かも。

最近は実に様々な筆記具が沢山出回っていますので、手に合うもの、懐具合に合うものも見つけやすいはずです。
お気に入りの1本があれば書く愉しみもグンと広がります。

個人的ではありますが、書くという愉しみが飛躍的に広がった挑戦の記憶としては、サラリーマン時代の通信教育で学んだ筆文字があります。学ぶ動機は至って単純明快。その年齢ならばこそで出席する機会の多かった結婚式の芳名帖に筆文字でスラスラと自分の名前を書きたい!というものでした。

合わせてその費用の半分を会社が負担してくれるという制度も魅力的でしたし、何より<らくらく筆ペン講座>という堅苦しさの無い名称に惹かれてトライ。

結果、本当にらくに筆文字が書けるようになり、社内で慶弔ごとがあれば祝儀不祝儀袋の表書きをほとんど一手にこなすまでになり、筆ペンオンリーながらも<芸は身を助ける>という言葉の意味がかすかにわかるような体験でした。

頼まれて書けば、書くほど達者にもなり、今更ながら筆を前にして怖気づくことがないだけでも有難い!と心底感謝していることのひとつです。

そういえば、もう目の前に迫ってきたお正月にしか味わえない楽しみとして、<書初め>に挑戦なんてことも視野入れたい課題ですね。

2006年12月27日水曜日

細部に宿る<丁寧さ>

お便りを書く上で<タイミング>と同じくらい大切にしたい課題は字の上手下手や文章構成力の巧みさではなく、そのはがきや手紙を書く姿勢の<丁寧さ>かもしれません。

<丁寧さ>が求められる場面は実は生活の随所に存在します。

たとえばお茶碗など食器を洗うときには丁寧に扱う心構えがなければ、簡単に割れたり傷ついたりします。あるいはお客様にお茶を出す仕草にも<丁寧さ>はしっかり見えています。さらには誰かをお見送りする身体の姿勢にもそれは明らかに存在し、そうしたものの積み重ねの上に人柄があるのかも知れません。

同様に頂いたお便りには宛名書きひとつにも<丁寧さ>という課題がしっかりと評価されるべく目に見える文字とその形として明解に存在しています。

それはたとえば、切手の貼り方ひとつにも如実に見えてくるものです。
貼り方そのものが歪んでいたり、切り取り方が雑なせいでいびつだったり、あるいは逆さまだったり。はじっこが剥がれてたり。のりがはみ出していたり。

そうした細部に垣間見える<丁寧さ>への厳しい点検の視線を知っていればこそ、人はお便りなるものについ尻込みをしてしまうのかもしれません。

そんな些細なことなどどうでもよいじゃないかと思いたい気持ちはわかりますが、如何せん些細なことや枝葉末節が気になるのが人の常だという事実に目を背けることは出来ません。一事が万事と真に気付いていれば、何かを通して身に付くものがあらゆる状況で発揮される力になるのは道理でもあります。

心がこもったお便りを<丁寧>に書く癖付けは偶然身につくものでは在りません。それだけに意識して取り組みながら、実践と継続を強く決意すること。
その結果、身につく<お便り上手>は思いのほかに重宝で有効な武器です。

新しい1年に掲げる目標のひとつにしてみてはいかがでしょうか?

2006年12月26日火曜日

お便り上手への第一歩

はがきや手紙を書く上で、まず大切なことは<タイミング>です。
つまり、いつ書くかということが殊のほか重要です。特に何かを頂いた場合やお世話になった場合の礼状は原則、3日以内に発信すると心がけましょう。

これは受け取る側の気持ちが何某かの行為に対してホットな気分から冷めやらぬ内が、感謝の気持ちを届けるタイミングとして重要という意味です。

たとえば誰かにプレゼントした心持ちなってみれば、よくわかることですが、
一生懸命に選んだ品を気に入ってくれたかどうか、反応が気になるものです。
そんな気分の間に礼状が届けば、素直に嬉しいものですし、「また何かしてあげたいな」と思えるはずです。心が心に応える瞬間がこうして生まれます。

但し、それも数日の間こと。誰であっても1週間も半月もそんなことばかりを気にし続けてはいられません。このため素早い礼状でなければ、せっかく書く礼状の価値が下がるという事態になってしまいます。

しかもあまりにもタイミングを外すと「今頃になって何?」とかえって間の抜けた対応だけが強調されることにもなりかねません。これはあきらかに避けたい事態のひとつです。せっかく努力して報われないならしないほうがマシ。

長期出張などの事情で遅延理由を申し述べたときに、それは致し方なしと相手が納得してくださる場合以外は、我が身の筆不精を深く反省する貴重な機会にとどめおいた方が無難かもしれません。

それにしてもお便りはすぐに書かないと結局、書けず仕舞いになりがちです。思い立ったらすぐに書く!が筆不精を改善するための第一歩といえます。

となれば、<タイミングよく書ける環境整備>こそが、はじめの一歩です。
できればお便りボックスとして、切手やレターセット、書きやすいペン等のグッズをひとまとめにしておくこと。そんな工夫は万全ですか?

2006年12月25日月曜日

通信手段の点検整備

名刺の活用に関しては<お便り>を書くことが主題です。では何を書くのか。どのように書けば良いのか。筆不精を自認する方が多い中、はがきや手紙を書くことにまつわるおもてなしの心や表わし方を取上げてみたいと思います。

もちろん今時、便利なビジネスメールに活用できる点も沢山ありそうなので、あらためて<書く>という作業の技の点検も目指します。

特に昨今のビジネスシーンにおいては一人に1台が当たり前のパソコンの普及のおかげで<書く>というよりは<打つ>という作業感覚の変化も軌道修正の狙い目かもしれません。確かに仕事においては超がつくほど便利極まりない武器の獲得でしたが、その分、人の手はペンや筆という道具を使いこなす筋肉を著しく衰えさせてしまったことも揺ぎ無い事実です。

筋肉の廃用性萎縮の原則に照らせば、このままではどんどん退化するしかない手の使い方を一方でしっかり意識しつつ<書く>ことに向き合ってみます。

ちなみに年賀状はパソコン派?それとも手書き派?あるいは折衷派?

ようやくひと段落した我が家のソレもいつの間にか、パソコンの独壇場です。
せめて宛名くらいは手書きで!と思っていたのも遠い昔。いつしか便利さに負け、今はせめて一言くらいは自筆のメッセージを書くというのが土壇場の課題。

頂けば嬉しいはがきや手紙を最近、どのくらい貰いましたか?書きましたか?
あらためてそんな問いかけに心が<ギクッ>とか<ズキッ>と反応するようであれば、まだ大丈夫。はがきや手紙の効用がよく、よくわかっている証です。

確かに電話は早くて便利、でも相手の都合はお構いなし。その点、メールは時間を選ばず、確実で記録も残るがいささか一方的。はがきや手紙は書くのがメンドウ、でも自分の言葉と文字がしっかり心を伝えてくれるのが強み。
まずは様々な通信手段のメリット、デメリットを理解して、状況に合わせて自在に使い分けられるのがスタートラインといえそうです。

2006年12月24日日曜日

病気をよせつけない生き方(著者:安保徹、ひろさちや)

タイトル:病気をよせつけない生き方
著者:安保徹(免疫学者)、ひろさちや(仏教学者)
出版社:ぶんか社
1、400円(税抜)

良い対人関係のための様々な心使いがおもてなしの技を磨き、鍛え上げてゆきますが、<名刺活用レシピ>もその数多い課題に向き合うひとつの方法論です。

故に出会いを大切にしたいと真に願う心が出発点になければなりませんが、
そうはいってもどこかで打算が働くのもビジネス上は仕方のないこと。
ところが「これだけしたのだから」と期待して挑むとガッカリする可能性のほうが大なのでここはぜひ、自己満足モードでの取り組み姿勢をお薦めします。

さて、個人的な実践経験をもとに、名刺活用レシピの成果を眺めてみますと、何よりも信頼を得やすいという側面が非常に大きかったように思っています。たかがはがき1枚であってもその実践、継続は決していい加減ではできないという評価がもたらす信頼感はその後の関係に当然よい影響をもたらしました。
同時に予想外の成果として享受したものは、待遇が変わるという事実でした。

特に当方の継続的な努力に対して、何ら反応がなかった場合において、その相手の方と後日、偶然どこかで再会した折には、実に心地よい待遇となります。

「ご無沙汰しております。何度もご丁寧なお便りを頂きながらお返事もせずに申し訳ありませんでした。お元気でいらっしゃいましたか?」とかなり饒舌にしかも愛想よくご挨拶をして頂き、空白の期間にどれだけエネルギーを使ったかという実績だけが評価される舞台として労が報われる瞬間です。

その意味では人は実に正直で、そして悪気なく無精者!ということに、思わずクスッと微笑みながら気付くことが出来た貴重な瞬間でもありました。

身体と心の健康にも、頑なに真剣に向き合うばかりではなく ちょっとばかし肩の力を抜いて不精モードがいいのかも知れません。

2006年12月23日土曜日

価値・勝ち・克ち

豊かなネットワーク構築のための名刺活用レシピは当然のことながら、年齢が若ければ若いほど効果的な手段のひとつと捉えることができます。
それは単純に考えてスタートが早いほど蓄積されるものが多いという側面もあれば、同じことを実践するにしても若くして取り組む方が希少さ故に高い価値を生み出す傾向が強いというメリットの側面もあります。

しかし、昨日までにご紹介した手順をその都度、実践していこうとすれば、
確かに手間がかかります。しかもターゲットは一人ではなく、複数存在します。よほどの覚悟が問われますが、人間は不思議なもので誰かに無理強いされたのであれば、それが相当平易なことでも簡単に挫折しますが、自ら決意したことであれば思いのほかに継続は容易いものです。

もちろん<3日坊主>と言う言葉が存在するように、自分で言い出しながらすぐに飽きてしまって、何でも中途半端になる傾向は誰にもあるものです。
そこで提案ですが、4日めに挫折したら、気を取り直して5日めから気分新たにやり直してみてはいかがでしょうか。
またもや挫折したら、数日してアッケラカンと仕切りなおします。
何度もこれを繰り返せば、いつのまにか<3日坊主>が連綿と繰り返されながらも実は継続されているじゃないか!という独自のスタイルが生まれます。

その実践の中で確実に鍛えられるものは<精神力>と<筆力>と<自信>です。

世の中の誰もが日々、経験していながら、実践の教訓として現場に輝かないもののひとつに<初めは誰でも下手>という事実があります。

手紙にしても、はがきにしても、スラスラ上手に書けるということはそれだけ量を書いてきた証に他なりません。そしてその力は企画書を書いたり、報告書をまとめたりという力の元にならないはずがありません。

この価値に気づけば、人脈という勝負に<勝ち>にゆくための、己への克ち方もなんだかハッキリと見えてきませんか?

2006年12月22日金曜日

未来のネットワーク

初対面でぎこちなく名刺交換をさせて頂いた相手の方とやがて意気投合して、人生最大の友を得るような展開もあれば、せっかく何某かの出会いがあっても結局、その1回限りになってしまうご縁も沢山存在します。

ところがよくよく考えてみれば、どちらの結果も所詮は自身が選択した対応のあげくの答えであることに気づくことが出来ます。

出会いにどう向き合い、それを如何に取り扱うかによって縁の紡がれ方は明らかに異なります。その主導権を相手に委ねるのか、自らが握るのか。
名刺活用レシピはあくまでも自らが主体的に向き合う姿勢を根本にしています。

さて個人的な経験から申せば、第1ステップへの反応がなかったために実施した、第2ステップのお便りに際して何らかのリアクションを下さる方はかなり稀といえます。言ってみればなしのつぶて状態ですが、反応なしの事情は思いのほか単純な筆不精であったりしますので、何らめげることなく、おおらかに爽やかに第3ステップのタイミングを見据えます。

時期は第2ステップから、またさらに数ヶ月を経過した頃合で、半年サイクルの年間行事的タイミングが便利です。たとえばお歳暮の時期のクリスマスカードや年賀状。あるいは寒中見舞い。その半年後のお中元期の暑中見舞いや残暑見舞いは日頃ご無沙汰している間柄でも何かと連絡を取りやすい時期なので、ここに焦点をあわせると他のお便りに適度に紛れる分、かえってさりげなく受け取りやすいアプローチのチャンスでもあります。こうして少なくとも3段階の亘る、地味ながらも熱心な働きかけがもたらすものは実践した人だけが手にすることが出来る、人脈という貴重な価値の源泉となるはずです。

ただ、出会った!という記録に過ぎない名刺では、それがホルダーの中に何千枚収納されていても何の価値もありません。この事実に気づけば、だからこそ、どの人とのどんな出会いも決しておろそかにしないと決意出来ます。

1枚の名刺から広がってゆく未来のネットワークは今、出来ることを精一杯、真剣に行うことで、間違いなくラッキーな未来への種蒔きとなります。

2006年12月21日木曜日

名刺活用の真のテーマ

さて、せっかく速攻で<おめもじの礼状>をお届けしたのに音信不通のまま、しばらく時間が経過した場合が第2ステップとなります。

このタイミングは<初めての出会いとその直後の葉書や封書の発信>から概ね三ヶ月くらい経過した頃がちょうどよい時期になります。
なぜ三ヶ月かというと有難いことにこの国には四季が有り、出会いがいつであれそこから三ヶ月ほど経過すれば、確実に季節が変わっているからです。

1月なら4月に春の訪れを喜ぶ便り。3月なら6月の入梅を題材に。7月の出会いならスポーツの秋、10月ならば、初春を寿ぐ姿勢で<ご機嫌伺いのお便り>がさりげなく書やすい、出しやすいタイミングということができます。

この場合、多少なりとも仕事のご縁がありそうな相手ならば、自社の何かの情報を絡めることも効果的です。たとえば展示会のご案内であったり、新製品のパンフレットをお届けしたり、あるいは最近の業界動向をオリジナルなファイルにまとめたような情報もインパクトのある連絡のひとつかもしれません。

どう考えても仕事のご縁が見えにくい場合は、素直にご縁の継続を願う気持ちで季節のお便りとして第2ステップに向き合います。

ダイレクトな営業活動においてはこんなにのんびりした展開では仕事にはならないかも知れませんが、名刺交換をさせていただいたすべての方が仕事がらみのお得意先や仕入先という関係になるわけではありません。

しかも一方で見方を変えれば、現在、携わっている仕事が未来永劫続くかどうかは、サラリーマンなら非常に考えにくい話でもあります。
となれば目の前の仕事に直結する、しないの判断軸ではなく、そもそも貴重な出会いを頂いた相手とどう向き合うかという対人関係の根本の姿勢が問われているのが、名刺活用レシピの真のテーマかもしれません。

この発信記録も当然、ホルダーの中のそれぞれの名刺に書き足しておきます。
これもまだ続く、次なるタイミングへの大切なステップです。

2006年12月20日水曜日

名刺の活用レシピ

<名刺の整理>に比べた場合、<名刺の活用>は大いに得意な部類にランキングされる課題かもしれません。特にネットワークの確立・拡大という視点で名刺を活用するためにはただホルダーに保管しているだけでは意味がありません。

そこから芽が出たり、花が咲くようにするためには当然、何某かの働きかけが問われることになります。

この働きかけには実は何段階かのタイミングがあります。

まず<はじめのタイミング>は名刺を頂いた直後です。可能ならばその日のうちにお会いできて嬉しかったこと、光栄であったことを感謝の気持ちとして
はがきや封書に書き記して、礼状として郵送します。

この時、オリジナルがあれば会社の便箋や封筒を使用しますが、はがきなどはシンプルな官製はがきを使用しつつ、切手だけは季節感やその土地らしいものなどに拘ってみるのも印象的かもしれません。

昨今ではこれをメールで行うこともかなり一般的になっていますが、立場や年齢や肩書きが上の方に対しては、メールでのお礼は差し控えた方が無難です。

いずれにしても初対面の出会いに感謝したアクションを実行した日付は、相手の名刺のどこかにメモとして記録します。
たとえば葉書をお出ししたのなら<2006・12・20?>という具合です。

この礼状に対して、打てば響く相手だったり、気働きに長けておられる方なら早々にお礼の電話が入ったり、同様に礼状が届いたりします。ここで何らかの形で仕事のご縁が動き始めた場合は<名刺の活用策>はもう不要になります。

ところが何の反応もなかったり、その後、進展なしの場合は次なる活用策の出番です。日頃はどんなタイミングを意識しておられますか?続きは明日に!

2006年12月19日火曜日

整理術指南は至難!

名刺の整理の仕方も実に人それぞれで、職場などでこれをじっくり観察してみると案外おもしろいものです。

たとえば<あかさたなの行別>に名刺を輪ゴムでひと括りにしていた先輩のやり方はかなりダイナミックでしたが、そこからお目当ての名刺を探すのは結構時間がかかりました。捜索途中で別の誰かの名刺を見つけて懐かしんだり、前に捜して見つけられなかったのが出てきて喜んだり、脱線しやすい課題も満載。

これを少し進化させたようなボックス型の収納スタイルも沢山の名刺の保管には重宝しますが、捜したり整理するのには勇気が求められるスタイルです。

また机上タイプのラウンド式ホルダーの愛用者が多いのは、何よりオシャレだからでしょうか。すでに机の上が満杯な方には不向きな代物かもしれません。

いずれにしても年に1度くらいは古いものを削除することも大切な作業です。個人的にはまさに今がそのタイミングという訳で悪戦苦闘しております。

年賀状の作成という大命題のもと、アドレスの点検やら部署、肩書きの変更など。名刺ホルダーを点検しているとすでに現役を引退された方の名刺があったり、悲しいかな他界された方のもあったり。あるいは結婚されて姓が変わったり、住所が変更になっていたりと何やかや手間がかかります。

新しい名刺をホルダーに入れていく愉しさに比べると、それを抜き出して削除するのは面倒かつ寂しいものですが、入れっ放しでは容量にも限界があり、活用することを考えれば適宜、更新がどうしても必要になります。

捨てにくいもののひとつに過去の年賀状と名刺があげられますが、いつぞやご紹介した風水的観点から申せば、取っておく意味はなさそうなので心を鬼にして、バッサリ処分したいのですが、、、これもいざとなると難しいものです。

それにしても時々、まったくどこの誰だかわからない名刺も出てきたりして、
「言うは易く行うは難し」を痛感し、整理術のご指導を仰ぎたい次第です。

2006年12月18日月曜日

名刺の整理手順

名刺の<整理>の出発点はまず名刺入れの形状から始まります。個人的には、ポケットが2つあるものが使いやすく、お薦めです。ひとつのポケットには自分の名刺、もうひとつには頂いた名刺をその都度入れるようにします。

名刺を仕分けしておけば、ポケットがひとつの場合に起こりがちな、間違って人の名刺を差し出すような失礼を回避しやすくなります。さらに名刺交換に慣れないうちは自分の名刺はあらかじめ、取り出した時にそのまま相手の方に向くように入れておくことも出来たりします。

営業職の方のように毎朝、チェックする習慣があれば良いのでしょうが、なかなかそうもいかず、出張先で自分の名刺が数枚しか入っておらず、慌てた経験もしばしば。その場では、正直にお詫びして先方の名刺を頂き、後日改めてご挨拶に持参するか、遠い場合は郵送の了解を取り付けておけば安心です。

いつだったか、表向きはともあれ本音は人脈獲得の会合に出席したとき、知人が自分の名刺を箱ごと持参してきたのには驚きましたが、そうした気合は見上げたものだといたく感心した記憶があります。

出来れば週はじめか週末に1回は名刺入れの中身の点検、補充、そして頂いた名刺の整理に努めたいものです。名刺ホルダーは様々なスタイルが商品化されていますのでご自身のお好みでどうぞ。
但し、頂いた名刺をホルダーに移す時が<活用>のタイミングでもあります。

頂いた名刺の余白や裏には出会った年月日と時間、場所、状況などを記録。
もし個人的な情報があれば、たとえば干支は何、苦手な食材は何、家族は何人、生まれはどこそこ等とメモしておきます。
こうした情報が後日、何かの役に立つことは案外多いものですが、記憶だよりでは所詮、限界があります。書き記しておく癖付けが整理から活用へのつなぎ作業としてことのほか重要となります。

2006年12月17日日曜日

怒りの方法(著者:辛淑玉)

タイトル:怒りの方法
著者:辛淑玉(シン・スゴ)
初版:2004年5月
出版社:岩波新書
700円(税抜)

よくよく考えてみれば<挨拶・名刺・自己紹介>は出会いの3点セットであり、良くも悪くもこれが初対面の第一印象の大元であるのはいわずもがな。

それだけに細心の注意と緻密な計算で挑みたい課題ですが、実際は驚くほどの治外法権扱いです。「毎朝、一生懸命練習しています!」なんて清々しい御仁に出会ったこともなければ、そんな話を小耳に挟んだ経験すらありません。

長かったサラリーマン時代の記憶を辿ってみても、せいぜい新人研修のどこかでちょいちょいとなぞる程度が関の山ではなかったかと思い至ります。
あらためて本当にそれでよいのだろうか?と素朴な疑問が沸き起こります。

誰も彼もがビジネスやプライベートで良い対人関係を築きたいと願いつつ、その具体論の獲得に日夜奔走し、ありとあらゆる手段で挑み続ける現実にあって
その出発点とも言うべきステージになぜ、スポットが当らないのでしょうか?

さわやかで好感の持たれる第一印象を本気で獲得したいと願うならば、まずは入り口である出会いの瞬間の課題に真剣に取り組むべきだと思いませんか。

「あ、どうも。」ではなく「おはようございます。お初にお目にかかります」と言えたほうがどれだけ爽やかでしょうか。

あるいは「えーっとこういう者です」よりは、「私は○○△△と申します。お目にかかれて光栄です」ときちんと言えた方があきらかに賢そうです。

名刺を頂戴したら「ありがとうございます。頂戴します」と言えますか?
どんなに些細なことでもそれがしっかり身につくまでにはそれなり努力と時間が必要です。そしてそれはあらゆる感情表現において問われる課題ではないでしょうか。たとえば、それが「喜び」であれ、「怒り」であっても。

2006年12月16日土曜日

挨拶の使命

いよいよ12月も折り返しを迎え、このあたりからは一気に気忙しさが加速してまいります。個人的には主婦の顔が俄かに表立ってくる頃合でしょうか。

仕事の目処とあれやこれやの調整、それらと同時進行で頭の中を駆け巡る、我が家の年末年始の行事、雑事の段取り。日頃からコツコツやっていれば急に慌てふためくこともない事態に右往左往するのも年の瀬ならではの楽しみの一つ。なんて優雅に眺められるのは、年の瀬ならぬ年のせいでしょうか。

さて、我が家的にここ数日がヤマ場なのは年賀状!及び名刺の整理。
この名刺の扱いに関してのマナーは概ね<授受>・<整理>・<活用>の3段階で捉えることができます。

<名刺の授受>は自己紹介の挨拶とセットで行われることが一般的ですが、意外にきちんと学ぶことがないまま、見よう見真似でそれらしく身についてゆく動作の代表選手のようなところがあります。故に案外、いい加減です。

自己紹介同様に名刺を差し出すのは<下位の者>からになります。

名刺は胸元の高さで両手で持ちます。この時手のひらが上、両手の人差し指から小指までの4本づつの指先を揃えた上に、相手の方から読める向きで、手前側の二隅に親指を添えるような形で差し出します。

とは言え、一般的には双方の交換となりますので、名刺入れをお盆の代わりにして左手に持ち、その上に右手で持った名刺を重ねるようにして差し出します。そしてほぼ同時に差し出された先方の名刺はこの左手の名刺入れの上に頂戴する形で交換という形式が昨今では一般的なパターンのようです。

この時に忘れてならないのは名乗ることです。「はじめまして」と挨拶言葉だけで名刺を差し出すのではなく、明るい笑顔で、自分の声で、自分の名前を相手の目を見ながらしっかりと「○○△△と申します」と名乗ります。

挨拶の使命が自らの存在証明と理解していれば、この徹底に手を抜くわけにはいきません。しっかりと氏名を名乗る、これが使命!

2006年12月15日金曜日

出会いを作る、自己紹介

ビジネスにおける挨拶はまずは名刺交換をベースにした自己紹介から始まりますが、ここには実はいくつかの約束事がちゃんと存在しております。

まず自己紹介は<下位の人>が<上位の人>より先に行うというのが、世界基準ということになっております。

では、上位、下位はいったいぜんたい、何で判断するのかというと基本は次の4つになります。

①年齢が上のほうが上位・<なので若い方から先に自己紹介をしますが、実年齢の判定は見ただけではこのごろ、かなり難しい課題でもありますが、、>

②肩書きが偉いほど上位・<そうは言っても名刺をもらってみないと肩書きは実際のところはわからないのですが、、、雰囲気ってことでしょうか>

③仕事などを依頼する方が下位、されるほうが上位・<これは比較的見分けやすい材料であり、特にビジネスにおいてはこの相関図は明快です。>

④レディファーストで女性が後・<これはやはり欧米中心でしょうか。まだまだ日本にあっては①~③が主たる判断材料であって、女性だからという理由で上位扱いされることはめったになさそうです。>

これらの何を優先させるかはその状況により様々ですが、何某かの手掛りがあるだけでも、随分心強いはずです。あとは臨機応変にそれぞれの状況で実践を積み重ね、自己紹介の達人を目指してみませんか。

年末年始のパーティ会場や新年の賀詞交換会など大勢の方との出会いの場で、スマートな自己紹介が出来れば、きっと有意義な縁が広がります。自分から相手のほうに歩み寄る。そうすることで自分の方が下位であるという印象を作り出すことが出来ます。そうすればこちらから先に自己紹介の挨拶が自然に始められます。出会いは自ら一歩踏み出して会う!これがラッキーの秘訣。

2006年12月14日木曜日

挨拶のタイミング

訪問に際しての挨拶には何度かタイミングがありますが、何回も同じことを言うわけではありません。その都度、状況にあわせた適切な挨拶をするためにはやはり仕込が肝心です。ビジネスとプライベートでは少し趣が変わりますね。

プライベートの場合は基本は3回です。まず、インターフォンを鳴らしてのやり取りがはじめの挨拶。但し、これはあくまでも来意を告げるためなので、長々とした挨拶は不要です。「こんにちわ、○○と申します」で十分です。

2番目は玄関先での挨拶。迎えてくださった相手の目を見て、「お邪魔致します」とか、「本日はお時間を頂きましてありがとうございます」と謝意を伝えます。

3番目がようやく本番の挨拶になります。応接室や客間でのきちんとした口上は案外難しいものです。普段はめったに使わない言い回しも多いだけに、内容に相応しい言葉や言い方を事前に練習をしておくことが肝心です。

「この度はお力添えを賜りまして誠にありがとうございます」であったり、
「本日はお忙しい中、ご無理をお聞き届けくださいまして深く御礼申し上げます」であったり、ここはしっかりした挨拶で訪問の主旨を伝えます。

またこのメインの挨拶においては応接室などの椅子からは立ち上がって、和室の場合は座布団を外して行うという基本動作も重要な課題になります。

一方、ビジネスの場合のタイミングは一般的には2回です。受付や総務の方に来意を告げる時には初対面の場合はあらかじめ名刺を用意しておいて、これを差し出しながら約束の相手の部署名や氏名を告げます。これが1番目。

商談スペースや会議室に案内され、担当者が来られたらここからが本番の挨拶になります。相手の姿が見えたら素早く立ち上がり、正しい立ち方で姿勢を正して、全身で感謝の気持ちを表わします。もちろん穏やかな笑顔のような表情でしっかりアイコンタクトを取り、初対面の場合はお互いの名刺交換から挨拶をスタートさせます。挨拶ひとつも出たとこ勝負では決して様にはなりません。

2006年12月13日水曜日

到着時間へのこだわり

<訪問>に関して京都ならではのこだわりがあるとしたら、それは到着する時間の事かもしれません。一般的なビジネスマナーにおいては約束の時間の前後5分くらいをその適正範囲としている場合が多いようですが、京都的にはほんの少し(2、3分)遅れるくらいをちょうどよしとしています。

それは特にプライベートな訪問に関しての暗黙の決まりごとであって、お迎えする側の直前までの慌しさを考えれば、時間厳守より少し遅れてきてくれた方が有難い!という経験則に基づいた暮らしの知恵的対処方法と言えます。

これを京都では<髪の毛1本くらい遅れる>というような言い方をします。

もちろん10分以上遅れるとなるとこれはもう髪の毛一束ほどになりますので、当然、当初の約束の時間以前に遅れる旨の電話連絡を入れなくてはなりません。

実際のビジネスシーンにおいてはやはり<約束に遅れることはまかりならん!>という時間厳守が前提であり、このため現地への到着時間は必然的に早め!早め!となってしまいます。

その日の天候や交通事情にも左右され、到着時刻を厳密に割り出して行動することが難しい以上、現地に早く到着するのは安全策として当然ですが、ではそのまま直行するかどうかは<訪問のマナー>として思案のしどころ。

時々、とても素直に『道が空いていたので、アッという間に着きました』と約束時間より30分以上も早くお見えになる方もいらっしゃいます。
まあ、1度くらいはご愛嬌で済まされますが、2度3度と重なれば、『何のための約束だ?』と時間管理の甘さだけでなく、結果として相手の時間泥棒と化している身勝手さに思い至らない思慮の無さから信頼を築くことは難しい状況へとひたすら追い込まれることになります。

ここはひとつ、せっかく手にしたゆとりの時間と割り切って、再度身だしなみを整えたり、商談の進行を頭の中で反芻してみたり、あるいは携帯メールなどのやり取りタイムに充当したり、上手に時間を消化して約束の時間ピッタリの到着をめざしたいものです。これも継続すれば立派な武器のひとつになります

2006年12月12日火曜日

信頼を育む心の姿勢

当方の希望日時を懐に持ちつつも、まずは相手のご都合を伺うことが<アポイントメント>の出発点ではありますが、超多忙な方を除けば、実際のやり取りは往々にして思いのほか、のんびりしたものとなります。

だいたいは『週中の午後でしたらいつでもいいですよ』と言ってくださったり、あるいは『来週の月、火以外なら終日、調整可能ですが』というようなお答えであったりします。

この時に『ではいつがよろしいでしょうか?』と手帳を開いたり、カレンダーを眺めながらやり取りを始めるようでは明らかに準備不足となります。
ならばこそ、あらかじめ算段しておいた希望日時をここでスラスラ言えてこそ、大人のマナーの見せ所であり、電話の場合は明らかに時間の節約にもなります。

いくつかの希望日時を即座に具体的にご提案させて頂く事で、是が非でもお会いしたいという思いや姿勢がそこにはしっかりと表れることにもなります。

電話応対のマナーに関してはまたゆっくりと取り上げてゆきますが、滑らかな応対こそが好印象の鍵。そのための事前準備は入念に怠りなくが求められます。

『何時でもいい』といわれた場合、原則食事の時間帯は避けます。また午前中や夕方は何かと忙しいものなので、一般的には昼食の終わった2時頃から3時頃が適当な時間帯といえそうです。

こうして細やかな準備で取り付けたアポイントメントをさらなる信頼獲得の手ががりに育むためには、訪問、当日の気配りが必要になります。

特に初対面の場合は朝1番に本日訪問させていただく旨の確認連絡をしたり、あるいは最寄りの駅に着いた時点で電話連絡を入れたりします。
タイミングは様々ですが、些細な連絡、こまめな連絡は簡単なようでいて意識しておかないとなかなか身につかないもの。だからこそ信頼を育んでくれます。

2006年12月11日月曜日

アポイントメントの心得

おもてなしを供する側だけでなく享受する側にも当然、求められるマナーがあります。今週はそんなあたりを<訪問>の際の課題として整理してまいります。

ビジネスにおいてもプライベートでも、訪問の前提はアポイントメント<面会の約束>を取ることになります。昨今は電話以外にもメールで連絡を取り合うことも増えていますが、手段はともかく、この時に最も注意したいのは相手のご都合を伺うことがアポイントメントの最重要課題という点です。

つい、うっかりするとこちらの都合を何も聞かずに、『某月某日、午後の3時に伺いたいのですが?』と至って自分中心の指示命令のような問い合わせメールが届いたりします。よくよく知っている間柄ならいざ知らず、一般的にはこれではマナー違反に該当すると心得ておきたいものです。

訪問に際しての希望日時はある程度、算段して具体的には3,4案を用意しておかなければなりませんが、まずは先方のご都合を伺うことが優先されます。

たとえば、『○○の件でご相談させて頂きたいのですが、ご都合の良い日時をお聞かせ願えますでしょうか?』であったり、『○○の件でお時間を頂戴したいのですが、、、?』というような言い回しになります。

<自分のための時間>を相手にわざわざ捻出して貰うという考え方に立てば、当然の姿勢であり、これがなければ、対人関係は見事にギクシャクしたものとなります。反対にビジネスの場合もプライベートでもこの視点を忘れなければ、気持ちの良い約束の取り付けが出来る体質が身につくことになります。

またアポイントメントのタイミングは早ければ早いに越したことはありませんが、あまりに待機期間が長すぎる場合は途中確認を入れたり、約束の数日前に再度連絡を入れるなどの配慮があれば申し分ありません。

ビジネスライクなアポイントメントにあっても、こうした心がけがあればこそ感じの良さが設計されると強く自覚して臨みたいものです。

2006年12月10日日曜日

上司が鬼とならねば部下は動かず(著者:染谷和巳)

タイトル:上司が鬼とならねば部下は動かず
著者:染谷和巳
初版:2000年2月
出版社:プレジデント社
1、400円(税抜)

人はどうやら置かれている立場によって見えるものが異なるようです。
特に絶対に揺るがないと信じて止まない自己の価値観でさえ、状況が変わればいとも容易く覆ってしまうことがあります。そのことにいつ気づくか、どうやって気づくかは人それぞれのようですし、気づかぬままもありそうです。

昨日の京都は1日中、冷たい雨が降ったり止んだりしておりましたが、そんな夕方にいくつかの買い物があって車で市内に出かけました。すると傘を差して自転車に乗っている方の怖いこと。ただでさえ、マナーの良くない自転車走行に傘というハンディが加わり、事故が起こらないのが不思議なくらいです。

その一方で、京都検定本番の本日のように朝のうちこそ、すこし凛としつつも
時間を追うごとに穏やかな日差しが降り注ぐ、こんな日には自転車に乗って出かけるお散歩兼お買い物が楽しみであったりもします。そんなときには無理な運転で横断歩道に突っ込んでくるドライバーを横目にわざとゆっくり横断したくなったりもして、運転マナーも如何なものかと申したくなります。

<車の人>である時と<自転車の人>である時の違いだけでも、これほど思うことが異なる次第であれば、立場が違えば見える景色が違い、ゆえに思うことが変わり、考え方が変化すれば価値観が変わるのはむしろ自然な事なのかもしれません。

そんなことを数年に1度、しみじみ思い至らせてくれるのが、読書の持つ大きな価値のひとつと個人的には実感しています。

今日、ご紹介する1冊は発刊された当初、かなり話題になり、ベストセラーになったように記憶しています。それゆえにすぐに読みましたが、かなり不愉快な気分になる内容で、途中で読み飛ばしたり、最後まで読みきれなかった1冊でした。縁あってこの秋頃に再読。驚くほどすべての内容に合点がいきました。

あの頃と今、変わったものの大きさをあらためて実感しつつ、ご紹介します!

2006年12月9日土曜日

仕事の持つ、3つの価値

仕事に取り組む上でその業務に関する専門的なスキルを獲得することはとても重要です。このことに初めて気付かせていただいたのは、大阪・京橋のとある喫茶店のウエイトレスとして、バイトを始めた時でした。

生まれた初めてのアルバイトでしたが、正直言えば、ウエイトレスなんて誰でも出来る簡単な仕事だからとかなりなめてかかていました。ところが実際に始めてみると、トレイの持ち方一つもアレほど難しいとは、思いもよりませんでしたし、間違いなく注文を書き取ることもとても難しいものでした。

何度か、トレイのバランスが崩れてグラスを割りました。あわやそれがお客様の衣服を汚しかけたこともありました。見ているだけなら簡単そうなこともちゃんと出来るようになるためには思いの他、訓練が必要だと知りました。

何より、1日中立っていることがどれほど大変かもその時に生まれて初めて知りました。足が棒になる!という初体験と共に、小さなお店でも行ったり来たりだけで、相当歩く!ということも実感として学びました。

仕事に向き合う姿勢を自分で選ぶことが出来るのが、先週お伝えした『態度価値』であるのに対し、やってみなければわからない!という価値もあります。これが仕事が持っている2つ目の価値であり、これを『体験価値』といいます。

そしてもうひとつ、仕事が持っている価値があります。それは『創造価値』といわれるものです。仕事を通して、その仕事から何かを新しく創造することが出来る!という価値のことをいいます。たとえば、<お茶を入れる>という日常的仕事を茶道という文化に仕立て上げた千利休しかり、ただ切って挿せばよかった生け花から創造された華道しかり、書道、香道しかり。

どのような仕事であれ、その仕事に一心不乱に打ち込んだ誰かに対して、まるでそのご褒美として、仕事そのものが新たな価値の可能性へと導いてくれるのかもしれません。それが仕事が持つ3つ目の『創造価値』です。

仕事が持つ3つの価値に気づいたとき、目の前の仕事に取り組む姿勢が明らかに変化します。貴方の仕事はどんな価値をもたらそうとしてくれていますか?

2006年12月8日金曜日

引き際の美学

案外、対応に困るのが<長居のお客様>への座の切り上げ方でしょうか?
まさか、面と向かって『そろそろお帰りください』という訳にもゆかず、ダラダラと時間ばかりが経過する中、やたらと時計に眼を配るのも露骨ですね。

ビジネスの場合もしっかりした商談内容がある場合は切り上げやすいのですが表敬訪問のご機嫌伺い、様子伺いは見切り具合が難しく、あまりに早いと追い返したような囲気になるため、スマートな対処に頭を悩ませます。

一般的には30分くらいを目安に、電話の取次ぎメモや別の来客連絡を入れてもらう段取りをあらかじめつけておくのが潮時サインの定番でしょうか。
会社によっては30分前後でお茶の入れ替えを心がけておられる処もあり、ひとつのきっかけとしての効果的な対応かもしれません。

自宅の場合は言葉の使い方で雰囲気を変化させるのが効果的です。たとえば、『本当に今日はたのしかったわ!』とか、『おかげさまでよく笑ったわ!』と過去形で話をしながらそろそろおしまいのムードを醸し出します。

あるいは『この後のご予定は?』と伺ってみたり、『バスの時間、お調べしましょうか?』と交通手段の気配りなどが定番のエンディングフレーズです。

特にこれからの季節はヤレ、クリスマスパーティだ、忘年会だと何かと集まる機会が多くなりますが、そんな場合の退け時も催促される前がオシャレと強く自覚したいですね。愉しい時間であればついつい長居をしたくなりますが、お酒の席では時間感覚が麻痺しがち。もう少しいたいな!と思うところで切り上げるくらいが実はナイスタイミングかもしれません。

周囲の反応としては『まだ、いいじゃないですか?』と返ってくる頃合こそがジャストタイミングと心得ておきたいものです。
ダラダラ居座って、せっかくの会を盛り下げないのが大人のマナーの見せ処。

ほんの少し名残惜しいくらいのさわやかな引き際は、実は誰かが誰かに<また会いたい!>と素直に思えるラッキーの種のひとつだと思いませんか?

2006年12月7日木曜日

突然!はマナー違反

【おもてなしのマナー】にあって事前準備がいかに重要かがしっかり理解できていれば、<突然の訪問>は相手にとって、迷惑この上なしと気付けます。

しかし、実際には悪気なく、アポイントなしで訪問されることがしばしばあるのが現実です。休日の朝、寝ぼけ眼でインターホンに出たら、知人の声で『たまたま近くに来たのよ!』なんて言われて、蒼ざめた事がありませんか?

時には『だってアポイントが取れないから強引に来ちゃいましたよ』なんていう屈強な輩もいて、それも見方を変えれば当って砕けろの営業精神のひとつであって捨て身の戦法としては確かに有りといえば有り!なのでしょうが、、、。

原則はビジネスもプライベートもアポイントなしの訪問はマナー違反です。

でも現実に<アポなしの訪問>を受けた場合は、どんなに状況が切羽詰っていても一旦は嫌な顔は見せずに、何はともあれ笑顔で応対します。

但し、仕事の手が離せない状況や先客があるときには、来訪を感謝しつつ、今は時間が取れないことをハッキリお伝えし、『本当に申し訳ありません』とお詫びしてお引取り頂くしかありません。このときには心を込めて『次回はぜひ事前にご連絡を頂きたい』旨、誠意をもってお願いするのが得策です。

あくまでも個人的見解ですが、<突然の訪問>はある特定の層の癖化現象故にとにかく事前連絡を再三、お願いするしか改善策はないようです。

もちろん緊急の場合や、物凄くお世話になっている方でいくらなんでもそのままお引取りいただけない場合はあっさり割り切って応対するしかありませんね。

【お近くにお越しの際はご遠慮ください!】と、たしかそんな愉しい風刺画を漫画家・南久美子さんのギャラリーで拝見した記憶がありますが、たとえ5分前であっても連絡を入れ、アポイントを取るように心がけたいものです。

2006年12月6日水曜日

挨拶の事前準備

考えてみれば、相手にしっかりと向き合う気持ちがあれば、どんな些細なことにも眼が届くようになり、それゆえに事前準備なしの出たとこ勝負では決して事は上手く運ばないということがはっきりと見えてきます。

極端な話、日々の挨拶ひとつも同じ課題を内包しています。

会社に頂いたお土産の報告が義務であるように、たとえば小さな子供であっても毎日きちんと今日あったことを両親に報告するように習慣づけられていると
しかりした挨拶の事前準備とその練習が可能になります。

仮に今日、どこかのお宅の小学生の子供が学校の帰り道にご近所の班長さんの家の前を通ったら、ちょうど玄関の前の掃除していた班長さんの奥さんから美味しそうなキャンディをもらったとします。

そして帰り道で舐めちゃって、キャンディはなくなってしまったけれど家に帰ってからお母さんにこのことをきちんと報告したとします。
するとおそらくお母さんは『あら、よかったわね。今度またどこかで班長さんの奥さんに出会ったら、忘れずに今日のお礼を言うのよ。』「おばさん、この前は美味しいキャンディをありがとうございました!」と教えることができます。しかも時間があれば、挨拶の言葉を一緒に練習して指導の時間にもなります。

そうすれば、翌朝なり、その数日後であってもこの小さな子供は実にしっかりした挨拶が出来ることになります。その結果、班長さん奥さんから『あら、偉いわね、ちゃんとお礼が言えるなんて感心ね』などと褒めてもらったりすれば嬉しくて、次もまたちゃんと挨拶が出来るように頑張ろう!という気分が生まれます。かくして立派な大人への善循環サイクルが回り始めることになります。

報告が如何に大切か!わかっているようであやふやな自覚にしっかりと眼を見開いて向き合わなければ、このサイクルは回り始めることはありません。
取り分け、言いづらい悪いことが即座に報告できるようなら一人前かも、、、。

2006年12月5日火曜日

頂き物の報告義務

お土産を頂戴するシーンは何も自宅のおもてなしのときだけではありません。会社の場合においても何某かのお土産がある場合はおおよそ、早い段階で登場いたしますが、時には商談や打ち合わせが終わって、お帰りの間際になって思い出したかのように頂戴する場合もあります。

たとえば、そんな状況ではついさきほどまでは同席していた上司が所用で外出し、自分しかいないという場合もあります。そんなとき起こりがちな事態としては、ついうっかり、頂いたことの報告を忘れて 職場の仲間で残業時に食べてしまい、そのまま忘れてしまったりすることです。

あるいは総務や受付などの業務に携わっていると、『日頃の感謝です!気持ちだけなので皆さんでどうぞ!』という形でよく来訪されるお客様から担当部署を通さずにお土産を頂戴することもあります。

いずれの場合も肝心なことは、仮に個人に頂いたものであっても会社の組織の一員である立場に対して頂いたという自覚をもって、これを速やかに上司に報告する義務があるという認識の有無です。当然、報告が求められます。

そうすることで次の機会や電話の折などに、上司からお礼を申し上げることができ、更には頂いた部門の長からそのお客様の直接の担当部門の長にも報告が伝わっていれば、そこからもお礼が言えます。こうしたことが重なって初めて『しっかりした良い会社だな』という信頼感が築かれることになります。

会社での頂き物は原則、その場では開けず、奥にさげてからあらためますが、大切なのは【感謝と感想の気持ち】を言葉でしっかりと伝えることです。
頂いたその場で感謝の言葉を言うことは簡単ですが、後日あらためて感想をお伝えできるかどうかは意識して心がけなくては容易ではありません。

特に季節限定やその地域の特産、あるいは入手困難なものや非常に珍しいものなど、、、、。その内容は様々ですが、とても嬉しかったことや、皆で感心した状況など、伝えることが出来れば差し上げた方はとても清々しい気持ちになります。おもてなしの心をこめて、ぜひ実践したいものです。

2006年12月4日月曜日

おもてなしへの情報収集

【おもてなしのマナー】に向き合う現場で、タイミングがいつとは限定しにくいもののひとつに<お土産を頂戴する>という場面があります。

自宅にお招きしている場合はたいてい、お出迎えをして、お部屋へのご案内が済んだ辺りがタイミングかと思われます。昔は『つまらないものですが、、、』とか『お口汚しですが、、、』と謙遜しつつ、控えめな言葉を添えてお土産を差し出したものですが、今は随分と景色が変わりました。

いわく『近所で評判のチーズケーキなんです、ぜひお試し頂きたくて20分も並んで買ってきました』と実に上手にさわやかに恩着せがましかったり。

『季節限定で今しか手に入らない代物です、ご一緒に賞味したいと思って取り寄せましたの』と見事な采配フレーズでおもたせの強要も決して嫌味には聞こえないから不思議です。『出来たら紅茶が合うかしら!』とくればかなりの強者。
こんな場合に、『紅茶は切らしていますので、、、』とモゴモゴと言い訳モードになるのも妙に悔しいものだったりします。

となればこそ、あらかじめお招きするお客様の趣味や嗜好についての情報収集やそれに合わせた準備の必要性にあらためて、おもてなしの心意気が問われることに思い至ります。

実はこの究極の形こそが、京都のおもてなしにあってよく誤解されてしまう
【一見さんのお断り】の精神でもあります。見ず知らずのお客様が突然お見えになって、何ひとつ情報もないまま、どうやっておもてなしができるのでしょうか?という実に本質的かつ素朴な問いかけがそこには存在しています。

性別、年齢、食べ物の好き嫌い、お好きなお酒、最近では和室でも椅子席希望が激増する中、お望みのしつらいに、ご趣味にあわせたお部屋の演出、ご予算、などなど情報があればこそ、そのおもてなしの精度を上げることが可能です。

フランクな間柄では『粗品ですが、、』なんて言おうものなら、『じゃ、いらない。持って帰って!』と言える楽な時代ですが、それとは異なる眼差しが一方で確かに存在し、そして求められているのも真実です。

2006年12月3日日曜日

「稼ぎ力」ルネッサンス(著者:渋井真帆)

タイトル:「稼ぎ力」ルネッサンス
著者:渋井真帆
出版社:ダイヤモンド社
1、470円(税抜)

社会人になって間もない頃の仕事といえば、それこそ、<そうじ、お茶汲み、コピー>の新人3種競技の連続でしたが今時はどうなのでしょうか?

当時は会社の始業時間がどこもだいたい、8時か8時30分!早かったのです。
なのでその1時間くらい前には出勤して、机を拭いたり、ゴミ箱のごみを捨てにいったり!が新入社員、初年度1年間の毎朝の至上命題でした。
サボるなんて恐ろしくて出来ないくらい怖い先輩が大勢いらっしゃり、その皆様の実に厳しく油断ならない指導のおかげでなんとかクリアできた次第です。

そういえば、掃除機なんて代物はまだどこの職場にもなく、箒で床を掃いていました。今のように分煙!なんて思考すらない時代だけに愛煙家の机にはマイ灰皿が置かれていましたし、その灰が机のそこかしこに飛び散っておりました。

それから大きなヤカンでお茶を沸かして、給茶機に入れて、職場の皆さんが1日中、いつでもお茶が飲めるように、これも新人の重要な仕事のひとつとして1日に何度も何度もお茶を沸かしておりました。来客や会議となれば、この給茶機のお茶ではなく急須にお湯を注いでその都度、お茶を入れては給仕するのもたいていは新人のしかも女子限定の仕事でありました。
考えてみれば自動販売機が職場に導入されるずっと以前の実話です。

それなりに立派な学校を出してもらって、こんなことするために会社に入ったわけじゃないわよ!とトットと転職できるほどの度胸も能力もなく、かといって将来の伴侶探しが目的ですから仕事なんかどうでも良いので、ちょうどいいわ!と割り切れるほどアッケラカンともしておらず、、、こんなはずじゃないよ!と悶々とした日々が確かに存在し、多くの人はどうしてよいのかわからぬままに社会に仕事になんとなく慣れてゆくのかもしれません。

<能力もないのに生意気で、やる気なし、根気なし、文句ばっかり>ご自身のそんな体験を素材にしながら、仕事に向き合う本質をたのしくわかりやすく解明してくれる1冊をご紹介します。

2006年12月2日土曜日

仕事の価値を決めるもの

どんな仕事にも価値があるということがしみじみ実感としてわかってくるのは、やはりそれなりに年齢を重ねなくてはならないようで、そのことを言葉で表わすのは存外に難しいものだったりします。

でも有難いことに様々な寓話や物語が、その手助けをしてくれます。

仕事の価値を考えるときによく引用するのが、【レンガ職人の話】です。

舞台はどこかヨーロッパのとある小さな街。
状況はその街を旅行者として訪ねた貴方が天気の良い昼間に散策中の出来事。

街角で一生懸命にレンガを積んでいる職人達を見つけました。
思わず貴方は一人の職人に声をかけます、『ねえ、何をしているのですか?』
するとその職人は背中を向けたまま、レンガを積む手も止めず、荒っぽい声で『見りゃわかるだろう!レンガを積んでいるのさ。邪魔しないでくれ』

冷たい後姿に『ごめんなさい』とつぶやくように言うと、貴方はその場をはなれ、少し先でまた別のレンガ職人の姿を見つけました。いったい何を造っているのかしら?興味が押さえきれず、またもや声をかけてしまいます。
今度はゆっくりとこちら振り向いたレンガ職人が呑気に答えてくれました。
『よく知らないが、かなり立派な建物らしいよ!』貴方はお礼を言ってそこを離れました。何の建物かしら?もうひとりだけ、聞いてみようと思います。

最後の職人に貴方が同じ質問を投げかけたとき、その職人はくるりと勢いよく振り向き、明るい笑顔で胸を張って誇らしげにこう答えてくれました。
『よく聞いてくださいました。実はこの建物はこの街の皆が、長い間待ち望んでいた街一番の教会なのです。そりゃもう立派な建物ですよ!その素晴らしい教会のレンガを私が今、積んでいるのです。完成が楽しみです!』

レンガを積むという仕事は同じですが、その価値は【仕事にどう向き合うか】によってこれほどの違いをもたらします。
仕事が持っている価値のひとつとしてこれを【態度価値】といいます。

2006年12月1日金曜日

1杯のお茶のおもてなし

沢山の作法があるので案外、難しいのが【お茶の入れ方】です。
とは言え、会社の場合はパントリーの状態や常設器具やら、備品との関わりから種類や扱い方が決められているはずなので、基本はそれをしっかり理解して実践することが求められます。なので原則は自己流ではなく会社流!

そこで本日は金曜日の【ラッキーの種】らしく、むしろ【お茶を入れる】ということに問われる姿勢について、歴史上の人物の実話なんぞをなぞりながら人生の運みたいな観点から、ソレに向き合ってみたいと思います。

私流で申せば、お茶で人生が決まちゃった筆頭はなんと言っても石田三成になります。滋賀県のとあるお寺に小僧として下働きの手伝いをしていた幼い頃の三成のもとに、戦帰りで疲れ果てた武将、後の豊臣秀吉が立ち寄り、お茶を所望する有名なお話があります。簡単にかいつまんでみますと、、、、

三成は秀吉の疲れきった様子をみて、1杯目には大きな茶碗で冷たい水をなみなみと運んでゆきます。それを一気に飲み干した様子を見て、2杯目には少し小ぶりの器でぬるめのお茶を用意します。更にそれも一息に飲んで人心地付いた様子を見て、3杯目は小さな茶器に熱い美味しいお茶を用意します。

子供ながらも、このお茶のもてなしの見事な心配りのほどに驚愕した秀吉が一方ならぬ器量と才覚を見込んで、三成を連れ帰ることになります。
やがて、秀吉の知恵袋と称された参謀、石田三成の人生はここから始まる次第です。まあ、見方によっては何とも小賢しい!のではありますが、さすが!でもあり、徳川家康と天下を取り合うだけの器の片鱗は窺い知れます。

どのように入れてもよいお茶、どんな飲みかたをしてもよいお茶を茶道という文化に仕立てあげたのは千利休ですが、お茶に向き合う姿勢の原点に相手をもてなす気持ちをしかと注ぎ込めた点では同じかもしれません。

たった1杯のお茶のおもてなしで人生はどうなる事やら!
ラッキーの種はそんな日常にもいっぱい潜んでいそうな気がしませんか?

2006年11月30日木曜日

手の揃え方と動かし方

【おもてなしのマナー】が相手の立場に立って考えられるものである以上、
ご案内の動作ひとつもにも<美しさ>と<わかりやすさ>への工夫があります。

この基本動作はあらゆる場面で応用できるので1度身につけてしまえばとても
便利な代物といえるかもしれません。ぜひ、獲得してください。

まず、<美しさ>への工夫は【手の指先を揃える】ことで出来あがります。
4本の指を隙間なく揃え、親指は人差し指のあたりの手のひら側に添わせます。
こうするだけで何かのご案内をするときの手元が一挙に美しくなります。

手持ち無沙汰という言い方をしますが、逆に手に意識を集めてみると急にしっかりと全体の印象が引き締まるから不思議です。早速、お試しあれ。

次に<わかりやすさ>への工夫は手の動かし方が決めてになります。

遠い所を案内する場合は一旦、手を大きく上げ、下げながら指していきます。
手のひらを耳の横くらいのポジションから始動させて、一旦上方に振り上げ、上から下に動かしながら、その方向を指し示し、まっすぐに伸ばした腕全体が床と平行になったところでピタリと止めます。手の動作をこんなふうに大きくすることで結構、距離があることをわかりやすくお伝えする事が出来ます。

この時のもうひとつの大きなポイントは案内する側の目線にあります。
目線はお客様の顔に合わせ、お客様がこちらの手の動きにそって、ちゃんとその目当ての方向を見ておられるかどうかを確認します。

反対に近いところをご案内するときには、正しい立ち方できちんと身体の側面に沿わせている腕の肘から下だけを動かすようにします。つまりこの時の手の動きは下から上へ!となります。このわずかな動きで距離の近さを表わします。

応接室の上座席へのご案内などがこれに当り、椅子のそばで椅子の座面を指し示す時にこの動きを使います。手のひらは常にお客様の方を向いた状態です。

2006年11月29日水曜日

上座へのスマートなご案内

【おもてなしマナー】のステージがやっと応接室に到着しましたが、これで完了『さあ、退散』とはまだ参りません。自宅ならここまで来れば、フランクなおもてなしの雰囲気に一気に移行したいところですが、会社の場合はここでもいくつかの【おもてなしのためのポイント】があります。

ひとつはお座り頂く席へのご案内です。自宅で親しい方の場合は『適当にどうぞ』とか、『お好きなところにお掛けください』でも許されますが、初対面の相手や会社での基本は迎えたほうがお客様に上座の席をおすすめします。

だいたい和室でも洋室でも基本的には入り口に遠い席が上座になります。
和室の場合、床の間の前が上座。洋室の応接間では上座に長椅子、下座に肘掛椅子が配置されていますが、最近はすべて一人がけスタイルのものや、ドアや窓の位置によって上座がわかりにくい場合もありますので、あらかじめ社内で情報を共有化して、どこが上座かしっかり理解しておかねばなりません。

その上座の席をお客様におすすめするときには『どうぞこちらの席にお掛けになってお待ちくださいませ』くらいが言えれば、上出来ですね。

またこれからの季節にはたいていコートをお持ちになっていますので、席にご案内したら、続けて『コートをお預かりします』という段取りになります。

コートは両手で受けとめて、丁寧に扱いながらコートハンガーにかけたり、
あるいはロッカーの中に入れます。

ここまで出来たら、ひとまず応接室を退出し、お茶のおもてなしに移行することになりますが、何も言わずに出てしまうのはいかがなものでしょうか?

せめて『ただいま、お茶をお持ちいたします』とか『担当の者がすぐにまいりますので少しお待ちくださいませ』と挨拶の言葉を語先後礼<言葉を先に相手の顔を見てしっかり言ってからお辞儀動作を行う>で実践して退出できたら、しっかりした会社だな!と見事な好印象の獲得につながる次第です。

2006年11月28日火曜日

案内の基本動作

しっかりと歓迎の意思をあらわすことがお出迎えの極意なら、その成果を心地よく引き継いでゆくために【滑らかなご案内】が次に問われる課題になります。

自宅の場合は玄関から応接室やリビングまでの距離が短いので、そんなに難しくありませんが、会社の場合はいくつかのポイントやコツがあります。

たとえば、応接室までたとえ少しの距離でもご案内をする場合はお客様との関係において、どこをどう歩けばよいのかという課題が浮かんできます。

原則は案内する者がお客様の先を歩きます。時々、お客様優先を意識しすぎて後ろから付いて回る形で案内されることがありますが、見知らぬ会社の中にあってはいい迷惑。その都度後ろから『その先を左です』『しばらくまっすぐどうぞ』では、案内ではなく、指示されてるような按配です。
なので要注意。

案内の原則はお客様の2,3歩くらい先を歩きます。この時、ポジションはお客様の左前方となります。これは俗に言う『あの人の右に出る者はいない』になぞらえて、失礼のないように意識して左前方を歩きます。

長い距離をご案内する場合は時々、振り向いてお客様がちゃんと後ろに付いてきておられるかを確認しますが、この時にはお客様の顔ではなく足元を見るつもりで振り向くと、その都度、眼が合ってギクシャクすることもなく、それでいてしっかりと様子に気をつけている配慮が伝わります。

こうした気配りがいっさいなく、ただスタスタと先導するのでは、ロボットと同じ。ご案内の仕方ひとつにも相手のことをきちんと考えている姿勢が、やはり眼に見える形で表わせるものだということに気づけますね。

応接室に到着したら、手前に引くドアの場合はドアを開けて『どうぞ』と一言添えて先にお入りいただきます。中へ押すドアの場合は『お先に失礼致します』と先に入って、くるりとお客様の方に身体の向きを変え、ドアを押さえてからお客様を招き入れます。
案内ひとつもちゃんと練習がいりますね。

2006年11月27日月曜日

心が伝わるお出迎え

【おもてなしのマナー】のための環境整備である<しつらい>や掃除力に磨きをかけることが出来たら、一応ハードの側面はクリアしたことになります。
たまたま!ではなく、いつもきれいで快適!を目指して、BGMや香りの空間演出等もふまえて、意識して日々、準備万端を継続せねばなりません。

そこからいよいよ【ソフトなおもてなしの対応力】が問われることになります。

会社の場合も自宅においても、お客様をお迎えするというおもてなしにあっての基本的な姿勢に変わりはありませんが、プロセス毎に特に気をつけたい課題を取り上げてみたいと思います。まずは【お出迎え】のステージです。

『いらしゃることを心から楽しみにしていた』という想いを相手に伝える方法論はいくつもありますが、それが初対面の方の場合は!とか、懐かしい方の場合は!とか、あるいは親しい方へのサプライズは!という具合に事前にどれだけ相手のことを考えていたかが、相当見えてしまうのがお出迎えの瞬間です。

自宅の場合など『駅に着きました』と連絡が入ったら、行き違いにならない程度にお迎えに出かけてみるのも嬉しさが伝わりますね。
あるいはマンションなどではエレベーター前までお迎えに出るだけでもかなり暖かな歓迎モードが伝わって、そこから始まる時間が愉しみになります。

会社の場合は規模により対応は様々ですが、正面玄関でお待ちしていたり、応接室の前で待機していたり、歓迎しているならば、その気持ちが相手にストン!と伝わるような眼に見える実践での工夫が欲しいものです。

以前、とても仲良くしていた、ある料理屋のご主人は、お商売柄もありますがとても歓迎上手な方でした。ある年のお正月にご自宅にお邪魔した折のこと。お部屋に案内して頂き、着席した途端に『前方の窓の外にご注目ください!』と言われ、何事かと眼を凝らしたら、中庭の先の2階の子供部屋の窓から当時はまだ小さかった子供さんたちがエイ!と垂れ幕を垂らしてくれました。
そこには『歓迎!ようこそ水谷様、ごゆるりと!』と大きく見事な筆文字。
おもてなしの心を眼に見える形で教えて頂いた瞬間でした。

2006年11月26日日曜日

幸せが舞い込む・おそうじ風水術(著者:林 秀静)

タイトル:幸せが舞い込む・おそうじ風水術
著者:林 秀静(りん しゅうせい)
初版:2006年6月20日
出版社:成美堂出版
524円(税抜)

あいにくの天候ではありますが、さすがにここ数日、京都はどこもかしこもが凄い数の観光客で賑わっているようで、喜ばしい限りです。

本日、行きつけの美容院で仕入れた話では、哲学の道がまるで祇園祭くらいの人手で身動きが取れないらしいとか、東福寺の紅葉見物客が長蛇の列で大賑わいだとか。テレビの報道番組もひっきりなしに京都特集を組んでくださるおかげもあって、古の観光名所からは嬉しい悲鳴が聞こえてきそうです。

その一方で早くもクリスマスのイルミネーションがいたるところで輝きはじめました。ゴージャスな迫力で群を抜くのはやはり五条のロームさんでしょうが、たまたま昨晩、お見かけしたのは烏丸丸太町を北上した西にある、平安女学院のキラキライルミネーションでした。アレ?毎年やっておられましたっけ?

もしかして今年からでしょうか?案外、灯台下暗しで当方の認識不足やも知れませんが、あのあたりは日が暮れるとかなり真っ暗に近いせいもあって、なかなかに美しい光景が繰り広げられており、しばし夢見心地のシンデレラになったような気分を堪能させていただきました。

そういえば、初めてホノルルマラソンに挑戦したとき、夜も明けやらぬ暗い内にスタートして走り出した真っ暗な道のそこかしこにクリスマスイルミネーションが輝いていて、それがとても印象的だったことを思い出します。

それは常夏のハワイでもクリスマスをするんだ!と妙に感心した記憶です。

さて、昨今、妙に感心して個人的に心がけているのが掃除です。
その掃除に風水からのアドバイスを込めた1冊が本日のお薦めです。

2006年11月25日土曜日

雑巾と蔵金

【おもてなし】のための心と姿勢をまずは環境という視点で点検し、徹底した掃除で整備し、そして磨きをかけてゆくのが<しつらい>の基本でしょうか。

季節の佇まいを反映させるための様々な工夫がそこから生まれ、もてなす側の徹底ともてなされる側の評価が相まって、そこに生活の知恵が育まれた次第。

その伝承は基本的には家庭の躾として培われてきたはずですが、ここ数十年の間にどうも完全にそれが根絶えてしまった観があります。

たとえば、家の中に雑巾(ぞうきん)がありますか?
そしてそれは掃除の対象となる場所別にある程度、分別されていますか?
さらにそれをきちんとしっかり絞ることが出来ますか?
使った後、石鹸で洗って雑巾の汚れを取り除いていますか?
また次に気持ちよく使えるように乾かす場所や方法が決まっていますか?

今年大ヒットしたオールデイズ三丁目の夕日に描かれていた昭和30年代までならどこの家庭でも、あるいはどんな会社でも当たり前にされていたはずの掃除の主役、雑巾の使い方ひとつも継承されていないのが実情です。

そのことにハッキリと向き合えたのは社内研修開発に全力投球していた時代の
1990年代、ある朝、研修会場を参加者と共に掃除していたときに、とんでもない雑巾の絞り方を見咎めた瞬間でした。

確か新人研修だったはずですが、バケツの前にヤンキー座りでかがみこんでいるその新人は両手で拝むような形で雑巾を押さえつけていました。おそらく生まれてこの方1度も雑巾を絞ったことがなければ、当然と思える情景でした。

かくしてビショビショの雑巾でなでるように拭かれた机の上には何本もの筋が埃のように残ることになります。

【 『雑巾』を当て字で書けば『蔵と金』あちら拭く拭く、こちら福福 】と
詠んだのは確か太田蜀山人でしたでしょうか?

2006年11月24日金曜日

おもてなしの下ごしらえ

京都の年間行事を日々の生活の中でも有効に味わうために、数ヶ月に1度位のペースで自宅で何某かの宴会を企画開催するのが、この家に暮らし始めてからの大きな愉しみのひとつになっています。

今年の記憶を辿ってみますと、ご近所にあるお寺での有名な節分行事にちなんだ日本酒と酒かすおでんの会に始まって、葵祭のタイミングに合わせた、こちらは女ばかりでのお茶とお菓子のめずらしい茶話会。

そしてお盆の大文字送り火観賞という名の大宴会には東京、名古屋からも酒豪にご参集頂き、おかげさまで『生で見る大文字は生まれて初めて!』という感動体験を提供させて頂き、ちょっぴり京都暮らしが自慢の種にもなりました。

そろそろ年末年始のいずれかのタイミングを見計らった企画に取り組みたい頃合ですが、今朝、そんな気分でカレンダーをじっくり眺めていたら、来週の今日はもう12月!なのだという状況にあらためて驚いております。

決して年齢のせいだけではなく、おそらく地球温暖化のせいで年々、遅くなって来ている紅葉の時期の実態が体感時計に多少の影響を与えているせいもあるかと思いますが、年の瀬がそんなにも間近に迫ってきている気配がまったく無くはありませんか?どちら様におかれましても、、、。

さて、自宅での何某かの会を実にマメに行う表向きの理由は冒頭に記した通りですが、実は裏理由もちゃんと存在しております。それはその会を行うおかげで家の内外がそりゃもう!きれいになるからです。

もちろん自分で懸命に掃除をするのですが、そこはやはりお客様をお迎えするとなると見栄も手伝って日常とは掃除に向き合う気合が違ってまいります。
結果、なんとなく弛んでいた身体がちょとした集中ケアの成果で引き締まって見違えるかのように、【おもてなしの下ごしらえ】を通して家全体がすっきり垢抜けて見えるから不思議です。

掃除が苦手な方向きの荒療治ではありますが、誰かをお招きしてラッキーな環境整備に対処している方は意外に多いのではないでしょうか?

2006年11月23日木曜日

勤労をもてなす今日

【おもてなし】を英語で言えば、ホスピタリティ・Hospitality
この周辺用語としては【病院・Hospital】があります。
【Hospice】とくれば、そもそもは巡礼者の宿泊施設のことでしたし、現代においては緩和ケア病棟、すなわち癌などの末期患者用施設になります。

そこから来ているホステルは日本でも学生対象の宿泊施設としてすっかりおなじみでお世話になった遠い記憶からも懐かしさがこみ上げます。

そのせいでしょうか、言葉の響きはなんとなく相手を思いやったり包み込んだりする優しく、穏やかなイメージを持っていますが、語源はラテン語の【ホスティス・Hostis】であり、もともとの意味は<未知の人、または敵>とあって、現代訳とはいささか異なる気配が漂います。

でも、考えてみれば今ほど情報伝達手段が発達していない時代にあっては、見ず知らずの人は敵である可能性のほうがたしかに高かったかもしれません。

長い歴史を積み重ねた結果、今日の社会では人が人をもてなすことはごく普通のとても平和的かつ友好的な証として、【おもてなしの文化】が形成されていますが、昔は突然訪ねてくる客人はそれこそ敵か味方かわからない、善人か悪人かの手掛りもない非常に厄介な対象であり、そのせいで双方がとても不安な状況に追い込まれる歓迎すべからざるものであったはずです。

しかしこうした面倒な客人をそれでも何らかの形で迎え入れようとした習慣や作法は様々な形で世界各国に生まれ、初期においては命がけでさえあったソレが、営々と受け継がれて現代のおもてなしに至るようです。

大いなる危険にその身を晒してまでも、客人を受け入れようとした背景にあったものが何なのか、窺い知る事は出来ませんが、相手の身になって考えようとする精神こそがおもてなしの根源であり、それゆえに異なる相手に合わせた臨機応変な対応力の高さも求められることになります。

今日は勤労感謝の日、勤労を尊び、生産を祝い、お互いが感謝しあう日です。誰かを精一杯もてなすつもりで日頃の労をねぎらいつつ、今日はごゆっくり!

2006年11月22日水曜日

玄関美化のすすめ

【おもてなしマナー】の決意がはっきり表れるハード的側面の実態はそんなに難しいものではなく 誰が見てもその良し悪しがわかるものですが、【慣れ】が原因となって当の本人には見えなくなるようです。たとえば、店舗のショウケースの中のドライフラワーが明らかに色あせていたり、変色していてもそれに気づかなかったり、埃をかぶった置物の蜘蛛巣も見落としてしまいがち。

それはさながらスクリーンの中で描かれている、転落してゆく誰かの人生をながめるかのように、『そんなことしたらアカンやろ!』とつい窘めたくなるほどあきらかに間違った選択肢ばかりかも知れません。

人間は汚いよりきれいが好きな生き物である以上、身の回りをいつもきれいにする癖を<慣れ>にして、やがて習慣化することが賢明な選択といえそうです。

そこでいささか風水的にハードな課題を眺めてみると、日頃とはまた異なる趣で発見ひとしおです。会社にしても店舗であっても、もちろん自宅の場合も
風水的に最も重要視されるのは【人間と気】が出入りする玄関になります。

玄関は福気を取り込むとともにお客様を迎えるところでもあり、その建物の顔でもあるからです。基本はとにかくマメに掃除をすること。
それだけで良い福気が舞い込み、良いお客様が訪れるようになります。

故に物置になってしまっていたり、自転車置き場だったり、とにかく余分な荷物が出入りを邪魔するような玄関は運気の側面からは大いに問題あり!

自宅の場合は玄関のたたき<床>に靴が何足、出ているかを急ぎチェックしてみてください。基本はその家に暮らしている家族の人数分。つまり3人家族なら基本は3足。一人暮らしなら1足です。

下駄箱がいっぱいだから、、とか狭いから、、とか理由探しには事欠きませんが要は面倒くさいから脱ぎっぱなしの置きっ放しで、玄関のタタキがまるで靴置き場のような状況になっていませんか?
最近、どうもいまひとつなら、早速の玄関美化に励んでみては如何でしょう。

2006年11月21日火曜日

眼に見える決意

【おもてなしのマナー】は接遇、接客といったビジネスの場面でも問われますし、ごくプライベートな生活シーンでも求められます。それだけに十分、わかっているようですが、実際にどのくらい出来ているかというと日頃は診断されることがない分、適切な実態把握が難しい課題かもしれません。

そこで本気で自社のおもてなし力を鍛えたいのであれば、店舗診断というような方法で、その会社やお店のおもてなしの実態をハード・ソフトの両面から客観的に調査し、何がどのくらい出来ているか、あるいは出来ていないかを評価することからはじめなくてはなりません。

それはいってみれば健康診断のようなもので、どこがどう具合が悪いのか、その実態把握が出発点になければ、よほどの自覚症状が無い限り、手のうちようが無いからです。たとえば、ハードの課題として日頃、気をつけているものには何がありますか?ご家庭の場合、職場の場合?ここで具体的にいくつか徹底しているポイントを挙げてみてください。スンナリとそれが出てくるようであれば、ひとまず『わかっているかどうか』の知識レベルは及第点になります。

いつだったか、三食ほとんど手料理の友人から唐突に【自宅の冷蔵庫に入っているものを全部言ってごらん?】と問いかけられたことがあります。いわく実態が鮮明に掌握できていれば、かなり料理がうまいはず!ということらしいのですが、たしかにそうかも知れないなと妙に感心した記憶に繋がる領域です。

たとえば、店舗の場合、看板やシャッターなどの汚れや傷み具合・あるいはポスターや貼り紙がはがれたり、歪んでいたり、あるいは期限が切れていたり。
汚れた照明やいっぱいのゴミ箱、雨が止んだのに出たままの傘たて。ダンボールや新聞紙がうずたかく積まれた一人分のお客様の椅子。どこかで時間の止まった日めくりやずれている時計、指紋で汚れた窓や鏡。しおれたり、枯れかけている観葉植物やプランター、生け花。悪気無く、仕方なく、手を抜けば、それは確実におもてなしのマナーから遠ざかる決意を醸成してゆきます。

先日訪ねた蕎麦が有名な地方のあるホテルの自動販売機には【夏限定コーヒー】のPRがあり、サンプルも並んでいたので、まさかと思いつつ、試しに買ってみたら確かにソレが出てきて大変驚きました。この夏に売れ残ったものなのか、今も補充しているものなのか?
詳しいことは不明ですが、訪ねたのは紅葉の見事な11月中旬の話です。

2006年11月20日月曜日

わかって出来る、マナーのために!

今朝は静かな雨の朝、我が家の東側に広がるとあるお寺の紅葉が燃えるような姿をとうとう今年も見せ始めました。毎年、恒例の季節限定、思わず息を呑むような光景は実はここに家を建てたときには思いもよらなかった感謝感激の副産物のひとつです。それはわずかに1週間だけの劇場空間という次第。

取り分け、今朝のような強すぎない雨の後の姿はまるで湯上りのような気配、とでも申しましょうか。しばし時を忘れさせてくれる見事な眺めであります。

おそらく先週から今週末あたりが紅葉・京都観光のピークかと思われますが、お忙しいビジネスマン諸氏もぜひ、何かにかこつけて、心の滋養、目の保養、さらにはマイブームスポット探しのために今が見頃をお見逃しなきように。

そう言えば、10年を越す人気定番シリーズとして高い評価を獲得し、ついに写真集まで出版されたJR東海の広告・【そうだ、京都行こう】の中でも、随分前に『パリやロスに詳しいよりも京都に詳しいほうがかっこいいかも!』ってなコピーがありました。有名かつ人気の紅葉スポットだけでなく、市内に人知れず点在する絶景をいくつ知っているかは京都通の証として密かに隠し持ちたい武器のひとつかも知れませんね。

さて、密かに隠し持った相手を思いやる心を遺憾なく発揮して頂きたい公共マナーの世界は今週からは様々なテーマ別でさらに使える武器として掘り下げながら眺めてゆきたいと思います。

たとえば、おもてなしのマナー、訪問のマナー、年末年始には急に注目されるパーティやテーブルのマナー、あるいは贈り物やお見舞いのマナーに、結婚式やらお葬式などの各種セレモニーのマナーなど、ビジネスマナー以外にも実に多くのテーマ別マナーが問われる意味はそれが快適な対人関係に無くてはならない代物だからとあらためて向き合う覚悟を固めたいものです。

日々の生活を滑らかに心地よく紡ぐために、マナーは非常に大きな意味を持っています。相手を思いやる心と人に迷惑をかけない決意が生み出したマナーの実際とその向上に『わかって、出来る!』の現場感覚で向き合います。

2006年11月19日日曜日

大人の表現術(著者:中島孝志)

タイトル:大人の表現術
著者:中島孝志
初版:2004年9月20日
出版社:主婦の友
1、200円(税抜)

中国の諺に『困っている人に魚を1匹与えれば今日1日生きていけるが、釣り方を教えれば一生、生きてゆける』とあります。しっかりした言葉とその使い方が『身についていれば』同じことが人生に展開されるであろうことを年々、確信度を深めつつ実感しております。

故にそのうち、言葉に関しては話し方や書き方等もセットで取り上げてゆきたいと考えています。そこには敬語もあれば、電話応対も含まれることになりますし、さらに交渉力やらインストラクションというレベルへの発展も見据えますと大いに勉強させて頂けそうな未来図です。ですが、今しばらくは全体的フィールドでの表現力にマナーの観点からさらに言及したいと思います。

【ハーバード大学の卒業生でその後、ビジネス界で功成り、名を遂げた人に実施されたあるアンケートで『今の貴方をならしめた最も貢献度の高いスキルは何ですか?』という質問の答えは『Interpersonal skill』
つまり、日本語に訳せば、『人間関係構築力』というものだったそうです。
マーケティングでもなければ、マネジメントでもない、人間対人間を勉強したこと、この能力こそが表現力であり、これこそが最高のスキルという次第。】

カバーには著者の既刊として『大人の仕事術』1260円
『ホントにやりたいこと、見つかった?』1365円
『何が言いたいかをスッキリ伝える人になる』1365円の紹介有り

最新情報満載のホームページとメルマガも人気の著者だけに歯切れの良い物言いと軽妙でありながら核心的なテーマの切り取り方に個人的にはうなづくことしきり。【実力が同じならハッタリの効くほうが強い!】は名言かと存じます。

2006年11月18日土曜日

鍛えたい言葉と言葉使い

言葉と向き合うときに、つくづく感じるのは、言葉がなければ思いが相手に伝わらないという事実の重さです。『元気です!』も『今、頑張っています!』も、あるいは『最近、疲れ気味です』という気持ちもそれをドンピシャに表わしてくれる言葉があって初めて相手にもそれを伝えることが可能となります。

遠い昔に、自分の思いがうまく表現できなくていらだった記憶はありませんか?そうじゃない!っと喉元にこだまする思いが、でも言葉にならなくて、ただ押し黙っていた幼い頃のそんな経験はありませんでしたか?

どうしようもないもどかしさの中で、あるいは感激の真っ只中で、学んだばかりの言葉がまるで手品のように自分の思いを言い表してくれる瞬間の心地よさをどうも大人になるにしたがって人は忘れてしまうようです。

良くも悪くも人間関係は言葉によって築かれている!という厳然たる事実に1度はしっかりと向き合いたいものです。

そうすれば『ものは言いようで角が立つ』の言葉通り、どんな言葉をどう使うかで誰かに好かれたり、嫌われたりするのが人間模様と思い至ります。

いずれにしても自分以外の他人と良い関係を築きたいと願うならば、言葉の在庫、すなわちボキャブラリーを増やす以外に手はなく、いくつになってもこの努力を放棄するわけにはいかないようです。加えてその言葉を使いこなすためには正しい敬語の知識とその実践力が当然、求められることになります。

ところが研修などで『敬語は大丈夫ですか?』とお尋ねすると大半の方が堂々と胸を張って『ダメです、苦手です』とおっしゃいます。本来なら俯いて恥ずかしげに言うべきはずが、あっけらかんと言い切れるのは完全放棄の意思なのでしょうか?苦手なら得意になるよう努力するだけ。ペルシャの諺に『今、簡単なこともはじめは難しかった』とあります。ただ、それだけのことです。

2006年11月17日金曜日

口は災いの元

ここの所、数年ぶりに歯医者さんのお世話になっております。何年か前に治療した歯のかぶせ物が外れてしまい、これを元に戻して頂くために近所の歯医者さんを訪ねたところ、他にも多々、問題ありということでなんだか、長引きそうな様子になってまいりました。

おかげさまで元来、丈夫な方ですが歯だけは我慢して治るものではないだけに
まあ、しょうがないと覚悟を決めて通院しております。

確かに昔に比べれば技術は飛躍的に進歩し、痛みに対する配慮や施術、さらに環境もイケているのですが、先日は90分間の長丁場、この間、完全にまな板の鯉状態で横たわらされたまま!はさすがに堪えました。翌朝から首と背中が痛い!のなんの。歯医者さんのせいで、マッサージ代もかかりそうな日々です。

ちなみに私の担当医は治療中に気になることがあるとそれをそのまま独り言で言っちゃう癖のある御仁です。どうもこれが治療される側からすると、良くない影響力を持っているようで、『あれ?』と予想と違ったかのような反応をされたり『うーん?』と唸られたりすると、それだけでびくびくして内心、どうしよう、、、、と一層身体がこわばる気が致します。何とかならないものでしょうか。

そんなことを気にしていたら、先日、会った友人のご主人が同様に歯医者通いらしく、そのお医者さんがもっと凄い独り言の持ち主と聞かされました。

ご存知かどうか、今時の歯医者さんは初診の時、必ずレントゲンを取ってそれを即パソコン画面に映し出して、患者に見せながらどこがどう悪いのでどんな治療をしていくかという非常にビジュアルな説明をしてくださいます。

友人のご主人の担当医はこのレントゲンを見るなり『うわあ!』と大きな声をあげたらしく、『あんな失礼な医者は初めてだ!』ということで、別の歯医者さんにしたそうです。口は災いの元!と申します。何気ない一言でアンラッキーにならぬよう、くれぐれもご用心を!

2006年11月16日木曜日

譲れない何か。

京都御所の中は基本的に砂利道なので、歩くのも走るのも案外負荷がかかります。そこを自転車で走れば、場所によっては厚い砂利にタイヤが引きずられるような格好で、よろめくこともしばしば。そうした日常的な歴史の積み重ねの結果、御所の砂利道には自然発生的に自転車走行ルートが出来上がっています。

つまり、自転車が走るたびに砂利が少しづつ弾き飛ばされて、砂利の下の地面が顔を除かせた分、かなり走りやすくなっている道!という次第。

この自然ルートは概ね、東西のゲート間に形成されています。西の烏丸通り(今、この通りには迎賓館通りという別名がつけられています)から東の寺町通りまで、あるいはその逆に進路を取っての通勤、通学などの生活道路でもあります。

我が家にあっても時折は自転車で、あるいは徒歩で、そしてそろそろシニア世代に突入の愛犬のお散歩ルートでもあります。よくしたもので、ワンちゃんにしても分厚い砂利道はどうも歩きにくいらしく、フト気が付くといつのまにかちゃっかり、砂利の薄い自転車ルートの上を歩いております。

そして、この便利な自然ルートでもやはり【公共マナー精神】が問われることがしばしば起こります。すなわち、それはかたや東向きに走る自転車、かたや西向きに走る自転車のすれ違いざまの光景です。

見晴らしの良い御所の中だけに向こうから走ってくる自転車の姿は相当離れた場所からも認識できます。故にごく自然な光景としては双方がすれ違う少し手前あたりから自転車ルートを相手に譲り合って行き交うものとなります。

ところが現実にはどちらかが避けたルートをイケしゃあしゃあと我が物顔で走り抜ける姿であったり、反対にどちらも道を譲らずに危ない!という接触直前まで突進してゆく姿であったりします。

人生を生きてゆく上で、何が何でも譲れないものが誰にもひとつやふたつ有るのは当たり前ですが、それは決して自転車ルートではないはず!ですよね。

2006年11月15日水曜日

原因結果の法則

地方都市の駅前商店街の寂れ具合はいかな素人にも胸にこたえるものがありますが、皆さんのご実家のご近所やお知り合いの様子は如何でしょうか?

かつての商店街のシャッターが閉まったままなので、【シャッター通り】とはいかにも悲しい呼び名がついたものですが、、、長いスパンで見れば、浮き沈みのあるのが世の常で何とか知恵のある再生への手掛り発掘を強く願うばかりです。

持論で申せば、原因結果の法則の為せる技、今日の姿の原因は誰のせいでもなく、良くも悪くも過去のいずれかの時点で自ら蒔いた種の結果となります。

残念ながら『過去と他人は変えられない!』のセオリー通り、こうなったら『未来と自分は変えられる』というポジティブシンキングで邁進するのが得策。

豊かな未来を願うならば、今の自らの行いのひとつひとつを『さてこれは明るい未来のためのどんな種を蒔いているのか?』という客観的なフィルターで吟味する姿勢が不可欠です。取り分け、つい見ず知らずの人ばかりだからと油断しがちな公共マナーが問われる場面はその基礎体力を鍛えるための絶好の機会としみじみ思い至ります。誰のためでもなく、自分のためが出発点です。

それにしても、人は誰しも『誰も見ていないからいいや!』という物差しをどこかにひとつふたつは隠し持っているものです。やがて人間的に成長すればするほど、これを使わなくなるものですが、それは『だれも見ていなくても自分が見ている』ということにハタ!と気づいた証ではないかと考えます。

かといって、たまにしか車の走らないような田舎の道の信号機に頑なにしたがうような律儀さもいかがなものかと思える訳で、それなりの柔軟な使い勝手の余地を残しつつが理想ではありますが、、、。

自分で自分が誇らしくなるような振る舞いこそが、人を育み、街を育み、国を育む流れになり、それが公共マナーの根幹であってほしいと願います。

2006年11月14日火曜日

ベルの音にも品格あり

いよいよ、紅葉。御所名物の大銀杏も北西のソレがかなり色付いて参りました。
こうなるとあちこちが観光名所の京都市内の移動には徒歩、もしくは自転車が絶対にお勧めの按配になりますが、この難題はいつになったら解決するやら。

毎年、あーせい、こーせい!ばかりを耳にしますが、その割りに状況は一向に改善されず、京都に暮らす庶民にとっては謎が深まるばかりです。
詳しいことも、建設的な見解も、見えないままに今年も観光のメッカに暮らす皆さんにとっては買い物ひとつも不便な日々の幕開けという次第です。

とは言え、自転車に関してはおそらく、市内全域で恐ろしくマナーの良くない実態もあって、期間限定とはいいつつ、今以上にその総数が増えたら、交通安全の側面からまた新たな課題が噴出しそうな気配でもあります。

もともとの問題点として個人的に眉を顰めているのは、まず曲がり角でのスピードの出しすぎ、信号ぎりぎりの横断等の無茶苦茶な走行、歩道の走行、さらに二人乗り、そしてあわや正面衝突しそうな無灯火走行に、雨の日の傘差し片手走行、及び携帯通話中の片手走行というあたりでしょうか。

その結果、どのくらいトラブルが発生しているのかわかりませんが、交通ルールの整備徹底と公共マナーの側面での取り組みが急務かと痛感いたします。

さらに見知らぬ他人への配慮を問うという公共マナーの本質的な有り様に照らせば、実は<ベルの鳴らし方>にも問いかけたい課題があります。

結論から申せば、前を行く誰かに対して、後ろから追い抜いていこうとする時に『自転車ですよ!』とお知らせするのがベルの役目だとすれば、鳴らし方にも気を配れないものかと願っています。突然、背後から甲高い音量で『リンッリンッ!』とけたたましく鳴らされると『邪魔だ!どけどけ!』と聞こえて、心臓に悪いことこの上なし。反対に軽く、小さな音量で申し訳なさそうに『リン』と鳴らされると、『アッ、気づかなくてごめんなさい!』とこちらまで謙虚な気持ちさせて頂けます。どちらが望ましいかはいわずもがな。

2006年11月13日月曜日

習慣のもたらすもの!

『ご趣味は?』と聞かれることがほとんどない昨今、これって新しい出会いがないからでしょうか。いえいえ、むしろ、ネットワーク作りに奔走した昔に比べれば、随分簡単に実り多く、意義深い出会いに恵まれる今日この頃です。

気が付いたら聞かれないだけでなく、こちらもあまりそんなことを聞かないというか、そういう聞き方をしなくなったことに気づきます。
考えてみれば『お仕事は?』『お年は?』『ご家族は?』も同様ですが、かなり尋問系の取り調べモードの聞き方であって、初対面であれば尚更、良い対人関係作りとは反対の路線にある課題かもしれません。

さて、趣味のひとつにこの季節ならではの【編み物】があります。
昔はよく会社の昼休みなどにやおら編み物セットを持ち出して、セッセと手編みセーターなんかに取り組んでおりました。当時は出張など長い時間の列車の中は絶好の編み物タイム。そのせいで倍ほどに膨らむ荷物をものともせずに車中で編み物が大きな愉しみでもありました。

習慣とは怖いもので、どうせなら日頃の通勤車中も編み物タイムにもってこいとばかり、気が付いたら当時の交通手段のJRの行き帰りにも席に座れたら即、編み物という勢いになってゆきました。

ある日、通勤のJRの席で編み物に没頭していたら、突然、車掌さんから
『車内で編み物はおやめください』とお叱りを受けました。一瞬、たじろぎましたが、『なぜ、ダメですか?』と伺うと『突然、急ブレーキが踏まれることもあります。そのとき、向かい側の席の方に編み棒が突き刺さったらどうしますか』と問い返されて、ストン!とやってはいけない理由が理解できました。

以来、明快な理由は大いなる説得力を持つことを自認する手前、未だにそれが見つけられずに悶々としているのが公共交通機関の【化粧・化粧直し】の問題です。『何を恥ずかしいと思うかが文化である』とどなたの弁かは失念しましたがそろそろ本気で向き合う覚悟が求められる重大な課題と受け止めています。
アカンもんはアカン!これで変わるなら、苦労はないのですが、、、。

2006年11月12日日曜日

スピリチュアルブック(著者:江原啓之)

タイトル:スピリチュアルブック
著者:江原啓之
初版:2001年4月20日(2005年9月第77刷発行)
出版社:王様文庫(三笠書房)
1、200円(税抜)

京都は一気に冬モードの1日。かなり冷たい風の中、それでも早朝から元気にゴルフを楽しんで参りました。今日は久々にご一緒する顔ぶれで、もっと成長したところをお見せしたかったのに、とびっきりの下手な場面ばかりで、つくづくゴルフは難しい!とうなだれつつ、練習不足を深く反省しております

その帰り道、男子のレギュラーツアーで、すでにシニア入りしている、52歳の中島常幸が優勝した!という素晴らしいニュースが飛び込んできました。
ウーーン!年齢だけじゃないな!と多くの中高年ゴルファーに夢と元気を与えてくれた勝者のコメントは実に穏やかな温もりに満ちたものでした。

ゴルフをなさらない方にはチンプンカンプンの話題で恐縮ですが、何であれ、人に元気を与えられるって凄い!ということに共感 頂ければ幸いです。

さて、あなたは今、心身共に元気ですか?

風を引いていたり。持病の腰や膝が痛んだり。あるいは歯医者に通っていたり。
痛風のお薬が手放せなかったり、あるいは身体は丈夫なんだけど気分がいまいちパッとしない昨今だったり。どうも寝つきが悪い分、朝が苦痛だったり。
状況は人様々ですが、不思議なことに人は具合が悪くなってはじめて、それまで元気だったことに気づくように思うのですが、如何でしょうか?

とすれば、元気な時には、それに気づくことが難しいのでしょうか?
とすれば、病気のおかげで元気の有難さに気づけるということでしょうか?
とすれば、病気は良くないことではなく、何かのメッセージなのでしょうか

江原氏の書籍はいったいどのくらいあるのか見当もつきませんが今や、時の人だけに一家に一冊のつもりでお手に取っていただければと思います。

2006年11月11日土曜日

嫌いと苦手の隔たり

たしか、上賀茂にあるMKタクシーさんの京都本社ビルの食堂は社員だけでなく、一般市民にも開放されていて安くて美味しいらしい。バイキングスタイルで食べたいだけ!頂ける仕組みだそうです。但し、自分がお皿に取った食べ物を残したら罰金!というユニークなルールで運営されている点が注目だとか。

さて、食べる分だけ頂く!という基本マナーが世の中ではどれほど徹底されているのでしょうか?会社の食堂などの光景を思い出してみれば、きれいに空になったお皿より、適当に取って残したことも多々あったような、なかったような、、、。遠い記憶に向き合えば、食べ物を粗末にしちゃいけません!とごはん粒ひとつも残してはいけない躾の時代に暮らしたはずなのですが、、。

いわんや、好き嫌いなど言ってられなかった事実はどこにも面影がありません。

あくまでも個人的体験に裏打ちされた持論のひとつとして【食べ物の好き嫌いは対人関係のソレに比例する】と思っております。
食べ物に対して、あれ嫌い!これも嫌い!と好き嫌いの激しい人は、対人関係においても同様な傾向が大いに見受けられると思いますが、如何でしょうか?

作家の重松清さんがいつだったか新聞のコラムの中でこんなふうに書かれていました。【まだ小さい娘がほうれん草は苦手!と言う。ほんの少し前までは嫌い!と言っていたはずなのに。どうやら、「嫌い!」というと「好き嫌いはいけません」と叱られるので、言い方を変えたらしい。幼いながらになんと知恵があるものかとつくづく感心してしまった!】

嫌い!といってしまうと確かにそれ以上、取り付く島なし、万事休す!ですが苦手!と言われた場合は、いささか受け止める側のモードが変わる気がします。
「そっか、苦手ならしょうがないか!」みたいな感じは、きっぱり拒絶、拒否されないからこそ生じる穏やかな苦笑いで引き下がる図とでも申しましょうか。

いやはや言葉はやはり魔物です。言いたいことをどう言うか。言い方ひとつで
毒にも薬にもなる言葉に苦手意識を捨てて、謙虚に向き合いたいものです。

2006年11月10日金曜日

意識して変えたい、日々の行動

距離間とそのポジションの有りようで居心地の良さや悪さが決まる以上、あらためて研修会の中などで指導を受けて獲得を目指すのではなく、常に意識していれば、日常こそが基礎トレーニングの絶好のステージと気づけます。

ビジネスの現場で、家庭の中で、学校の仲間との交流の中で、さらには公共マナーの問われる大勢の見ず知らずの人たちと同席するどこかで!意識を持てば、行動は確実に変化するということを身をもって実践しながら鍛えたいですね。

そういえば、忙しい朝の出勤風景の中で以前から、気になっていることがあります。それは家族の誰かに駅まで車で送ってもらった時の行動です。
駅のロータリーに到着した車から、降り立つ人物は様々です。
お父さんだったり、奥様だったり,OLさん、サラリーマン、学生、中には小学生の可愛い姿も今時ではめずらしくありません。

その多くの誰もが、車を降りた途端にスタスタと駅改札に向かいます。
たまに小学生くらいなら何度か振り返って、見送る誰かに行ってきます!と手を振る光景を拝ませてくれますが、、、たいていは一目散に振り向きもせず。

一方、送ってきた車の方もサッサと発進して、混み合うロータリーに長居は無用の光景です。都会であれば致し方ない現実の何ら不思議でもないひとコマ。

ある日、いつもと違う光景に出会いました。車から降りた、その方はそのまま駅に向かわずに車の方に向き直り、運転手に軽く会釈をして『送ってくれてありがとう!』と手を挙げて感謝の挨拶。そして発進した車を見送ること数秒、くるりと背を向けて改札に歩き出すまで、30秒もかかってはいないはず。

その光景のなんと美しかったことか。忙しい朝に駅まで送ってくれた誰かに感謝して、それを行動で表わす。そんな当たり前のことが出来ていない!ことに疑問すら抱かなかった現実をグサリと突きつけられた瞬間でした。

何気ない日常の中で、感謝すべきことはいっぱいありそうなのに、いとも容易くそれを見落としている自分に気づけたら、ラッキーな今日の始まりかも。

2006年11月9日木曜日

ハの字、コの字でモードチェンジ

お互い様が真正面に向き合う二の字のポジションは何某かの緊張感とけじめのある距離間を演出しますが、もう少し柔らかく!とか もうちょっと親しみをこめた雰囲気にしたい時には『ハの字のポジション』を意識してみましょう。

『ハの字のポジション』を構築するためには、たとえば名刺交換やきちんとしたご挨拶の後に、相手の身体の正面から軽く1歩分くらい、自分の身体をどちらかに移動させて、相手と同じ方向を向くようなポジションに変化させます。

この状態を上空から眺めてみれば、双方の身体の向きが『ハの字』になって見えるはずです。こうすることで、お互い様の視線が直接ぶつからないためでしょうか、急に気楽でフレンドリーな場の空気が形成されやすくなります。

職場のそこかしこでのちょっとした情報交換や、ご近所同士の道端での立ち話などもよくよく観察してみると『ハの字ポジション』が多いのは、自然と無意識に緊張しない環境整備に努力している証かも知れませんね。

その意味からすれば、Gケースをはさんでの対面販売は致し方ないとしても、側面販売の場合はその文字通りに、お客様の側面にハの字を意識して向き合うことで、威圧感が軽減され、効果的なポジショニングとなるはずです。

故に今日は疲れたなという気分の時のお食事会は、カウンターがお薦め!
お互い様の視線だけでなく、気持ちも抜きやすいのでリラックスできますね。

さらに突っ込んで<膝詰め談判>なんて場合には『コの字のポジション』が有効です。L字型のコーナーに座れば、このポジションが可能になります。すぐ隣だけれど、適度な距離感もあり、ヒソヒソ、相談話モードになりそうです。

ともすれば命令、詰問、尋問の雰囲気の漂う『二の字』に対して、フランクな『ハの字』 そして親密さの『コの字』 状況に合わせて、否、状況をコントロールする手段として上手なポジショニングを使い分けたいですね。

2006年11月8日水曜日

誠意を表わす二の字のポジション

『起きて半畳、寝て一畳』と申します。人間が暮らしを営む上で、必要なスペースを<足るを知る>という観点から、看破した名言です。

確かにそうなのですが、でもそれじゃ、やっぱり満たされないというか、理屈はそうなんですが、それではあまりにも息苦しいと感じるのも人間ならばこそ。
『衣食住足りて礼節を知る』の言葉に照らせば、やはり最低限以上のわずかなりとも余裕を感じるような暮らしぶりの上に、初めて他者への気遣いやら慮る心というものが育まれてゆくのだろうと思われます。

さて、誰かと向き合うときの距離感と共に、お互い様の快適にためにぜひ、意識したいのが相手との向き合い方、つまり【ポジションの取り方】になります。

ビジネスの場面における初対面の挨拶や、商談など緊張を伴う状況では原則、お互いの身体の正面に相手を置く、ポジションを取っています。
この様子を、たとえば上空からカメラで撮影しているつもりで眺めてみると相手とこちらの身体が『漢字の二の字』のように相対していることに気づきます。

すなわち、しっかりと襟を正して相手に向き合わねばならないときにはこのポジションが求められることになります。御礼やお詫びの挨拶然り、職場で上司に呼ばれた時も『二の字のポジション』で向き合うことで、誠意を表わすことが出来ます。特に親しい間柄ではついつい、こうしたポジションがなおざりにされがちですが、このけじめが状況に応じて、つけられるかどうかが、良い対人関係の構築のためには思いの他、重要な鍵を握っていそうです。

日頃は仲良くしているし、よく知っているのだけれど、今回はその相手のために随分、骨を折ったし、世話をした!なんて思っているときに、あまりにもフランクに『助かったよ、ありがとう』なんて気楽に言われて『ムッとした』経験はありませんか?

威厳を持って、居住まいを正し!その誠意溢れる心を伝えるための『二の字』のポジションは大の大人なら美しく決めたい技のひとつです。

2006年11月7日火曜日

数字で捉える身体距離

京都のデートコースで、いかにも代表、いかにも定番と言えば、鴨川のほとり。真冬を除く、スリーシーズンには恋人同士が主に四条から三条の鴨川の西側サイトに腰掛けて語り合う姿がなかなかに微笑ましく見受けられます。

さて、この光景でおもしろいのは、その間隔の有り様です。遠目に見る限り、それは見事に一定で、まるで何某かの暗黙知に従うかのようにパターン化され、テキスタイルの柄のように恋人同士の姿が繰り返されることになります。

対人関係の距離間という観点からすれば、その間隔はおよそ3メートル。
いわゆる【パブリックゾーン】と呼ばれる間隔になります。

初対面やそれに近い場合にはこの距離間が自然で、不用意にここを飛び越えると不躾な感じや馴れ馴れしい雰囲気が醸し出されてしまいます。

反対に何度もお会いしているのに、この距離が一向に縮まらないと、なんとなく疎外感が漂ったり、極端な場合には嫌われているのかしら?という誤解を生むことにもなりかねませんので、なかなか難しい代物です。

つまり、【身体距離】はだんだんと近くなるのが自然で、常に一定の距離間が求められる【車間距離】とは根本的に異なるものと心得たいですね。

家族や夫婦、恋人同士の親密な距離は80センチ。なので職場の人間関係や商談、あるいは接客販売などの場面でこの距離になることは稀!と自覚を。
もちろん身体のサイズをお計りするような場面では、【縄張りゾーン】から【親密ゾーン】へと一気に急接近しますので、その際には必ず『失礼いたします』とか『お計り致します』と一言、お声がけします。
そしていかなる場合も声をかけた以上は必ず返事を聞いてから!が原則です。

時々、ベテラン販売員風情の方が『よろしいですか?』と言いつつ、すでにこちらの身体に触れている!なんてことがありますが、これなど大いなる失点!
悪気はなくても、その無神経さに顧客の足は遠のいてゆくことになります。

2006年11月6日月曜日

120センチの縄張りゾーン

公共マナーとはすなわちお互い様の快適を目指すための様々な約束事であり、同一民族であれば、その実践は本来それほど難しいものではなかったはずです。
簡単に言えば、自分がされて嫌なことは相手が誰であろうと『しない!』と決意できれば、相当な場面で居心地のよさがもたらされる筈です。

今週もまたそんな観点から、相互の快適空間やら快適な対応のための視点と具体論に手を変え、品を変え、迫ってみたいと思います。

そこでまず、あらためて意識したいのが【距離感】の問題です。
車を運転するときの車間距離の取り方に上手、下手があるように、対人関係においての適切な人間距離の取り方が求められますが、案外、表舞台に登場してこない課題でもあります。それゆえに獲得のための具体論も手薄な模様。

たとえば、親密な間柄の場合、初対面の場合、など状況は様々ですが、いったいぜんたい、どのくらいの位置関係で向き合えば良いのでしょうか?

ある日、ヤマアラシの夫婦があまりに寒いのでお互いに身体を寄せ合って暖を取ろうとします。しかし近かづき過ぎるとお互いのトゲが刺さって痛いし、離れすぎると寒い。痛い、寒い、その様子を称して『ヤマアラシのジレンマ』というお話になりますが、ようやく適切な距離を見出すまでには、その繰り返しの中でしか磨かれない技が問われることになります。

その技を獲得するために何度もヤマアラシのようにくっついたり、離れたりしてみるのも確かにひとつの方法ではありますが、ここはもう少し合理的に客観的な数字で望ましい距離間を捉えてみたいと思います。

ちなみに両手を床に平行にまっすぐ横に広げて、その片方の指先からもう片方の指先までを計ると、ほぼ身長分の長さになります。相手の身体に対して、この両手の範囲内に入るときには必ず、一声かける!が求められます。

この距離はおよそ120センチ。『ここから先は勝手に踏み込まないで!』という縄張りゾーンなので、この際、しっかり身体感覚化させたいですね。

2006年11月5日日曜日

ことばで『私』を育てる<ちょっとした口のきき方で生き方が変わる!>(著者:山根基世)

タイトル:ことばで『私』を育てる
著者:山根基世(NHKアナウンサー)
初版:1999年12月8日(2000年3月第3刷発行)
出版社:講談社
1、500円(税抜)

実はそれまではどうしても理解しきれていなかった、擬態語と擬音語の違いを『ありさまことば』と『オトマネことば』という置き換えで明快に獲得できたのは今日、ご紹介する1冊との出会いのおかげです。

言葉を扱うプロフェッショナルな立場にあって、言葉に向き合う真剣で真摯な眼差し、そしてその根底に流れる他者への暖かな思いと謙虚な自己把握。

久々に書棚から引っ張り出したこの本を眺めてみると、当時及びその後、いかにこの本から多くの気づきや教えを頂戴しているかが一目瞭然です。

本のいたるところがドッグイヤーされ、そこのページの何がポイントかという箇所にマーカーが引かれ、さらにそこにはコメントがポストイットに小さな文字でびっしり書き綴られて、あちらこちらに貼り付けられています。

そんなものにかれこれ1時間近く見入りながら、およそ8年前の出来事と、そしてそのときの自身のものの見方、考え方に思いがけず遭遇し、良くも悪くもそれらの観点がさほど変わっていないことに驚いたり、感心したり、、、本の力の為せる技につくづく頭が下がる気分に浸らせて頂きました

とりわけ最終章に紹介されている、『銀の雫文芸賞』の雫石とみさんの話は圧巻です。ご本人の著書『荒野に叫ぶ声』も即、購読しましたが、言葉はこころにあふれるものを語り、言葉がなければ考えることすら出来ないという、その当たり前すぎて見落としがちな原点にガツン!と向き合わさせてくれます。

2006年11月4日土曜日

オトマネ言葉

やはり地球温暖化の影響でしょうか、11月とは思えない穏やかな気温の毎日。市内各所の紅葉の見頃もこれでは月末から12月初旬になりそうな気配です。

先日、ご紹介した擬態語、すなわち【アリサマ言葉】でこの陽気を表現すれば、『ポカポカ!』がぴったりきますね。さて、擬態語とくれば、忘れてならないのが擬音語。こちらもナイスコミュニケーションのためには非常に有効な武器のひとつになります。

擬音語は【オトマネ言葉】と解釈すれば、グッと身近なものに思えてきます。
たとえば、落ち葉が散る風情をオトマネしてみると、はらはら!でしょうか。
穏やかな風はそよそよ、激しく吹き付ける風はビュビューとか、ゴウゴウ。
強い雨はザアザア。静かな雨はシトシト。雪はしんしんと降り積もり、その空気の冷たさの中、手足の指先がジンジンと痺れてきます。

水道の蛇口から勢いよく、水がザアザア!と流れています。そこで水道栓を少し閉めると水の流れはチョロチョロに変わりました。さらにもう少し、水道栓を閉めると、蛇口からはポトン!ポトン!と水滴が流し台のシンクに落ちて音を響かせることになります。

さて、ここでオトマネ言葉力の点検です。
この水滴の落ちるところにアルミホイルを置いてみると、その音はどんなふうに変化するでしょうか?実際に試してみる前に、頭の中でイメージをしてみてください。これがオトマネ言葉を鍛えるためのひとつのドリルでもあります。

水滴の音はポトン!ポトン!からパラン!パラン!に変化しますね。

オトマネ言葉やアリサマ言葉が担う役割は、まるで実際に体感しているような臨場感と目の前で繰り広げられているようなビジュアルな効果に集約されます。

何かの情報に関する、伝達精度を飛躍的に向上させる手掛りとして、擬態語と擬音語を意識して上手に活用し、胸に溢れる想いを滑らかに他者に伝えることが出来る、基礎体力を培っていきたいですね。

2006年11月3日金曜日

こぶし腰浮かせ!

暖かな好天続きの中、京都御所は今年も秋の一般公開の時期を迎えました。
いつもなら少し色づき始めている大銀杏も今年はまだ、まだ。

ちなみに銀杏の葉っぱに雄と雌の2種類があるのをご存知でしょうか?
全体に縦長で先端がはっきり二股に分かれているのが雄。
全体に横広がりで先端の切れ込みがあやふやなのが雌の葉っぱだそうです。
京都市内のそこかしこで銀杏の葉が色づき、風に舞うまでには今少し、時間が必要ですが、木枯らしの季節の楽しみのひとつに加えてみてください。

さて、ここしばらくのメインテーマである公共マナーに直結する【しぐさ】においても、銀杏の葉っぱさながら、雄雌ではなく【優劣】という区分がはっきりと存在しているようです。その【優劣】はやがて対人関係の良し悪しに繋がり、ひいては人生の展開にも深く影響しそうです。

昔、江戸の町民の間で使われた言葉に『こぶし腰浮かせ』というのがあったそうです。これは乗合船が出る矢先、誰かが乗り込んでくると、混み合って座れそうもない中、先客たちがこぶしをつくり、そのこぶしを船底に押し付け、両腕に力を入れて、腰を浮かせ、身体を少しづつずらして、1人分の座れる空間を作るためのしぐさの呼び名です。これなど、間違いなく心が柔らかになる優れたしぐさのひとつですね。

良いしぐさを磨けば、人間関係が良くなり、人間関係が良くなれば、商いが繁盛する。これを【江戸の繁盛しぐさ】と称したそうです。

譲り合いの精神や思いやりの心を育んだしぐさの記憶が言葉の消失とともに消えかかるのを何としてもこのあたりでストップさせたい気分です。

何気ないそのしぐさが見ず知らずの誰かの微笑みを誘うものか、反対に眉間にしわが刻まれそうなものなのか、大の大人ならそのくらいわかるはずです。
連休の人混みの中で誰かの心が温もるようなしぐさの種蒔きに!意識して挑戦してみませんか?それがやがてラッキーの種を確実に育みます。

2006年11月2日木曜日

アリサマ言葉

ここ数日、滋賀県のとある所でゴルフの集中レッスンに取り組んでおりました。携帯の表示がたいてい圏外になるような凄いところですが、おかげさまで下界よりは数週間早い、紅葉に見とれながらの甘美な時間を堪能させて頂きました。

雰囲気は一見、ゴージャスのようですが、実際はかなりアスリートモード。
朝、9時くらいから午前中いっぱい、打球練習。そして昼食休憩1時間。
午後90分ほどアプローチ、パター、もしくはバンカーの練習。
そこからプロが付いてくれてのハーフのラウンドレッスン。
終了後、5時くらいから更に、ナイター設備の中、軽く打球練習。
バタンキューでぐっすり眠った翌日は日頃、使っていなかった筋肉がギシギシパンパン!という擬態語がピッタリの状況で始まり、これを何日か連続。

さて、【擬態語】という観点からも公共マナーを考えて見たいと思います。

他者とのナイスコミュニケーションのために【擬態語】はとても重要です。
意識して使っているかどうかは別にして、【その物事や状況の有様を表現する言葉】である【擬態語】が適宜、使用されていると、会話はわかりやすく、リアルな臨場感を伴います。たとえば、ムキムキ筋肉のプロレスラーがドスンドスンと入場してきた!とかヨチヨチ歩きのお孫さんを嬉しそうにニコニコ眺めているおじいちゃん!とか。擬態語、つまり【アリサマことば】があれば、イメージはかなり豊かに伝わりやすくなります。かつて様々な中継番組でこの手腕を振るいに振るった達人といえば、やはり古館一郎さんではないでしょうか。

その【擬態語】に表わされる、ひとりひとりのアリサマが他者との関係性において居心地の良い方向に向かっているかどうか、そもそも、この視点の有無が問われる状況が多々、見受けられるのが昨今の公共マナーの実態のようです。

交通機関でドサッと投げ出すように床や座席に置いてある大きな荷物や紙袋。
入り口付近でたむろして、乗車妨害のような仲間同士。大きく広げすぎの新聞。
悪気ないでは済まされない景色は枚挙に暇がありません。

ゴルフの有様向上のため、繰り返しプロから指摘されたことは『しているつもり!はダメです。』『決意して、行ってください』ということでした。
この際、公共マナーの何かを決意して行う!そんな誓いを実践しませんか?

2006年11月1日水曜日

ささいなことの価値

個性的ロック歌手の第一人者で、すでに還暦を越えられた今も独自の世界に君臨されている内田裕也氏が、昔、米国のホテルに滞在されていた折の話。
当時、世界ヘビー級チャンピオンだったマイクタイソンにホテルの通路で出会ったことがあるそうです。そのとき、さほど広くない客室前の通路で、双方がすれ違うためにマイクタイソンがサッと壁に身を寄せて道を譲ってくれた瞬間、内田氏はタイソンの大ファンになったといいます。
以来、『何があっても俺はタイソンのファン!』とは内田氏の弁。

渡哲也さんも似たようなことをどこかで話されていました。
『初対面のとき、すでに大スターだった石原裕次郎氏が先に席を立って挨拶してくれた、以来、大の裕次郎ファンです。』

こうして眺めてみると、とてつもなく凄いことがあって人は誰かに惹かれるものではなく、むしろ何気ないしぐさみたいなことが、非常に重要な決め手であることに改めて気づきます。そしてそれが人間関係にもたらすものは、もしかしたら、我々の予想を遥かに上回るほど大きいのではないでしょうか。。

たしかに他から見たら、取るに足らないような、ささいなことを許せないのが人情で、だからこそ、ちょっとしたことがとても大切なのかもしれませんね。

あくびひとつも生理現象だからしょうがないだろう!と開き直って正々堂々の無礼より、せめて手で口元を覆ったり、慌てて俯いたりをする仕草を好ましく眺めるのが人の本音です。さらにこれからどんどん寒くなる季節ならではの課題としては風邪を引いたときの公共マナーに照らした配慮が求められますね。
本人にしたら咳くらい、、、でも、他人からすればマスクしてよ!が当たり前。

見ず知らずの誰かは、もしかしたら数分後に知り合うことになる誰かかもしれません。人生、どこでどんな出会いが待っているのかなんて、神成らぬ身にわかるはずもなく、ならばこそ、赤の他人に対しても『袖すり合うも多生の縁』の精神で、気持ち良いマナー、さわやかなしぐさで向き合いたいものです。

2006年10月31日火曜日

傘かたげ

地下鉄を利用するとき、我が家から最も近いのは今出川駅になります。
その駅に向かう道すがら、寺町から烏丸までの今出川通りの大半は南側が御所、北側が同志社。歩道は圧倒的に南側が広く、北側は狭くなります。

いつだったか、雨の朝。結構、急ぎ足で駅に向かう時間帯が見事に同志社の学生サン達の通学タイムにバッティングしたことがありました。しかもたまたま同志社前のバス停のめったに押されない押しボタン信号が青になり、いつもなら南側の御所サイドの広い歩道で烏丸までを歩きぬくのに、、、その日に限ってなぜか、北側歩道に進路を取ってしまいました。

おかげさまで駅までの道中は当方の行く手を阻むかのような、学生さんたちとの激しくも情けない、すれ違いバトルが展開されることになりました。

『傘かたげ』という言葉をご存知でしょうか?狭い道で誰かとすれ違うときに自分の傘が相手の傘とぶつからないように、双方が互いの傘をどちらかに傾けてすれ違いを滑らかにする仕草のことを言います。

京都のそこかしこに点在する狭い路地にあっては、お互い様にこの『傘かたげ』をして譲り合いながら、気持ちよく行き交う知恵を育んできたはず。
そしてそれはこの国のどこでも語り継がれ、受け継がれてきたはず、、、。
ではなかったことをその朝、しっかり思い知らされました。

傘の中の顔がこちらからは見えないほどしっかり深くさした傘で、ズンズン突き進んでくる様子はまるで闘牛の牛さながら。正面衝突を避けるためにこちらが傘をよけていても、すれ違うたびに必ず傘のどこかがぶつかり、その拍子に飛び散る雨のしぶきが容赦なく顔や肩に振りかかってくる始末。

もちろん、傘がぶつかったからとて、『ごめんなさい』もなければ、『失礼』も
なく、『あっ』とか『えっ』すらないことに、段々、怒りを通りこして不安と絶望がシャッフルされたような、実にやるせない気分になってしまいました。
いくら見ず知らずの他人とは言え、お互い様に譲り合う心とその表わし方としての公共マナーの教室をこうなったら開催するほかないのでしょうか?

2006年10月30日月曜日

咄嗟の一言

公共マナーにもの申す以上、当方にも自覚と実践が問われますが、急ぎ改善が求められるものとして、【道を行く見ず知らずの人と人がすれ違いざまに軽くぶつかったりするような、偶発的接触時の咄嗟の対応のあり方】が課題です。

大都会であればあるほど悪気なく人と人は不本意ながら触れ合わねばならない機会にしょっちゅう遭遇します。満員電車しかり、コンビにしかり、先日やっと拝見できた平日なのに大盛況のプライスコレクションしかり。

混み合う場所での公共マナーについては、つくづく習慣の重要性に言及したいと思います。それは、たとえば悪気なくすれ違いざまに誰かと自分の肩と肩がほんのわずかであれ、ぶつかったとき、咄嗟にわびる言葉が出るか出ないかの
身体的反応への問いかけという意味になります。

正直に申せば、ここ数年、気になりつつも実践できない我が身があります。
そしてそれは総じて、日本人全体の課題でもなかろうかと思い至ります。
たとえば、どこかの改札口で、あるいはランチで混み合う食堂で、はたまたバーゲンセールのごったがえす人混みの中で、誰かと軽く接触したとき、何某かの謝罪の言葉がスンナリと出てきますか。出せておられますか?

公共マナーとしてぜひ、見習いたいのは、状況はどうであれ、理由すら問わずに、その瞬間に、『ソーリー』とあっさりと謝罪の言葉が出るアメリカ型の体質でしょうか。それはおそらく、見知らぬ者同士の不要な諍いを未然に防ぐための狩猟民族系ならではの基本の処世術の伝承の成果と思われます。

先日、やや急ぎ足で四条通りを東に向かって歩いているときに、同様に急ぎモードで西を目指す、見ず知らずの女性とよけたつもりの最後の瞬間に右手の甲と相手のおそらく左手の甲が瞬間、カツン!と接触しました。

痛い!とこちらが感じた以上、相手も痛かったはずなのに、振り向きもしないで遠ざかる背中に内心、チッ!と舌打ちしている自分がいて、『あーー、まただ!まだダメだ』となんとか反省はするものの技には至らぬ不甲斐無い状況です。『失礼』と咄嗟にさわやかに言葉が出せるようになりたい!四の五の言わずに不愉快を瞬間に主体的に消化する癖付け獲得をしたいと願う日々です。

2006年10月29日日曜日

天風先生座談(著者:宇野千代)

タイトル:天風先生座談
著者:宇野千代(故)
初版:1987年
出版社:廣済堂出版

今月もあと数日、読書の秋!もまもなく終盤戦といった頃合になりますが、納得できる本との出会いや、感動の活字体験を堪能されましたでしょうか?

さて、ほんの少し、昨日のテーマにも関連するあたりから始めてみたいと思います。【想像するから創造される】ということについて。

かつてそのセクシーな容姿で世界的な大女優に登り詰めたマリリンモンローは、その不幸な生い立ちのせいで、幼心に『幸せは決していつまでも続かない』と深く刻みつけてしまった、と言われています。故に後年、人も羨むロマンスの中、幸せの絶頂で彼女はいつもその言葉を思い出し、これはいつまでも続かないと悲しい別離を繰り返すことになります。彼女の私生活はまさに彼女が心に決めて想像した通りに現実を創造し続けた、という切ない解釈になります。
今もって謎とされる死因にもそんな悲しい背景が多分に絡んでいそうです。

反対に時代背景からすれば、驚くほど自由奔放に恋愛をし、しかも明るく楽しく、人生を謳歌し、成功し、長寿を全うされた日本人女性として、故宇野千代さんがおられます。多くの作品を残されましたが、実は映画にもなった『おはん』という作品を執筆後、18年間、1行も書けない!という時期を過ごしておられます。宇野さんがこの長きに亘る暗闇から抜け出し、見事に光溢れる世界に戻ることが出来たのは、あの有名な故、中村天風氏との出会いに拠ります。

宇野さんが書かれた『天風先生座談』は廣済堂出版から1987年に出版されていますが、おそらく今、これを手に入れるのはかなり難しい気もいたします。
が、中村天風氏の本は、宇野千代さんをはるかに超えるほど沢山、出版されていますので、この機会にぜひ、何かにトライしてみてください。

ご自身の体験を土台とされた人生訓は多くの政治家・官僚・経営者が今もって
師と仰ぎ、価値ある人生への羅針盤とも言うべき実践の指南に溢れていますが、
宇野千代さんが天啓と受け止めたそれは『人間は何事も自分の考えた通りになる。出来ないと思うものは出来ない。出来ると信念することはどんなことでも出来る』という言葉だったそうです。

『書けると思えば、書けるの?』そしたら、『本当に書けるようになっちゃったの!』と宇野さんが語る言葉は力強い輝きのメッセージでもあります。

2006年10月28日土曜日

想像と創造

カッコウという鳥は歌でも有名ですが、もうひとつ【托卵する】ことでも知られています。【托卵】とは他の鳥に卵を委託することを意味しています。

まるで保育所みたいに偉く面倒見の良い便利な鳥がいるわけではなく、カッコウが勝手に別の鳥の巣に自分の卵を産み落としてゆくという我儘な方法論です。初めてテレビの番組で見たそれはかなり衝撃的であり、自然界の凄さに舌を巻いた記憶のひとつ。カッコウは親鳥がわずかに巣を離れた隙に、神業とも言うべき素早さで卵を産み、数合わせにもともとあった卵を1個もって逃げます。

カッコウはおよそ14個の卵をこうして、ダルマツグミをはじめ、様々な鳥の巣に1個づつ、産み落としてゆきます。その後、何かの本で眼にした記事には、カッコウはその巣に中の卵に似せた卵を産み分けることすら出来ると紹介されていました。つまりカッコウは別の鳥の巣の中の卵を見て、こんな卵を産むぞ!とイメージし、それを現実にクリエイトする能力を持っている!ということになります。

これは凄い!と感動しつつ、でもカッコウごときに出来るなら、人間だって簡単に出来るのかもしれないとあらためて考えていた折、ある建築関係の方にこの話をしたら、【イメージして、クリエイトする】そんなの当たり前じゃないかごく普通のことだとあきれられてしまいました。

いわく、『家を建てよう!という時、いきなり工事には取り掛からないよね』
まずはどんな家を建てたいのか、予算は?構造は?広さは?そして様式は、とありとあらゆることをイメージして、ひとつひとつ詰めてゆく。その結果、洋風の2階建ての建坪いくらの、予算がどのくらいの、、、、という計画が出来上がり、これに沿って具体的な工事、すなわちクリエイトが始まってゆく次第。

確かにおっしゃる通り。晩御飯の買い物ひとつも、今日はシチューとイメージを決めてからその食材調達というクリエイトが始まるわけです。

この言葉を日本語にすれば、【想像するから、創造される!】となりますね。

2006年10月27日金曜日

きれい好きの価値

京都を代表する河原町通り、中でも多くの人出で賑合う三条から四条界隈は中心スポットゆえに公共マナーが問われるメッカでもあります。日頃から環境美化、あるいはその維持継続への商店街の皆々様のご苦労は察するに余りありますが、休日明けなどはさすがに街全体がグッタリして見えるから不思議です。前日の賑わいを物語る道端のゴミがそうした印象の決め手なのでしょうか。

そうした街中で、朝から清掃されている様子を時折、タクシーやバスの車中から拝見していますと、道端のゴミの大半はタバコの吸殻ではないかと思えるのですが、実際はどうなのでしょうか?バス停などでも灰皿が備え付けてあるところと、そうでないところが様々ですが、あればあったで汚いことこの上なし。喫煙マナーを守っておられる愛煙家には申し訳ありませんが、東京千代田区の如く、禁煙都市宣言をすべき!ではと本気で思ったりしております。

さて【割れ窓理論】をご存知でしょうか?道端に放置された乗用車。何日かが過ぎ、ある日、誰かが悪ふざけて、窓を割ってしまう。途端に乗用車はそれまでとは異なり、あっという間に見るも無残に壊されてゆくというストーリー。
つまり、【割れた窓】というあるきっかけが生じたことで、この場合は【破壊行為】というべき、何かが加速度的に形成されることを意味しています。
ニューヨークの地下鉄の落書きを排除するために、徹底して掃除をした結果、地下鉄の犯罪が激減した事実はあまりにも有名ですが、これと同じことを逆から眺めた理論ということになります。

京都の街に古くから続く【門掃き】の習慣は、こうして考えて見ると景観美化とともに門前のきれいさが実は安全安心への眼に見える設計手順と知っていたからこその知恵の伝承なのかもしれません。

毎朝、自社のトイレを素手で掃除し続けて超有名なイエローハットの創業者、鍵山さんを見習うことは無理でも、せめて自らの行為で街を汚さない!会社を汚さない、あらゆる公共スペースにそんなつもりで向き合えれば、お互い様の快適が心地よさを生む善循環の流れに必ず発展してゆきます。
汚いよりきれいが好きなのは、人類の共通点のひとつ。身も心も環境もきれいをめざして、意識してきれい!がラッキーの体質を育みます!

2006年10月26日木曜日

壁に耳あり、適正音量

10月も終盤を迎え、紅葉便りがそろそろ気になる頃、秋の虫の音色がだんだん
遠のいてゆきます。我が家は京都御所のすぐ近くなので、夜毎の愛犬のお散歩タイムがちゃっかり、御所の虫の音コンサート拝聴も兼ねていたりします。
やがてしんしんと静寂だけに包まれる頃、随所に点在する大銀杏が見事な景観を見せ始めることになり、紅葉のオーケストラが姿を現します。

さて、公共マナーの乱れに伴い、京都御所内のそこかしこに設置されていたゴミ箱が撤去、集約されて早や5年以上にもなるのでしょうか?ゴミ箱があるから、ごみがあふれかえる状況へのかなり切迫した対処ではなかったかと推察しますが、ようやくごみは持ち帰るが鉄則になりつつある昨今、京都市は今月からのごみ収集袋の有料化もあって、ますます一人ひとりの自覚に根ざした取り組みへの期待が問われる段階といえそうです。

そこで老若男女を問わず、自覚に根ざした取り組みに期待したい事柄として公共スペースでの【声の音量】を問いかけたいと思います。ここ数年、いつのまにか通勤ラッシュとは無縁の生活パターンになり、その分、昼間の地下鉄・バス・私鉄各線の利用頻度が高まる中、一番、ビックリしたのはボリューム調整機能を持たない大きな声で繰り広げられる仲間内の会話!でした。

空いているバスなどでこういうケースに遭遇すると、あえて聞き耳をダンボのように欹てずとも、らくらく人様のプライベートなお話が伺えちゃう特典付きでもあります。こういう事態を安定供給してくれるのは、やはり高校生がダントツのようですが、大の大人も捨てたものではないので困ったものです。

どこの何がどう美味しいとか、どこの店がどんなサービスをしてくれるとか、このあたりなら罪がなくてよいのでしょうが、先生の誹謗中傷や授業内容のいささか突っ込んだ話になってくると、実名なども容赦なく飛び交うだけに、いささか事態は様相を変えることになります。加えて制服だったりする場合はダメージは学校評価にも直結します。では私服なら構わんのか!ではなく、こちらも路線によりある程度は察しのつくケースもあり、指導の限界なのか、放棄なのか、いずれにしても先生方が目指しておられる姿とはかけ離れた状況へと加速邁進するプロセスに相成ります。それでなくても今、大変だとは思いますが、、、、、。

適正音量への指導はいつから、どこで始めればよいのか、きちんと考えなくてはいけない大きな課題のひとつと重く受け止めています。ちなみにビジネスマン各位も案外堂々と大きな声の車中会話で、そんなこと言っていいの!を連発されておられます!
壁に耳あり、障子に眼あり!

2006年10月25日水曜日

キーボードの音色

新幹線の乗車模様で様変わりした光景といえば、やはりパソコン持込み普及度でしょうか。膝に広げたノートスタイルに向かってド真剣に仕事の資料作成に取り組む方もいらっしゃれば、ゲーム、映画鑑賞等、様々ですが、車中でもオフィスでも案外、耳障りなのは、キーボード操作に伴う音。

いわゆるブラインドタッチで大変、滑らかな操作が出来る方の場合は見事に音がしないのですが、我が身も含めて、まだまだ!というレベルの層が操作する時のキーボード音がやけに大きく響いて、なんとも不快指数大!ということがあります。とりわけ、変換キーやエンターキーを押すときに妙に力が入る癖などは本人はまったく自覚がない分、改善の兆しが望めないので、あえてこの場を借りて自己点検をお願いします。いっそ、パソコン教室のメニューの中に【キーボード操作の力加減】というメニューを加えて頂いてもよいかも?

指圧の場合は指先の力加減を客観的に掌握するために秤を押して、ひとつの目安にされるようなので、同じ要領で叩き方の音量点検が出来れば楽しいかも!

個人的かつ過去の体験をもとに、言わせて頂ければ、どういう訳か特定のキーを叩く時だけ、その指先が一旦、上昇し、力強く振り下ろされるという段取りが多いように思われます。そんなに力いっぱい叩かなくても、わかってますから、、、という声がキーボードから聞こえてきそうな勢いです。その結果、お隣さん及びご近所の思考力はその都度、妨害、阻害モードになり、おかげさまでストレスは目に見えて上昇ルートに乗っかることになります。究極は職場の生産性の低下にまっしぐら。なので細かなことと見逃すわけにもいきません。

音というのは不思議なもので一旦、気になりだすと止まることなくどんどん、気になって意識の大半を占めてしまう、厄介な性質がありそうです。ピアノの音がうるさいとか、レコードが耳障りだとか、足音が響くとか、BGMも大きすぎれば、仕事の邪魔、かくして騒音公害の種は尽きないことになります。

【他者配慮が欠落すると、どんな動作も音がする】という原点に照らして、動作が生み出す様々な音に公共性の観点からも意識を向けたい秋の静かな夜です。

2006年10月24日火曜日

便利の先の不便の未来

仕事をしていく上でなくてはならないものは沢山ありますが、中でも重要度の高い【パソコン、携帯電話】あたりは、およそ30年前!には存在しなかった代物だけに、今日の普及浸透ぶりはいささか空恐ろしくもあります。

携帯がなければ仕事に支障をきたすだけでなく、日常生活にも影響しちゃう!という知り合いはいっぱいおられます。取り分けメールのやり取りの便利さは対人関係のコミュニケーションレベルを一気に進化させたのではないかと睨んでおります。但し、それは【狭く、深く】においての成果であり、親しい間柄がより一層、肌理細やかなやり取りで、親密度を飛躍的に向上させつつある点に限られていそうで、そこにえもいわれぬ大きな課題の気配が漂います。

便利であればあるほど不便な事態に突き進んでゆく実態は、先日、携帯を持ち忘れて外出した折に痛感させて頂きました。たとえば、今や携帯は個人の記憶の役割も担ってくれているため、どこかに電話しようとしても番号がまったくわからない!という至って不都合な状況が展開されます。以前なら覚えていたソレを今は完全に携帯任せ!故に携帯水没事故に遭遇された友人知人はしばし社会生活からの抹殺を余儀なくされるということになります。

さて、この携帯電話の公共マナーにおいては多くの方々が眉を顰めてやまない状況であろうと推察いたします。電車やバスの中での車内放送が滑稽に思えるほどの狼藉ぶりは、どういう訳か、老若男女を問わずの光景でもあります。
若者だけならいざ知らず、そこそこの恰幅のどこかの社長と思しき御仁が誰、憚ることなくわめき散らす姿には、なんとかしないとこの国が危ない!という危機感すら感じさせます。大人が大手を振ってやって見せれば、それを子供が真似するのは自然な現象であります。

緊急事態もおありでしょうが、せめて小声で!かつ周囲に配慮している気配を身体の姿勢に漂わせつつ、、、、そんな指導がその内、メニューに加わりそうです

2006年10月23日月曜日

公共マナーの行方

電車やバスなどの公共交通機関で気になることのひとつに、飲食のマナーがあります。飴やガムくらいはまあ、いいとして、パンとかおにぎりを食べるのは如何なものでしょうか?クッキーならよくて煎餅はダメ?みかんはいいけどバナナはいけない。いえ、いえ食べ物の種類によって良し悪しを判断する問題ではなさそうです。公共スペースでそもそもどこまでそれが許されるのかという捉え方が非常に曖昧かつ認識の格差が急速に広がりつつあるように思います。

正直言って、お行儀のあまりよろしくない今時、若者系の作法違反ならば、それはいつの時代にも形を変えて出現するありがちな光景として、見逃してもよいのですが、、、昨今のそれはいささか状況が異なってきているようです。

つい先日も和服姿の妙齢のご婦人が混み合うバスの中でムシャムシャとサンドイッチを召上がる姿を拝見しました。スーツにネクタイのビジネスマンがいかにも朝ごはんという風情でボックス型紙パックのオレンジジュースにヨーグルトとクロワッサン!を交互に口に運ぶ光景はいくらなんでも公共マナーを蔑ろにしすぎてはいないでしょうか。

秋祭りの帰り道、アツアツのたこ焼きを買って夕暮れの道すがらに頬張って歩くのと一緒にしちゃいけない何かが、そこには公共道徳の名のもとに存在したはずです。それが急速に失われつつある危機感をどう言えばいいのでしょうか。

とは言え、なんとも割り切れないもどかしさはその一方で確かに存在し、悩みは深まります。それは新幹線の車中やJRの特急列車なら、お弁当を食べてお茶飲んでも良いのに、在来線はなぜダメ?なのかという問題です。どこから良くてどこからが許されないのか、その境界線が至って不鮮明です。時速何キロ以上で定めるべきなのか、はたまた旅行ですから!という乗車目的で判断すべきなのか、あるいは混み合う場合はご遠慮ください!という緩やかな応対でいくのか。ここらあたりが余計に問題を複雑に仕立ててゆくようです。

個人的には外でモノは食べちゃいけません!と教育されて育った世代だけに、基本的にはすべてNO!なのですが、じゃ、遠足のお弁当はどうなるのかと問われたら、思い出せませんと国会議員答弁になっちゃいそうです。そんな訳で今週は他人との関わりという公共性も踏まえてマナーの行方を捜索してまいりたいと思います。

2006年10月22日日曜日

勝ちに行く身体(著者:坂田信弘、斉藤孝)

タイトル:勝ちに行く身体
著者:坂田信弘氏(プロゴルファー)、斉藤孝(明治大学文学部教授)
初版:2006年6月10日
出版社:角川書店
705円(税抜)

サラリーマン時代の最終的な肩書きはがんばってた割には【課長】止まりで、今からすれば、なんだ!という気がしなくもありませんが、それはそれで結構大変なプロセスの成果ではありました。昇格試験なんてものをクリアしない限りはその役職にはなれない訳で、しかも試験を受けるためには日頃の勤務態度やら上司からの評価がある一定以上でなければならず、となると当然、仕事だけやっていれば、良いわけでもなく、なかなか狭き門の茨道でした。

そんな課長職まではまだ、随分遠かった頃、故塚本会長の発案で社内呼称が廃止になりました。つまり当時は名前の後に役職名がセットされた呼び方が一般的でしたが、それをやめて一律、さん付けで呼び合うことが導入された訳です。昨日まで岡村社長と呼んでいたのを岡村さん、水谷課長と呼んでいたのを水谷さん!狙いはたしか欧米の職場にように上司と部下がフランクな間柄を設計して、自由な空気の中で職場の生産性を上げようということだったと思います。

が、なかなか呼ぶ方も呼ばれる方も、長い歴史に逆らうことにはかなり抵抗があり、それが定着するのには相当な年月を必要としました。終身雇用が当然で、社員はみな正社員の時代ならではの懐かしい思い出です。

さて、自由にモノが言い合える環境作りに、『さんづけ』がどれほど貢献したのか、わかりませんが、今にして思えば、そのあたりからどうも敬語の使い方がルーズになり、お互い様にだんだん下手になっていったような気がします。

『うん、うん』という部下の返事をいつの間にか、上司が許すようになり、その代わりに部下は上司を可愛い!と見くびるようになり、、、、。
きちんとした言葉使い、そして敬語は相手をどう思っているのかという待遇表現であることをあらためて学ばなければならない切迫した状況やもしれません。

2006年10月21日土曜日

器用、不器用?

世の中には生まれつき何かにつけ器用で、トントンとスムーズにことを為すタイプと、何をするにしても不器用で、大層、時間のかかるタイプがあります。

ある瞬間だけを切り取ってみれば、間違いなく前者がうらやましいのが人情ですが、人生ステージのロングスパンで眺めてみると、一概にそうとも言い切れないのが人生の妙味だったりします。

あらためて周りをゆっくり見渡してみると、なんでも簡単に出来てしまうが故に、幅広く多趣味ではあるものの、どうも全般的に底が浅く、結局すべて中途半端で投げ出してしまうような、器用貧乏的展開も案外、多いものです。
反対に取っ掛かりが下手だからこそ、人一倍コツコツ努力を重ねるうちに他の者には見えない愉しさみたいなものを発見して、さらに精進を重ねるうちにいつしか、先人が見出しえなかった偉業達成などという展開になることも、歴史上の伝記物を持ち出すまでもなく、よく有る話といえます。

そんなことがだんだん、はっきりとわかってくるのが実は加齢の醍醐味のひとつかもしれません。といっても高齢社会の今日にあっては加齢と称せる年代の特定がこれまた、結構難しくもあります。

何かの本で紹介されていた、大徳寺の尾関和尚の講話の中に『五十、六十、花なら蕾、七十、八十、働き盛り、九十になって迎えが来たら百まで待てと追い返せ』とありました。こうなると還暦くらいでは、まだまだひよこ扱いかもしれませんが、どうも年齢を重ねなければわからないことや、見えないことって、沢山有るのではないでしょうか。たとえば、その場の空気が読めたり、他人の顔色がわかるのもある種、年齢と共に鍛えられてゆく能力であって、研修やセミナーに参加して教えてもらったから出来るようになる訳ではなさそうですね。

いつだったか、老獪な人生の達人ともいうべき先輩から、語呂合わせの言葉を
頂きました。その時は『そうかな?』だった感想が、やがて『そうかも』になり、近頃『そうだな』に変わりつつあります。その言葉は『不器用は武器よ!』

2006年10月20日金曜日

謝ることは難しい?

『たいしたことではないから、、、、』とつい見過ごしたり。
『そんな細かいことにいちいち口を出さなくても、、、』とためらったり。
そういう気分が半々ではなく、51対49のようなバランスになったとき、何かが崩れ始めたり、どこかに歪みが生じたりするのではないかと考えます。
『ま、いいか』と1度、見逃したことは、こちらはおおめに見たつもりでも見逃された相手にすれば、それ自体がどのようなことであれ、『この前は良くて今回はなぜダメなの?』と気づきの矛先がその段階ですでにぶれる危険性も孕んでいます。叱ることの難しさと重要性はここに強く根ざしていそうです。そのときその場で叱る、スリと同じで現行犯!と相当、明快に自覚していても嫌われたくないという思惑も手伝って、叱ることは至難の業へと登り詰めます。

先日、ある会に連絡もなく欠席された御仁から、数日たって行けなかった理由をご報告頂きました。正直言って、今更、理由を伺っても、だからどうなの?という気分であり、むしろ理由はどうあれ、連絡もなく欠席した行為に対してなぜ一言の謝罪もないのか、不思議でしょうがないのが率直な感想です。

たとえば約束の時間に遅れてきて、あれこれ遅れた理由をまくしたて、自己を正当化して『だから自分は悪くない!』と見事に証明して見せたつもりでも、待たされた相手がそれで納得するはずはありません。百歩譲って、たしかに最もな理由があったとしても、まず遅れた事実を謝る。素直に謙虚に誠実にあっさり謝る!ことがなぜか、出来にくいことになってきてはいないでしょうか。

そんなモヤモヤを抱えつつ、京都流を眺めていたら、【おやかまっさん】の中でドンピシャリのご指摘があり、少し背中を押して頂いた気分です。
謝ること!がまるで何かの負けを認めることであるかのような錯覚から早々に脱却し、それは決して自己否定ではないことに思い至りたいと考えます。
むしろ、謝ることは、その時点の自らの至らなさにをありのままに素直に潔く自己肯定する重要なプロセスのひとつではないでしょうか。それがあるからこそ、次なる成長のプロセスが始まる。いえ、そこからしか始まらない。

理由探しの責任転嫁の循環がやがてもたらすものと、謝罪に始まる自己鍛錬の再設計循環のもたらすものの違いは、とてつもなく大きい!

誰しも間違うし、しくじるし、そんな時、間髪いれずにごめんなさい!と言える体質こそ、ラッキーの種ではないかと思うのですが、、、、。

2006年10月19日木曜日

無意味の見直し!

ピンクレディの復活コンサートの模様をドキュメンタリー番組で見たとき、正直凄いな!と感動した記憶があります。さほど変わらない年齢(のはず?)の2人の身体のラインの美しさとしなやかさ、そして圧倒的なパワー。最も驚いたのはスタジオでのケイちゃんのインタビュー姿。床に座って左右に大きく開脚、身体を前傾させ、床に両肘をつけながらのインタビュー姿。つまりストッレッチの合間に取材!という設定。その柔軟性にガツン!と刺激を受けました。

根拠を問われると困るのですが、持論のひとつに【頭の固さは身体の硬さに比例する】というのがあります。たまにやって頂く、頭皮マッサージなどで『頭固いですね?』と言われる度に、その部位の硬さよりも【考え方や思考、捉え方や見方などの柔軟性の低下】を指摘されているようで、内心ひどくダメージを受けることがありますが、、、、それはこの信条にも近い持論によります。

赤ちゃんのときにはぐにゃぐにゃに柔らかな身体。頭脳も同様に柔らかく、ゆえに驚くほどのスピードで沢山のことを学んでいきます。しかし、加齢と共にやがて硬くなってゆく身体。そこで停止する思考。

個人的にはストッレチや筋トレに毎朝、そこそこ勤しんでいたのですが、、、、
ケイちゃんを見て『足りない!努力不足だ!』を痛感し、以来、いつものメニューに床に胸がつく!をプラスしてそろそろ丸2年、、、ようやく近頃は少しマシになった気が致します。ということで、どうせ身体を動かすなら意味のない仕草や動作より、目標のあるソレをお薦めいたします。

ミズタニセレクトで、感じワルイ!動作を挙げれば、【腕組み・頬杖・足組み・指先いじり・爪いじり、髪の毛いじり・全開放のあくび・だらしない姿勢全般・、指差し・つめをかむ・仁王立ち・首をかしげる・口ビルを突き出す・反り返る】あたりでしょうか?いずれも無意味なら即刻、改善が望まれます。

いつだったか、東京出張の折。会社の後輩に近くの郵便局の場所を尋ねたら、その場の床に足で地図を書き始めたので、びっくり仰天!
その場で指導!となりましたが、何気なくやっていることって怖いかも、、、。

2006年10月18日水曜日

腕組み・考察

癖になっている仕草や、悪気ない動作がもし自分の印象を知らず知らずの内に悪くしているとしたら、誰だってすぐさま改善行動に取り組むはずです。

ところがそうも理屈通りにゆかないところが人の世の常であり、不思議な処。
身体には良くないとわかっていてやめられないタバコやお酒。ダイエットの敵と言いながら、ちょっとだけならとするつまみ食い。運動不足を嘆きながらゴロゴロとテレビの前から微動だしない身体。ギャンブルしかり、寄り道しかり、無駄使いしかり、『イカンいかん』と言いつつ繰り返している何かが、誰にでも一つや二つはありそうです。

『だから人生、おもしろいのよ!』と達観できる年齢、心境かつ自他共に認められる状況に至るまでには、もう少し時間も努力も問われそうですね。そこであらためて注目してみたいのが【腕組み】という課題。だいたいどういう状況において、人は腕組みをするのでしょうか?と質問されたら、どう答えますか?

難しい問題に直面して、考え込む時には、むしろ【ロダンの考える人】のポーズになりそうですね。となれば、悩んでいる?困っている?あるいはただ手持ち無沙汰?そもそも腕組みなんか、めったにしない?あるいはしているか否か自覚がない?このあたりからの検証も必要かもしれませんね。反対に向き合う誰かに【腕組み】をされたとき、どんな気分になりそうでしょうか?

【腕組み】がよく見受けられるシチュエーションとしてはセミナーや講演等で誰かの話を聞いている時、はたまた商談や会議中、あるいは数人でのミーティング中、もしくは電車の中での居眠りモード。かなり勇気を振り絞って申し上げるならば、かつ偏見かもしれませんが圧倒的に男性の方に【腕組み】が多いように思いますが如何なものでしょうか?
【腕組み】は実は防御であり、勢い他者から身を守るために相手を<拒絶、否定する>という意味を持つ動作になります。

ゆえに【相手を受け入れる、認める】気分の時には、NG動作となる次第。

2006年10月17日火曜日

仕草のエピソード

朝晩ほどは混み合っていないもののそこそこの乗車率の電車の中。
肩より少し長めの髪形をした若い女性がドア付近に立っておられました。
その女性の後ろにはほぼ同じ背格好の少し年配の女性が立っておられました。
何気なく、見ているとドア側の女性が肩より少し長めの髪の毛をどういう訳か、ひっきりなしに後ろに掻き揚げています。

それはまさにシャンプーリンスのコマーシャルやちょっと気取った雰囲気のシチュエーションならピッタリの仕草という感じです。が、しかし、そこは大阪地下鉄・御堂筋線の中。しかも押しなべて高い乗降率を誇る、梅田から本町に向かう車中での光景でした。

彼女がうなじに差し入れた手の甲で後方に撥ね上げる髪の毛は、彼女の背中に向き合っている少し年配の女性の顔を1度ならず、、2度、3度とまるでからかうように直撃します。当然、その攻撃に出くわした後方の女性はその都度、前後左右に顔をそらして応戦モード。だんだん不愉快色が濃くなってゆきます。

自分の悪気ない仕草が後ろでどんな事態を展開させているのか、まったく気づいていないその女性は涼しい顔で、癖としか言いようがない仕草をテンポよく繰り返します。さて、この間、時間にすれば、おそらく1分足らず。

とうとう堪り兼ねた後方の女性が『ちょっとアンタ、さっきから髪の毛が顔に当たってんね、そんなにうっとしいねやったら、散髪いって、切ってきよし!』とピシャリ、明快なご意見のご指摘!をなさいました。

驚いたのは車中の反応です。何人かのくすくす笑いと数名のぱちぱち!と賛同の拍手と『スミマセン!』とびっくりしつつうなだれる女性の謝罪の声とが、ほとんど同時にそこに展開されました。皆さん、見てないようで見ていたんだ!と妙に心地よい一瞬の出来事でした。大阪弁っていいな!こういうのいいな!こんなふうに何かが上手くキャッチボールできたら、、、、いいな!

そんなことをしみじみ考えさせてくれた仕草・実話エピソードでした。

2006年10月16日月曜日

無くて七癖、、。

『無くて七癖、有って四十八癖』(ナクテナナクセ、アッテシジュウハックセ)と申しますが、ご自身の癖はいくつくらい掌握されていますか?

ここでことわざ通りに最低7つ、スラスラ言えるようなら、なかなかの御仁。ところが普通は自分の癖に案外、無頓着なものです。むしろ職場の仲間のように、身近な他人の方がしっかり掌握してくれているから不思議です。鼻をこする、耳をいじる、おでこをかく、顎をさする、口をとがらす、首の後ろをなでる、髪の毛をひっきりなしに指先にからめる等など、あらためて観察してみるとあれこれ、結構目に付き始めます。さらにからだ全体にこれが拡大されれば、さぞ個性的な癖の数々が散見されることになるでしょうね。ちょっとした癖と日常動作に伴う仕草、その仕草の集合体としての動作、このあたりの切るに切れない関わりを【滑らかな対人関係の構築】という観点から捉えることで、好感度設計の新たな手掛り探索につなげることが出来るかもしれません。

そういえば、商談中にいつも器用にボールペンを指先でくるくる回している営業マンがいらしゃいました。へえー、随分器用だな!と感心して横目で眺めつつ、内心は<意味のないことしてないで、メモでも取りなさいよ!>と思うことがしばしばありました。

あるいは、この夏、どこかのビアガーデンでいかにも今時の若者、アルバイト嬢がこちらのオーダーをボールペンで手の甲に書き留める姿にびっくり仰天。思わず『メモ用紙とかはないの?』と親身になって聞いてしまっていました。

ちょっとした癖、仕草にまつわる快、不快は紙一重。しかし、こうしたものがすこしづつ積み重なって、やがて確たる個人の評価が作り上げられていくのも事実です。多民族国家であるが故に、動作学<キネシクス>が早くから発達したアメリカに比べると、日本におけるソレはまだまだ、特殊なケースのリハビリモードが中心となるのかもしれませんが、日常の何気ない仕草にも課題は沢山ありそうです。今週は意識してそんな無意識に向き合ってまいります。

2006年10月15日日曜日

私の履歴書、乱にいて美を忘れず、貫く・創業の精神(著者:塚本幸一)

著者:塚本幸
タイトル:私の履歴書
初版:1991年
出版社:日本経済新聞社
タイトル:乱にいて美を忘れず
初版:1992年
出版社:東京新聞出版局
タイトル:貫く・創業の精神
初版:1996年
出版社:日本経済新聞社

穏やかな秋晴れの休日、夕暮れの散歩の道すがら、かすかに色づき始めた木々を眺めていると毎年、ごく当たり前に繰り返される光景ではありますが、自然の凄さに改めて畏敬の念を抱かずにはいられません。命あるものがその生命の輝きに向かって精一杯努めることが、どれほど大切なことか、突然、そんなことがしみじみ有難いな!とこみ上げてくる瞬間です。

個人的に秋はどうも、そういうモードになりやすいようで、勢い思い出すのは<生かされた人生>が持論の故・塚本幸一氏のことです。ご存知のように女性下着メーカー、ワコールの創業者であった塚本氏は私が同社に入社した頃は、もちろんお元気バリバリ!年に2回のボーナスの折には必ず、本社ビル勤務の全員に握手で賞与を手渡してくださり、夕方には手がパンパンに腫れ上がった実績の御仁。ハンサムでパワフルで遊び人で強烈なリーダーシップの持ち主。
その後、京都商工会議所会頭を始め、多くの公務のかたわら、それでも毎月の社内報には欠かさず巻頭言を執筆され、月初朝礼では多忙な中を縫って、壇上に立ち、いつも熱弁をふるっておられました。そんな時、お話はやがてあのインパール作戦からの奇跡の生還へと発展し、【人間は生きているのではなく、生かされている!】と声をひときわ強めて語られたことが、懐かしく蘇ります。

人間の命は①植物的生命②動物的生命③精神的生命の三種構造といわれています。①の植物的生命は植物にも動物にもあり、消化、呼吸、循環などの働きを司る生命で、人間の場合は主として内臓の働きをコントロールする役割を担い、最も原始的な生命【第一生命】と呼ばれています。心臓がちゃんと動く。呼吸が乱れない。生物として生きるための根本生命です。しかもこれは見事に自動的にそう動くようにあらかじめ設計されています。今、この瞬間にも血液は体をめぐり、意思の働きとは別次元で生命維持への営みが行われています。これだけみても人間は自らの力で生きているのではなく、生かされているのだということに思い至りますが、本当に自覚しているかというと怪しいものです。

そこで、生かされていることへの謙虚な気づきを塚本氏の言葉で味わってご覧になりませんか?代表的な3冊をご紹介します。

2006年10月14日土曜日

運とは?

時まさに秋の運動会シーズンですが、中高年、かつ日頃の運動不足の各位にあっては記憶の中の運動能力と現状のそれの格差がはなはだ激しいため、いかなる競技においても参加のための必須条件は無理は禁物ということになります。

毎年、この時期の休日明けには運動会での無理な活躍が仇となり、やれ靭帯が伸びた、切れた、骨折した、肉離れで動けない等などの、故障に至る実話の在庫が多いせいか、くれぐれも油断大敵、全力投球でない挑戦をお薦めしたいと思います。その運動会やら様々な競技会の結果はもとより、人生の様々な局面でもよく『運が良かっただけ』とか、『運に見放された』とか、『運も実力の内!』などと申しますが、そもそも『運』とはどういう意味なのでしょうか?

早速、辞書を引いてみますと【移動・回転する】【めぐる・はたらかせる・はこぶ】あるいは【人知では計り知れない身の上の成り行き】とか、【人の身に降りかかる幸、不幸を支配する人間の意志を超えた働き】とあります。何かわかったようで、わからなくはありませんか?

吉田兼好こと兼好法師が徒然草の中で、【運は日にあらず、人なり】と綴られた意味に照らして、しばし考え深めて見ますと、、、、。

『運命』とは、運ばれる命のこと。では何によって運ばれるのかというと、これは時によって運ばれます。つまり運命とは時のこと。
では『運勢』とは?すなわち、時の勢いの良し悪しをいいます。
そこで『幸運』とは幸せな時が続いている状態。ちなみに幸せに対して不幸といいますが、幸運に対して不幸運とは言わず、不運といいます。『不運』とは幸せな時がないということになります。
つまり、『運』はそれ自体が【時】をあらわしているが故に、時の集まりである日の中で左右されるものではないということを兼好法師は看破しておられたことになります。

運の良し悪しはその日の気分や時間によるものではなく、どのような人と関わるかによるという次第。良い対人関係が望まれる訳はここにもありました。

2006年10月13日金曜日

1:29:300の法則

昨日は日帰りで山口県防府市まで出張してまいりました。防府信用金庫さん本店の会議室を拝借して、地元企業の方々の勉強会で90分の講演を行うためです。午後、2時35分京都駅発ののぞみで新山口まで、そこから山陽本線に乗り換えて、防府まで約15分。同じルートで京都駅に帰り着いたのは夜の23時30分。久々に長時間、JRの中で過ごしました。おかげさまで本を読んだり、気になっていることをゆっくりと考えたり、一見、もてあましそうな時間が結果的にはとても有意義なひと時となりました。

実は昨今、トラブルとまでは言えないまでも、何やら納得がゆかない事柄がざわざわと心の片隅にいくつか、居座っております。表面的な現象は異なりますが、どうも同じメッセージを内包している気配を感じつつ、思考の限界と時間不足でしばし棚上げ状態の案件にわずかながら整理の目処が立ってきました。

労働災害事例の統計分析の結果、導き出された【ハインリッヒの法則】というのがあります。【1:29:300】の法則としてご存知の方も多いと思いますが、いわく、【1件の事故(アクシデント)が起きるまでには、29件の出来事(インシデント)とさらにその影には300件の異常(イレギュラリティー)がある】といわれるものです。現実的な1件のクレームにはそれ以前に29件の何某かの苦情や不満があり、その前提として各担当者が一瞬、ヒヤリとしたり、ハットした300の出来事があると分析するものです。ゆえにともすれば、ありがちな『たまたま不注意で、、、』という事故との向き合い方は大間違いということになります。なるべくしてなった事態ならば、目の前の事の処理だけでは足りず、根本の仕組みに目を向ける瀬戸際のチャンスという受け止め方が問われます。

個人的な局面での気づきではありますが、フロイトのいう、超意識が人類共通ならば、何某かのヒントになればと思います。クレームの現場でよく使われる『ピンチはチャンス』という言葉は手前味噌すぎて、賛同しがたい点もありますが、この法則に照らせば、さらなる災い回避のラッキーチャンスかもしれません。『手間隙惜しむと手がかかる』は数多い、座右の銘のひとつですが、面倒な何かを丁寧に片付ける癖付けが重要とあらためて自らに種蒔きの出張でした。

2006年10月12日木曜日

可動域のフル活用

ここ数年来、そこかしこで日本古来の歩き方として【なんば歩き】が注目されています。その昔、飛脚はこの歩き方で1日、百キロ以上を歩いたといわれています。この歩き方はご存知のように同じ側の手と足を動かす歩き方で、実に日本人の生活に適した歩き方であったといえます。右手、右足が前に出て、次に左手、左足。実は研修などであらためて日頃の歩き方の点検のため、VTRを撮影しましょう!となると緊張してこの【なんば歩き】になる方が少なからずいらっしゃいます。思わず、ご本人も苦笑いの一場面なのですが、これももしかして日本人ならではのDNAのなせる業かもしれません。

現代歩行法が義務教育の一環として、明治時代の西洋式軍隊の歩行練習からスタートしていることを考えてみれば、歴史的なキャリアは比較するまでもなく【なんば歩き】に傾きます。いわく腰が捻じれない分、着物が乱れないという理に適っていましたし、武士が刀を扱うときも右手、右足が前、そうでなければ振り下ろした刀で自分の左足を傷つける危険性があります。同様に農民が鍬で土を耕すときもこの姿勢。なるほど!と思わず感心してしまいませんか?

さて、私達の身体にある関節にもなるほど!と感心したくなる課題があります。それは関節の可動域です。可動域とはどこまで動かすことが可能かという範囲のことになります。たとえば腕の可動域は手をどの方向に動かすかによっても当然異なります。たとえば、身体の前方に手を上げてゆくと耳の横くらいまで上がります。すなわち180度は動きます。では身体の側面、つまり横に上げてゆくとどうか。この時も、最終は耳の横まであがりますが、腕の可動域は実は横の場合は120度、そこから先は背中にある肩甲骨がグルッと回ることで残り60度を上げられることになります。では、腕を後方に上げてみるとどうでしょうか。かなり柔らかい方でも90度は難しいですね。後ろへは45度あがれば、それが十分な可動域ということになります。ところが歩く練習を実際に行ってみて、手を振りましょう!と言うと、概ね前方にのみ手が出ます。これはどうも【なんば歩き】の名残ではないでしょうか?

そこで正しい歩き方で歩くときに、あらためて肘を中心に腕を後ろに引くと強く意識してみてください。こうすることで胸をはりやすく、自然に背筋が伸びてくる!颯爽とした歩き方のコツは腕の可動域をフル活用した振り方にもあるようです。

2006年10月11日水曜日

足音も歩き方の課題

社会人になって間もない頃は仕事の大半が会議資料のコピーであり、その会議室にお茶を運ぶことでした。今にして思えば、そうした仕事にもいくつもの大きな意義があるのですが、当時はそんなことに気付けるはずもなく、ただのつまらない仕事として受け止め、その分、実に可愛くない態度で事に当たっていたはずです。

そんなある日、午後からの会議開始直後、いつもと同じようにお茶を運んでいた折、突然、会議に参加されていた、ある方から『足音がうるさい!』と小声でしたが、とても厳しく注意をされました。ところがあまりにも突然の事態に一瞬、何を言われたのかがよくわからないまま、恐らく『はあ?』と聞き返したのだと思います。これに対して、その方からは『あなたのヒールの足音がうるさい。気をつけなさい!』と再度、ピシャリと叱責されました。
めんどくさそうにいやいやお茶を運んでいるせいだったのでしょうか、静かな会議室の中で議長挨拶が行われていて、数十人の参加者がそれに熱心に聞き入る中、お茶を配る新人の足元からカツンカツンと遠慮のない靴音が邪魔をする。きっと耳障りなその足音に誰もが厳しい叱責の目配せを送られていたかもしれません。でもそんなことに気付くはずもない全身丸ごとの不出来さをその方の一言がなんとか救ってくださった一幕でした。もちろん、そんな風に思えたのはしばらく後のことで、その瞬間は生意気盛りそのままに、ムッとしたはずですが、ひょいと視線をあげてみると、そこには実に多くの同感!の迷惑顔が飛び込んできて、さすがにさっと顔から血の気が引く!という生体験をさせて頂きました。言われてみれば反論しようのない場の空気にいかに愚かといえども、気付かされた顛末は今でもありありと情景の浮かぶ不始末のひとつです。

『他者配慮がないと私達の動作は思いのほか、大きな音を伴います。』ここに気付く原体験があの遠い会議室の出来事でした。ご自身の歩き方にはどんな足音が伴っていますか?駅の階段の昇り降りでカンカンと甲高いミュールの足音に思わず顔をしかめた経験はありませんか?あるいはドスン、ドスンと威嚇するような足音にどこのプロレスラー?と振り返ってしまったことはありませんか?歩き方の完成度向上をめざして、足音に気配りを!

2006年10月10日火曜日

ミルキングアクション

私達の体の中を絶え間なく流れ続ける血液の量は体重の10分の1と言われますが、その時々によって必要なところに多く配給する【重点配給】ということが常時、自然に行われています。

本人はまったく気付いていませんが、たとえば食後は胃の中の食物の分解のため、胃の蠕動運動(ゼンドウウンドウ)支援に多くの血液が配給されます。
ちなみにこの蠕動運動は20秒に1回、すなわち1分間に3回行われるそうで、大人も子供も日本人も外国人も皆、同じだそうです。なんか、凄くないですか。
この時、身体の中の血液は内臓に多く配給されるため、位置的に上になる頭、すなわち脳の血液量はかなり少なくなり、故に活動休止状態を余儀なくされます。これが食後に眠くなる理由です。心臓から送り出された血液が全身をめぐるとき、地球上の引力も手伝って、下半身に向かう流れは滑らかですが最下点の足の裏まで到達して、そこから頭のてっぺんまで上り詰めるのはそれなりに大変だろうと予測されます。この大変さの克服に大きく貢献するのが筋肉です。

足から上に順調に血液が流れていくためには血管のまわりの筋肉の動きが不可欠です。しかも血液が逆流することがないように設計されている血管の中の蓋のようなものを下から上に押し開けながら血液を送り出さなければならないため、かなり勢い良い状態が求められます。これを歩く動作の内側で黙々と実践してくれているのがふくらはぎの筋肉になります。それはちょうど雑巾を絞るようにぎゅっ、ぎゅっと収縮します。この収縮運動こそが血液運搬の立役者。たとえて言うなら、牛の乳搾りを思い浮かべてみてください。牛の乳房を手のひらで握り、小指から順に上の指へと絞り込んでゆきます。こうすることでびゅーと乳が搾り出されます。この手の動かし方をミルキングアクションといいますが、これと同じ現象がふくらはぎの筋肉をして血液を元気良く送り出す仕組みとなっています。

ゆえに歩くことを通して、沢山の血液が安定して全身を巡るため、頭が冴えてくる!というのもなるほど筋が通っている話といえます。
ミルキングアクションの活性化のため、歩きましょう!胸を張って。

2006年10月9日月曜日

歩幅を意識して、歩く!

人間の身体を構成している筋肉は実は上半身にはあまりなくて、ナント腰から下の下半身で70%を占めています。中でも大きい筋肉といえば、太ももの裏側のハムストリングという部位になりますが、ここがしっかり鍛えられていないと座った姿勢からまっすぐ上に立ち上がることが出来ません。( 以前、正しい座り方の中で触れたように頭の重さを利用して斜め前方に身体が出て行く格好になります。)

つまり下半身をしっかり鍛えることは大きな筋肉を鍛えて基礎代謝をあげることにも直結する課題であり、その意味からも【歩く】ことはとても大切なテーマと言えます。颯爽と歩きながら、筋肉を鍛えるために意識したいのは【歩幅】になります。すでに万歩計を肌身離さず携帯されておられる方なら、ご自身の基本の歩幅もご存知かと思いますが、そうでない場合は1度計ってみることをお薦めします?女性の場合は履く靴によっても結構、違いますね。しかも歩きやすい靴とそうでない靴の場合、ここにもわずかながら差が出ます。

昨今、流行の巨大ショッピングモールなどで今、どこにいるのだろう?という不安や悩みにしっかり答えてくれる【現在地の表示】と同じように、何事によらず実態把握は課題解決の重要な出発点です。基本の歩幅がわかったらその数字より数センチだけ広めの歩幅で歩くとイメージしましょう。さらにこのときには腰からが足!と意識して足を振り出すことがポイントです。

特に横断歩道は絶好のチャンス、白黒の幅が90センチなのでここぞとばかり広めの歩幅に挑戦してみてください。白から白に足を置いてゆく感じで、自然と腰から足を運ぶ感覚が磨かれてゆきます。しかもゴルフをなさる方なら、90センチは1ヤードなので、アプローチやパターの歩測時にも持って来いの身体感覚強化策となります。

家庭の主婦がごく普通の日常生活で、約4000歩は歩いているそうですから、ほんの少し、意識することで何かが大きく変わるかもしれません。毎日をどう歩いて行くのか、この延長線上に人生をどう歩くのか?というテーマが見えます。1歩1歩を大切に意識して歩く!に挑戦したいですね。

2006年10月8日日曜日

お坊さんだって悩んでる(著者:玄侑宗久)

タイトル:お坊さんだって悩んでる
著者:玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)
出版社:文芸春秋新書
820円(税抜)

我が家にはまもなく満8歳を迎える愛犬がおります。人間の年齢にすれば50代後半あたりになるのでしょうか。いつの間にか飼い主の年齢を追い越し、これからは年々歳々、足早にその差を広げてゆくことになるのかと思うとしみじみ胸がキュン!と締め付けられる秋の夕暮れです。だいたい我が家では愛犬のお散歩がいつのまにか夕暮れ時の1日1回になり、春から夏にかけては日に日に遅くなる日暮れが勢い、生命力に活力らしきものを与えてくれる気がします。ところが昨今はまさにその反対です。秋の陽のつるべ落としの夕暮れが、これからどんどん早くなる冬場の夜の訪れの切なさに拍車をかけ、まだ夕方5時なのに星空を仰ぎ見る季節ならではの寂しさといいますか、えもいわれぬ感慨にこころなしか愛犬の足取りもトボトボと老い始めたかのような錯覚に囚われたり致します。そんな飼い主の思惑とは裏腹に幸い我が家の愛犬は寒いところでその原種が誕生した犬種のため、ここからこそが暮らしやすい季節の到来と気温が下がるに従って体調万全のようですが、本当に人というのは考えなくてもよいことに思い煩う生き物なのですね。

考えてみれば明日の朝ごはんの心配をするわけでもなく、星空を眺めて今日の失敗にくよくよ悩むわけでもなく、人間に比べたらなんともうらやましいほど動物たちはただその日その瞬間を生きていることになります。もちろん、本当のところはわかりませんが、、、、そういえば、発売当初大ヒットしたバイリンガルならぬ、犬の気持ちの翻訳機、バウリンガルとやらはさらに進化しているのでしょうか?

ちなみに犬や猫などの動物が1日中寝ている訳をご存知ですか?実は人間以外の動物は原則、熟睡することはないそうです。野生であればごもっともですよね。よほど身の安全が確保されない限り、熟睡は襲われて即、死を意味します。
ゆえに四六時中、うつらうつらと熟睡できない分、仮眠しているそうです。たしかに我が家の愛犬も熟睡しているようでいて、かすかな物音にも敏感です。

死ぬほど悩んで眠れないと言っても、丸2日も起き続けていれば、さすがに3日めには熟睡できるが故の人間ならではのややこしい人生の悩みに、お坊さんという職業の視点から答えてくれる1冊をご紹介いたします。

2006年10月7日土曜日

効率と効果

仕事に限らず、日常の多くの場面で問われる課題のひとつに【効率と効果】があります。『もっと効果的な方法はないの?』と問いかけられたり、『効率的にみてどうよ?』と問いかけたりします。実は言うほうも言われるほうも、さほど真剣に考えていないけれども、表向きかつ対面的に真面目に考えていますという雰囲気作りのための常套句のひとつがこのよく似た2つの言葉ではないでしょうか?たとえば、家事ひとつもあらかじめ、段取りを決めて取り掛かるのと、思いつくまま行き当たりばったりでことに臨むのとでは、時間的にも経費的にも、労力的にも大きな違いをもたらすことは紛れもない事実です。料理も掃除も洗濯も、スムーズな進行には事前の計画性がなくてはならず、この段取りの良し悪しが成果に与える影響は相当大きいはず。ましてや、これが仕事になれば、生産性との関わりから、ロスやミスを極力排除し、安く、早く、人手をかけずにいかに良いものを作り出せるかが、競争社会の至上命題。そうしたプロセスの中で声を大にして叫ばれてきたのがこの【効率と効果】でした。

が、しかし『狭い日本、そんなに急いでどこへ行く』という視点も年々、着実に賛同を深めており、2007年を目前にロハスを始め、これまでとは異なる社会がすぐそこまで来ているような気配です。となれば、近々、【効率と効果】はどうでもいいんじゃないの。ゆっくりのんびり、行き当たりばったりもまた楽しい!で死語扱いにされそうなので、今のうちに【効率と効果】の違いについて真面目に注目しておきたいと思います。だいたい会社の会議などでワイワイ検討しているときに議論がまとまりきらない最大の理由はこの2つの言葉がほとんど同じ意味で使われてきたからではないかと、実は随分前から疑いを持っておりました。ただ、職場の上司や先輩に向かって、【効率と効果】はどう違うのですか?と今更、正面きって問い質すのはあまりにも大人気ないような気がして、、『ま、いいか、、とりあえず、、』を決め込んできた次第です。

何某かの成果すなわち<アウトプット=OP>を導き出すためには当然、何らかの投資すなわち<インプット=IP>が必要です。かつての高度成長時代にはドンと投資してドンと成果を出す!ことが可能でした。しかしそればかりでは立ち行かなくなり、【効率・効果】が注目されました。つまり【効率】とは【OPは従来通りでIPを縮小する】ための方法論の模索検討を意味します。
反対に【効果】とは【IPはこれまで通りで、OPを拡大する】ための方法論の模索検討になります。似ているようでも言葉が違えば、意味は異なります。

言葉に対する感度を磨くことは言葉を扱うことが許された人間の大いなる責任と思い至り、今頃なんですが、反省を込めてこのカテゴリーの効果を期待して!

2006年10月6日金曜日

本音と建前

社会人になって以来、今日まで対人関係において戸惑ったことは山のようにありましたが、取り分け納得がゆかずに、使い分けも下手だったのが、【 本音と建前 】という代物でした。初めてこの言葉を耳にしたときはその意味すらよくわからない状態でした。それから長い歳月が流れて、若かりし頃から比べれば老獪とも言えるほど使いこなしに熟練した感はありますが、それでも未だに本音で物申して何が悪い、なぜ悪い!と内心沸き立つものを抑え切れないときがあります。

いつまでたっても大人になれない未熟さとうなだれる反面、本音がじゃんじゃん言い合えてこそなんぼ!という理想を追い求める気概、半分。『上司の顔色を見ることが仕事ですか?』と食って掛かった世間知らずの若い頃がたまらなくなつかしく愛おしくなるときがあります。そういえば、その頃は会社の言いなりになることこそが、サラリーマンの至上命題として『休まず、遅れず、逆らわず』というフレーズが合言葉のように密かに巷にコダマしておりました。

10年、20年というロングスパンで眺めてみると、時代は大きく変化しました。今では会社の言いなりになる社員など不要とばかりの様変わり。雇用形態も勤務形態も多種多様化して、ひとつきりのものさしでは測りきれないことばかりになりました。そして建前はよいから、本音はどうなんだと迫られる始末。

当然、言い方には配慮せねばなりませんが、歯に衣着せぬはっきりした意見や物言いがむしろ、RJP=リアルスティック・ジョブ・プレビュー<本音採用>として採用現場の主流の座を占めつつあります。接客販売の現場でも終始、ほめ殺し的な対応よりも本音でのやり取りを望む声もしばしば聞かれます。

時代はようやく本音と向き合う季節を迎えようとしているのでしょうか。この機に多くの本音が滑らかに行き交う事を切に願って、ラッキーの種のご提案です。それは誰かの意見を聞く時の姿勢の有り様について。いささか苦言めく気配もありますが、『誰に言われたのか?』ではなく『何を言われたのか?』その内容にこそ耳を傾ける癖付けが急ぎ問われる気がしています。時として5歳の子供から学ぶこともあるはずです。社長が言うから聞く、そんな時代の幕はもうすでに降りているのかもしれません。

2006年10月5日木曜日

歩き方・再考察

時まさにスポーツの秋なので、歩いたり走ったり!身体を動かしやすいタイミングですね。そこで速やかに昨日の続きに取り組みます。疑問とご意見にお答えすることでより丁寧な説明になればと願いながらすすめて参りますが、あらためて文字だけで語ることの難しさを痛感させていただきました。すなわち、それはご指摘の一文に対する当方の理解の仕方やその正否も含めて、言わんとされていることをどこまでしっかり受け止められたか、この疑問も含めて至らなさを懸念しつつ、、、という意味になります。

まず、ハイヒールを履いた歩き方はご紹介した歩き方の手順を強制する方法論では決してありません。現にモデルさんでもハイヒールできれいに膝を伸ばして歩けない方がおられますし、一般においては尚更です。ハイヒールの定義も様々ですが仮に7センチ以上とすれば、これを履いてあの手順を踏襲すれば、かかととつま先が同時に着地することにお気づき頂けると思います。ゆえにむしろ、裸足やローヒールの場合こそ、かかとから着地が原則となります。

研修会でも『膝を伸ばす!』というと両足を棒のように突っ張ってしまう方が結構おられますが、自然に振り出せば膝は伸びます。そのままを意識していただくために、膝を曲げずに!とあえて解説していますが、その足をかかとから着地してつま先に体重移動して蹴りだせば膝はそのとき後方に曲がります。
もしかして膝を伸ばすという意味があまりにも突っ張りすぎで、反り繰り返ったようになる<過伸展>のことを心配されたのでしょうか?
このあたりを懸念されているのでしたら、【観察による歩行分析】という専門書をぜひお読みください。株)医学書院出版で、著者はドイツ人、月城慶一氏他3名の翻訳です。また歩くと走るでは身体が宙に浮くという点で大きな違いがありますし、走るに関しても短距離と中長距離で走法が違うのはご承知の通りかと思います。

さて、最後のコメントにありました、『10代の頃 普通に、、、、、腰を痛めることをよく見かけます。』という一文につきましてはその原因の特定は非常に難しいように思います。そもそも普通というのが定義しにくい課題です。筋肉と骨と関節にとって自然でラクで健やかさにつながる普通の状態と自分にとって楽な姿勢の普通は必ずしも同じではないはずです。確かに膝関節に支障をきたして歩行困難に至るケースなどは、長年に亘る間違った歩き方が多くの原因ではありますが、それとて本人にすれば普通だったかも。颯爽と美しく歩くことは実は健やかな身体の状態の維持設計に欠くべからざるものと確信しております。ただ、本当に文字だけでこれ以上の具体論を掘り下げられないもどかしさと、解釈の時点で誤解なく受け止められていることを願ってやみません.

2006年10月4日水曜日

腰から歩く!

本日は深まる秋を体感すべく、大好きなゴルフに行ってまいりました。で、そのお仲間と今からワイワイ、反省会兼飲み会に出かけます。なので朝のうちに大半は書いておいたブログの続きをちょいとまとめて出かける算段でパソコンに向かいましたら、、【水谷さんのページを読んで!】を見つけ、急ぎ拝見しました。丁重かつ真剣なご意見をありがとうございます。本来ならこのままご意見への返答やら解説に進まなければなりませんが、、申し訳ありません。また、あらためて!ここは当初の計画通り、朝の続きを完成させてお出かけします。何卒、ご容赦くださいませ!

秋たけなわの頃を迎えると、急に着物なんぞを着てお出かけしたくなりますが、和装のときにはどうしても膝歩行になってしまいます。すなわち、膝から下だけを動かして歩くスタイルです。そのためには、膝関節を基点にそこから上は出来るだけ動かさないように意識することになります。この時、正しく立った状態で膝が伸びていては、とても動きにくくなりますので膝は緩め、その分膝関節は軽く曲がった状態がキープされます。私たちが歩くときに膝が曲がってしまいがちな原因は実はこうした歴史のDNA的要素にも起因していますし、仕事やお稽古やあるいは趣味でお着物をお召しになる機会が多ければ、都度都度意識の切り替えが結構、難しくも思われます。

また一方で、そもそもの認識において実は案外、捉え方に起因する動かし方の制限という課題があります。たとえば、『手を上げてください』とお願いしたとき、人により手の上げ方は様々です。それは手はどこからどこまでが手だと認識しているかによって変わります。同様に【足はどこから足ですか?】ここから、足という部位を指してみてください。歩くという動作は足を前後に動かす以上、足がどこから足なのかという意識はその動かし方に大きく影響します。一般には足の付け根の辺りを指されたのではないでしょうか?その上はお尻、腰という捉え方ですね。しかし実際に私たちの身体の内側から観察してみると足の筋肉はお尻から腰から背中の真ん中あたりまで繋がっているものだと確認できます。つまり外観上のソレと実際のそれは筋肉の動かし方ということでは随分、異なるということになります。指先を腰の方に向けて、両方の手のひらをウエストより少し上の背中にあてて、歩いてみてください。この時にその部位が足の動きと連動して動いていることが自覚できますか?動いていると感じる場合は腰から歩くことが出来ています。逆にその部位がほとんど動いていないようなら、歩き方は足の付け根から下だけの動かし方になっていると自己点検できます。おへその辺りが前から引っ張られているつもり!という手順はここの改善を目指しています。腰から歩く!を意識してみましょう。

2006年10月3日火曜日

颯爽と歩く、手順

数年来のウオーキングブームのおかげで自分の歩き方に疑問を抱き始めた御仁が増え、喜ばしい限りですが、本当の課題はここから。その昔、今ほど有名人でなかった時代に初めてデューク更家氏にお会いしたときにズバリそのことを看破しておられました。すなわち、人間ってどちらからしい【 思う、動く、出来る 】と発展するパターンと【 考える、止まる、やめる 】となっちゃうパターンと。特に歩く!なんて一応、今だってお出来になっているものを取り扱う場合、よほど変でなければ、動機不十分で結果、実践の変革に至らなかったりします。なので相当、強引を覚悟で申し上げますが、自分の歩き方はどうなんだろう?と素直に思ってください。で、そのまま以下の実践の手順に従って、動くモードにお進みください。

正しい歩き方の基本は①正しい姿勢で立ち、どちらかの足の膝を曲げずに前に振り出します②振り出した足に体重を乗せ、③かかとから地面に着地します④おへその辺りを前方からひっぱられているつもりで腰をしっかり前にだしてゆきます⑤1本の線の上を歩くつもりで交互にこれを繰り返します⑥手は振り出した脚とは反対の手を前に出し、肩を基点に自然に前後に振りますがイメージとしては肘を後ろに引くと意識することで一層しゃんとした上半身を維持しやすくなります。まずは姿見などを使って全身を映し出しながらやってみましょう。歩くときも走るときも着地はかかとから。つまさきから着地のくせはなかなか自覚しにくいので、出来れば誰かにチェックしてもらいましょう。見方のコツは身体の上下動になります。なので普段から上下に大きく身体が揺れるようなら、ほぼ間違いなく、つま先から着地していることになります。かかとから乗り込んでつま先で蹴りだす。この基本は歩く動作をまるでコマ送りで再生するように実践し、片足が地面に付いた状態で一旦、静止させ、どちらか片足だけで立つことを繰り返して習得します。

鏡に映ったご自身の身体は肩幅を結んだラインがヘッドとなった逆三角形のVの字に見えますか?ここで注意したいのは両足の間に生じる隙間ですね。どちらかの足を前に振り出すときに1本の線を意識して、さらに前にある足の膝に振り出す足の膝をくっつけるつもりを意識しましょう。こうすることで膝関節に負担をかけやすい状態をいささかなりとも軽減させ、同時に見た目上も両足の間に向こうの景色がハッキリ見えてしまうO脚歩きからの脱却を目指します。

何はともあれ、今日からは他人の歩く姿に大いに注意を払いましょう。人の振り見て我が振り直す!幸い良くないサンプルが今ならヨリドリミドリ!かも。

2006年10月2日月曜日

ブームを超えて!

ここ10年くらいの間に巻き起こった大きなブームといえば、どんなことを思い浮かべますか?眺める視点やその評価基準により、答えは様々。マイブームなどというのを含めれば、さらに多岐に亘るかと思いますが個人的に云わせて頂くならば、【ウオーキング・ブーム】こそがイの1番です。

ある日を境に何かが急に大きな注目を集め、多くの人がそれに関心を持って、いたるところで話題になり、実践が始まり、浸透してゆく。エアロビクスしかり、ヨガしかり、ジョギングにしても同様なのですが、その基礎ともいうべき【 歩き方 】への着目と具体的手順の解説とそのユニークな実践指導の方法論などを眺めていると、単にそれをブームとして捉えては失礼なほど、重要かつ根本的な課題に対する取り組みであって、それゆえに流行すたりの枠を超えて、かなり画期的なことではないかと受け止めています。

【 歩く 】ということは基本的に誰でも出来ることだけにむしろ難しいというハードルを見事に飛び越えて見せてくれた事実にもしっかり拍手を贈りたいと思っています。だって、言っちゃなんですが、自分自身も含めて、日本人の歩き方ってちっともきれいじゃないですよね。しかも歩き方の課題は公共マナーのように若い子だけが問題!とか言うのではなく、老若男女問わずの国民的課題であるといえば、言い過ぎでしょうか。もちろん街中を颯爽と闊歩する日本人だっていらしゃいます。が、しかしたいていの場合、ぺたぺた、ちょこまか、あるいはドタドタ、のっそり、そんな雰囲気ではないでしょうか。アヒルのインプリンティングよろしく、最初に見た身近な誰かに瓜二つの歩き方から、正しい歩き方に変えていくことで印象が変わり、姿勢が変わり、もちろん良好な健康にも大いに関わってくる課題です。ここらでよってたかって本気になっても罰は当たらないと思いますが、、、。なので一過性のブームにとどまらず、この先もこの流れが続くことを願いたいし、応援したい。そういう土台の姿勢表明をしつつ、今週からは歩き方を取り上げてゆきたいと思います。

今日は今から大阪で内定式。来春、社会人になる方々にこの半年間で身につけたい社会への入り口までの【 歩き方 】をご提案してまいります。

2006年10月1日日曜日

笑いの経済学<吉本興業・感動産業への道>(著者:木村政雄)

タイトル:笑いの経済学<吉本興業・感動産業への道>
著者:木村政雄(元吉本興業常務取締役)
出版社:集英社新書

今日から10月、秋本番ですね。明日はいつのまにやら恒例になった大阪のとある会社の内定式に参加します。来年の春になったら社会人になる皆さんと毎年、この時期に出会いを頂き、『半年後の自分のために今、出来ることは何なのか?』を問いかけながら、年々確実に広がってゆく親子以上の年齢差もどのくらいまで持つのか、それはそれで楽しみな機会のひとつになってきました。御堂筋の街路樹が美しく映える高層ビルの一角で過ごす、数時間が大層、価値在るものに思える季節の訪れです。

しかしながら、京都からフルマラソンの距離を隔てた大阪にはJRなら新快速で30分、私鉄を使っても1時間以内にはラクに到着できるのですが、なぜか、疎遠。こうした研修や講演以外で出向くことが少なく、近くて遠い!というのが実感でしょうか。そのせいか、当然 大阪に関する知識や情報もあやふや三昧です。水の都・大阪とか言っても淀川しか浮かびませんし、食道楽の町とか言ってもたこ焼きとか、ソース2度づけ禁止の串揚げとか。もうかりまっか、ぼちぼちでんな!の定番の大阪弁も今時なら、どなたでもご存知のはず。

その大阪が誇る日本一には実はこんなものがあるそうです。【信号のフライング率は世界1らしいのですが、ひったくりが21年連続日本1で全国シェアの3割を占めているそうです。さらに自動車の窃盗、少年犯罪、自殺者、詐欺事件、ひき逃げ、おまけに損害保険の払い戻し高も日本1!】なんだか凄い都市ですが、その一方で特許出願数も日本1だそうです。要するにベンチャースピリットが旺盛であり、それを裏付けるデーターとして戦後の日本で興った77業種のうち、57業種が大阪から生まれています。いくつか思い浮かびますか?
【スーパーマーケット、プレハブ住宅、カプセルホテル、回転寿司、消費者金融、屋上ビアガーデン、魔法ビン、ノーパン喫茶、、、、等など】

『建前ではなく本音』が堂々とまかり通る大阪の魅力は、京都がいささか苦手と感じつつ、その実、真似ようのない永遠の憧れの種かもしれません。

2006年9月30日土曜日

能率とは?

今日、久々にクレームの現場に直面しました。それも受ける側ではなく言う側のしかも付き添い的に。なので当事者でない分、結構 冷静に事の成り行きを観察させて頂きました。クレームの内容を簡単にご紹介すると【先週、購入したベルトの色落ちによる衣服の汚れ】これをどうしてくれますか?というものです。さすがにクレームを持ち込む側も売り場の中の数多い販売員の中からそれなりの風格の担当者に声をかけただけあって、加えて老舗のデパートだけあって、多少、緊張感を伴うやりとりがありつつも、結果的には非常に手際よく、そこそこ感じよく、処理完了となりました。時間にしてみれば、その間、およそ20分程度でしょうか?デパートカードから購入記録の確認やら商品交換の提案やら、非は認めつつ、しかし革製品は色落ちは付き物という念押しやら、結果、返金の手続きから、クリーニングの預かり等々まで。終わってみるととても能率よくきっちり一次クレームで堰き止められました!ご立派という感想です。ご承知の通り、この対応はひとつ間違うとそもそものクレームとは異なる感情領域に突入し、やれ気分を害された、不愉快だ!こんな店もう来ない!という大層ややこしい二次クレームに発展してしまうことになります。

そうなると現場対応だけでは埒が明かず、事はどんどん大きくなってお客さんの方も引くに引けない修羅場へと突き進みます。やがて、顧客センターやら売り場責任者やら、登場人物も増え、作為的な場合を除けば、初期対応の不手際から関係各位の仕事が増えて、本業の能率が低下することになります。

そもそも【能率】とは何か?産業能率大学を創設した上野陽一氏によれば、
『 能とは人の能力とか、機械の性能とかいう場合の能であって、そのモノが固有する持ち前をいい、率は比率をいう。つまり持ち前が全部、実現されている状態を能率という。生物、ことに人間の行動には目的がある。その目的を達成するための手段として行動を起こす。この目的と手段がつりあっている状態を能率という。1トンの貨物を運ぶためには1トン積みのトラックがいる。1トンのトラックを持っていれば、1トンの荷物を載せることが能率、という次第 』

前回、お届けした考え方の方程式『無理と無駄』に新しい仲間として、ぜひ能率をお加えくださいませ。【 目的=手段、これが能率 】限られた週末の休日をエンジョイする秘訣がここにありそうですが!

2006年9月29日金曜日

坂道理論

毎年、この季節になると思い出すことがあります。それはある研修で『 実るほど頭を垂れる稲穂かな 』という有名な句の意味を尋ねた時のことです。
ハイ!と元気良く手を上げた、その人は『秋になって稲穂が実るとその重さで横倒しになることです』とお答えくださいました。この答えに会場中が笑いの渦に包まれ、『しまった!せっかく元気良く答えてくださったのに、恥をかかせてしまう!マズイ』っと咄嗟に思ったのですが、事態は予想を見事に裏切りました。この答えに対して、馬鹿にした笑いは会場のどこからも起こらず、あろうことか、『へーそういうことか』みたいな反応がそこかしこでざわざわと広がりました。『うっ、ウソ!何、この反応は?』という私の内心をよそに平然と自分のお答えに胸を張るご本人と概ね、それを受け入れているその他のメンバー。『違うがな!』っと、一括するのは簡単ですが、それは同様な意見の方々がそこそこいてくださっての突っ込みであるということを、しみじみ感じつつ、それにしても本当にそう解釈してたの?と世の中、聞いてみなきゃわからんなということを痛切に学ばせて頂いた記憶です。ここであらためて解説させていただくのも何ですが、あれからさらに歳月が過ぎたことを考えますと念には念を入れておこうかと思い至ります。もちろん事実はそのお答えの通りですが人生訓としての意味はそれではありません。【豊かに実をつけた稲穂が豊かであればあるほどその重さで自然とこうべを垂れるように、人間も偉くなれば成るほど、頭を下げて、すなわち腰も低く、偉そうぶらずにあらねばならんよ!】という訓戒であります。すなわち、ここのところのテーマであるお辞儀とも密接に関わる課題という次第。そこで週末ならではの【ラッキーの種】にこれを絡めますと、【坂道理論】というものに突き当たります。ご存知でしょうか?この理論。これは人生は山登りと同じという視点で人生に向き合う人の姿勢の在りようを指摘しているものになります。いわく、登坂にいる間は自然に頭が低く下がり気味で、からだは前傾姿勢を保っています。ところが頂上を極め、その頂点から下り坂に入るとからだは自然に後傾姿勢となり、まるで威張っておなかを突き出して歩いているかのような姿勢になります。地形への対策として当たり前なのですが、云い得て妙!な実態にハッとさせられはしませんか?
目指す頂に辿り着いた後も、更なる高みを目指さなければ、すなわち夢は見続けなければ、登坂にい続けることは出来ないのです。裏返せば、前傾姿勢でいることで上り坂に向き合え続けるという可能性もありではないでしょうか?

しっかりしたお辞儀は都度都度、謙虚に人に頭を下げてゆく精神性を鍛えてくれるとともに、目には見えない人生ステージの設計切り替えアイテムかもしれません。
心を込めて誰かの胸に沁み入るようなお辞儀をやっぱり手に入れたくなりますね。

2006年9月28日木曜日

実践の価値と醍醐味

完成度の高いお辞儀の仕上げに注目したいのは手の動きです。ここまで毎日、何度もお辞儀動作に律儀にお付き合いくださった方々はきっと手はどうしたらいいの?という疑問をお持ちの頃合いかと存じます。逆に読みはしているけれども、まるで他人事の上の空、一応見てはいますが、の方々は、そんな疑問すら浮かばない状況下おいでになるはずです。実際にやってみることの価値はここにもありますね。自ら実践を通して課題に気付く効果、その大きさと重さは人間が成長する上で計り知れない価値を持っていると、出来れば今ここでお気づき頂きたいと切に願います。なので、、、あ、そうか!と思った方はせめてお辞儀の取り扱いの最初あたりにお戻りいただいて、ぜひ、実践行動としてやってみてください。そうすれば必ず、どこかの段階から手が手持ち無沙汰だ!という地点に意識が集約され疑問がわいてくるはずです。

そもそも、お辞儀動作の初期に手はどこにあるか、ここにもおそらく個人差は生じます。正しく立った状態のまま手は身体の側面につけている状態の方。あるいはすでに身体の前で手を重ねている状態の方。(この時、どちらの手が上か?という議論は諸説ありますが、この際どちらでもOK!とさせて頂きます。)さらに有り得ないとは思いますが、両手を後ろに組んでしまう癖がある場合は要注意です。多少、職業病的きらいもありますが試験会場でにらみを利かす試験管のような偉そうさが全身から漂います。ゆえにお辞儀動作とはアンバランスな印象になります。しかも見方によっては罪人が刑場に引っ張り出されるような悲哀すら醸し出してしまいます。(そういえば昔は手が後ろにまわるようなことをしてはならん)という言い方があったかと思いますが、、、、、。

身体の上半身を前傾させる動作に伴って両手も自然に前に移動させてゆく形が最も自然に見えますが、お辞儀によっては手は身体の側面につけたままいっさい動かさない方がよい場合もあります。最敬礼がこれにあたりますね。最敬礼のとき、手を前に移動させると最下点では両肘が背中から突き出したような形になってしまいます。なので手は身体の側面につけたまま!となります。
一般的に見て、男性はこのスタイルも美しく誠実さを感じさせます。また女性の場合はやはり前に手が流れてくる方が穏やかな優しさがあるようです。その場合、手は身体から少し浮かせたほうが見栄えが良くなります。これも実際にやってみればわかることです。身体のどこかに手が付いていると場所によっては変な感じですし、敬礼モードの深いお辞儀にあってひざの辺りに手が乗っかっているとお辞儀というより、休憩してます!という感じに見えてしまいます。
こうして自分の身体と相談しながら自分流を確立するのも実践の醍醐味のひとつ!

2006年9月27日水曜日

目礼上手は応対上手

お辞儀の中で上半身がほとんど動かないのが【目礼】になります。同じ音読みの【黙礼】とは少し異なりますが、違いはスラスラ言えそうですか?さらに実践はいかがでしょうか?【黙礼】は無言のままで敬礼することを指し、一般的には様々な式典や葬儀などでよくお見掛けします。ということは【敬礼】はそもそも、言葉を伴う前提!ということになりますね。では【目礼】は?というと【目で会釈すること!】と私の手持ちの辞書(1963年発行の岩波国語辞典)には記載されております。ではここで、各自実践の上、点検したいと思います。目で会釈をしてみましょう。さて、自分の目をどのように動かしましたか?具体的にどうしたか、可能ならば手順を書き出してみてください。

正しい手順は①相手に目線を合わせ②その目線をゆっくり目を閉じながら相手から外し③外す目線に合わせて上半身を前方に15度程度倒し④倒したところで一瞬、静止し⑤徐々に目を開けながら目線と姿勢を元に戻す、となります。できればどなたかとペアを組んでやってみましょう。頭だけ下げず、目線だけ動かさず、あまり素早すぎず、かといって寝ちゃったの?というほどスローでもなく、、、、手順だけみれば簡単なようですが、実際にやってみると思いの他、難しいですね。ここで難しいと気付けば大正解です。そうと気付けば、練習しなきゃ!という気にもなります。そうして練習すれば、当然、上手にもなります。そして目礼が上手にできると実はとてもラクになります。なぜなら、今ここで声は出せない!すぐそっちに行けない!みたいな時にはもってこいのお返事対応だからです。たとえばレストランなどで追加オーダーしたくてウエイターに手を上げて合図をしているのに、反応がないと『わかってんだろうか?』とお客様はイライラされます。そんな時、この目礼が返せれば、今は他のお客様のオーダーを伺っている最中ですら『かしこまりました、今これが済んだら、そちらに伺いますからちょっとお待ちください』というメッセージを伝えることが可能になります。商談中に別の来客ご登場などというときもきれいな目配せ的に、目礼でご挨拶できれば、そこはひとまず安心モードに変換されます。

やはり、【目】は口ほどに物言う道具ですね。しかもしっかり鍛えれば鍛えるほど使い勝手の良い武器にもなる道具。何気ないその目つき!も常にどこかで誰かに見られていると自覚して今日は【目礼】で全方位外交にレッツトライ!

2006年9月26日火曜日

語先後礼と同時礼

最敬礼のお辞儀でおもてなしをすることなど、めったにない昨今です。でも個人的には先週まで取り組んでいた某企業研修で必ず毎日、最敬礼の送迎と大きな声の挨拶をみっちり享受させていただきました。初めてそれを拝見したのはもう何年も前になりますが、、、正直、軍隊みたい!と驚きつつも妙に清々しい気分になったことを鮮明に覚えております。勢いよく90度まで前傾する上半身とピッと一直線に伸びた背筋はそりゃ、美しいものです。どちら様でも背筋、腹筋の継続的鍛錬のつもりで朝礼時には全員で毎朝おやりになるほうが良いのではないかと今は本気で思っております。最近ちょっとご無沙汰ですが、以前は歌手のたかじんさんのコンサートによく行っておりました。ズバズバと歯に衣着せぬ物言いが爽快と毒舌の綱渡り状態のステージですが、漫談の合間に歌!みたいな展開の中、歌い終わった後のたかじんさんの深々とした長いお辞儀がとてもイイ!そのまま手を伸ばせば、床に指先が届くかというほど深いお辞儀。そして長いお辞儀。これがなんだかとてもイイ。瞬間、何かに心を鷲?みにされるような気分は実際に見てのお楽しみ。お辞儀は心を伝える動作として誰もが獲得すべき課題とあらためて考えさせて頂ける機会でもありました。

そこで本日は敬礼。ここにも2つの要領があります。ひとつは一般的によく見るスタイルとして、お辞儀動作と挨拶言葉がセットされた【同時礼】<どうじれい>があります。無意識にやっている敬礼はたいていこちらになります。
試しに、今、『ありがとうございます!』といいながら敬礼をしてみてください。
言葉と動作が同時進行して『、、、ます!』くらいのタイミングで顔は床を見ているはずです。これを意識して分けるのが【語先後礼】<ごせんごれい>です。相手の顔を見て、『ありがとうございます!』と最後まで言い切ってから敬礼動作を行います。ちょっとしたことですがより深い感謝の気持ちを伝えてくれるのは間違いなく後者になります。もちろん状況により使い分けがのぞまれます。

混み合う売り場などでいちいち、語先後礼の敬礼ではモタモタとまどろっこしい感じが付きまといます。手際よさが勝負ならそこは同時礼!反対にゆったりおもてなしが可能な環境やら状況の折には1度、ぜひ語先後礼に挑戦を!もちろんどちらの場合もしっかりと心を込めることは大前提!

2006年9月25日月曜日

流れ会釈と静止会釈

美しいお辞儀をちゃっかり獲得してゆくための、効果的な方法のひとつが他者観察になります。お辞儀をしている自分の姿が見えないのと同様に、実はお辞儀をしている相手の姿も案外、見えない。なので見ていない!ということにまずは気付いているかどうか?ここを通過すると途端に視界が変わります。すなわちもっとよく見ないと勉強にはならないという視点の獲得です。ここまで来ると後は比較的、楽な流れになっていくはず。このことはまた近い将来、自己変革のプロセスというテーマで詳しくご提案したいと思いますが、お辞儀動作ひとつも今日からは意識して観察する!という決意を固めてみてください。そうすることで通勤途上の道すがら、行き会うどなたかのお辞儀の形から沢山の発見があるはずです。ちなみに週末、赤い車は沢山、目に飛び込んできましたでしょうか?<この意味が不明の方は一旦、金曜日のラッキーの種まで、すごろくのように戻る!となります>

さて、姿勢全体の美しさとは別にそこに【 思いを込める 】という観点からお辞儀動作を観察してみるとまた違った世界が見えてくることになります。
たとえば、会釈ひとつにもそれは如実に現れます。一般的には朝の挨拶やすれ違い時の挨拶行動に多用される会釈にも実は2つの要領が存在します。
ひとつは【流れ会釈】と言われるもので、歩きながらその動作を止めずに会釈という動きを加える方法です。軽い挨拶のお辞儀としてはこれが最もポピュラーといえるかもしれません。もうひとつは【静止会釈】といわれるもので、今度は相手に対して一旦、動作を止めて、あるいは姿勢を整えてそこから会釈を行うという方法です。歩いていたなら、その足を止め、しっかり足を揃えて、正しい姿勢をとり、そこから会釈をします。あるいは仕事をしている手を止め、行う会釈、さらにはそれが着席ならば、そこからあえて立ち上がって行う会釈でもあったりします。むろん『丁寧なもてなしの思い』が動作の中に漂うのは言わずと知れた後者の静止会釈となります。だからといってそれ一辺倒が望ましい訳でもありません。あわただしい状況によっては流れ会釈のほうがお互いさまに効率的でもあります。会釈ひとつにも思いの丈の表わしようがあるものだと気付けば、見方とともにやり方も大きく変化するものです。

2006年9月24日日曜日

自分が変わる水の奇跡(著者:江本勝)

タイトル:自分が変わる水の奇跡
著者:江本勝
初版:2005年秋(2006年9月20日第5刷発行)
出版社:青春出版社
1、500円(税抜)

今日は朝から関西のウオーターフロント、関西国際空港のある泉佐野市で半分仕事、半分アウトレット散策のとても充実した1日を満喫してまいりました。関東に比べて巨大アウトレットモールの少ない関西では【りんくうタウン】は京都からでも日帰りでお出かけ可能な嬉しいスポットです。さすが日曜だけあってかなりの人出の中を居並ぶ有名ブランドショップにあちらこちらと目移りしながら、大変有意義なひと時でございました。楽しい時間はあっという間といいますが、ようやく帰路に着く頃には海を隔てた関空の端に見事な夕陽が沈みかけておりました。きらきら輝く海とフラミンゴの羽のようなピンク色に染まったあたり一面の空。京都の夕暮れとは一味違う絶景も堪能させていただきました。

この本の前身である『 水からの伝言 』が世に出たのは随分前の話です。
しかもそれは世界初の水の結晶写真集として、当時、自費出版されたものでした。私も今となってはどうしてその本を手にすることになったのか、記憶は至って曖昧ですが、見る見るうちに多くの反響を呼び、いつのまにかベストセラーになり、大手出版社が乗り出して、とうとう世界中で出版されるに至っている強者本です。なので今回の1冊はそのいくつかある続編の最新版となります。縁があって手に入れたA4サイズの初版本写真集はおそらく今では手に入らないだろうと思いますが、その驚きと感動は寸分違わず、味わっていただける1冊です。なにはともあれ、百聞は一見にしかず!水って凄いですよ。

2006年9月23日土曜日

無理と無駄

昔、私の頭の中の辞書には『無理』という言葉がよく登場していました。そして初めの頃のそれは一方的に私が受け止める側にいました。若い頃、確かに無茶な夢を見たりもします。いきなりそりゃ、難しいだろうという挑戦にあえて立ち向かうこともあります。燃え上がるような闘志が抑えきれずにという時もあれば、勢いのままに止む無くもあります。そんな時、この言葉はピシャリとよくも悪くもよく効くブレーキであったように思い出されます。

多くの場合、『無理』という言葉が意味するものは『難しいよ!』であったり、『不可能だね!』というニュアンスではありませんか?
何かこれまでとは違うことを目指そうとして志を立てたとき、そりゃ、無理だよ!っとけんもほろろにしたり顔で誰かにダメだしされたり。あるいは新しい仕事のやり方を意気揚々と提案した時、そんなこと無理だよ!と頭から否定されて、一気にやる気がしぼんでしまった記憶はありませんか?言う側の本気度やド真剣度はいまさら計測不能ではありますが、往々にしてさほど深く考えもせずそのときの気分優先で、『無理!』と釘をさしてしまう傾向が人にはあるのではないかという気がし始めたのはさて、いつのことだったのか?
いずれにしてもこの言葉、実はあんまり真に受けてはいけないのじゃないかと年々、確信を深めつつあった、ある日、何の気なしに辞書を引くと『無理』とは『道理に反すること』とありました。ええっ!って思いませんか?

この時ばかりは、言葉は生き物!という表現がピッタンコ! いつの間にか、どうも私、及び我が周辺の方々はどえらい勘違いをしていたんだと気付かされました。その後、紆余曲折をへて、現在の私の辞書における『無理』の意味は以下のように大きく変化しました。
【 無理=手段<成果 】・つまり目指している成果に対して手段が乏しい、あるいは不十分、あるいは準備不足の状態が無理ということ。なので手段を強化すればよいだけのこと。ダメとか出来ないとか、素質がないとかそういうことではないということです。

ついでによく似た言葉として『無駄』の意味は【 無駄=手段>成果 】・つまり目指している成果に対して手段が大袈裟すぎとか、やりすぎとか、もうちょっとシンプルにということと解釈しております。こう考えれば、もし、せっかくの夢を誰かに無理とか無駄と決め付けられても、『了解!』って元気に返事が出来そうではありませんか?言葉に向き合う姿勢の鍛錬も大切です。

2006年9月22日金曜日

現実誘引装置

お辞儀という動作は、意識して行うと本当に難しいものであることに気付きます。角度然り、滑らかさ然り、リズム感も問われるし、手の位置も意外に重要なポイントです。正しい立ち方が不十分であれば、両足の開き具合も微妙に気になりますし、ひざが曲がっているのも他人事ながら気の毒であり、顎だけ突き出したようなそれはいかにも不恰好、、はたまた妙にお尻だけが主張するようなお辞儀もあったり、、あらためてお辞儀動作を意識することで、これまでは気にも留めなかったことが驚くほど、よく見えるようになってきます。

さて、同じことが平凡な日々の生活の中でも実は結構、生じていることにお気づきでしょうか?ご存知の方も多いと思いますが、京都市内を駆け抜ける某三つ葉のクローバーマークのタクシーはその数およそ2000台。その中のわずかに4台か5台だけ四葉のクローバーマークの車両があります。たまたまこれに乗り合わせたら、願い事が叶うかも!などという評判で、かなり有名な代物です。しかもめったに出会えない!という訳で見事に乗車できたら記念乗車証なんかも頂ける仕組みと伺いました。ただ、個人的にはかつて1度も乗ったこともなければ、見たことすらありませんでした。京都に暮らして何十年、話には聞くけど本当かいな?といささか仕事がらみの事情も手伝って、ここ数日、毎日そんなことを思っていたら、なんと一昨日、ついに実物を目撃しちゃいました。わあ!本当にあったんだ!って気分ですが、、、、、、意識していると、見えてくるものですよね。

そこでご提案!意識するものは何でも良いのですが、試しに今日は赤い車!なんてのを意識しながら通勤、通学途上、あるいはちょっとお出かけのとき、昼休みなどを意識して過ごしてみてください。なんだかやけに赤い車が多いことに驚くはずです。きっと週末だからでしょうか?あれ、そうでしょうか。

意識したものが近づいてくるのか、それともそこにもともと在ったものが意識することで急に見えるようになるのか、正解はさっぱりわかりませんが、そこには何か大切なものが潜んでいるように思えてなりません。いつもいつも何を思っていますか?もし、思うことが現実を引き寄せる装置だとしたら、、、、、今、ここで出来るラッキーの仕掛けは言わずもがな!ですよね。

ちなみに昨晩、定例のある会合で、、、このブログの文字が小さくて読みづらい!というご意見を戴きました。なんとかなりますか?事務局さん?

2006年9月21日木曜日

背筋を決める、目線!

美しいお辞儀の形を獲得するためには、いくつかのコツがありますが、思いの他、重要な役割を担っているのが目線です。出会いの瞬間をスローモーションで再生してみるといざ、お辞儀でご挨拶の前には実はお互いにしっかりと相手の顔をみていることが判明します。つまりお互いの目を見るところが出発点だとすると、お辞儀の動作に伴って外してゆく目線を最下点でどこに置くか、これが身体の姿勢に大いに影響を与えることになります。試しに今、ここでいつものお辞儀をしてみてください。そして頭が最も下になった瞬間、目がどこを見ているのか、点検をしてみましょう。いかがでしたか?

たいていの場合、無意識でお辞儀動作を行うと、目線は真下を見ることになります。ちょうど自分のつま先の辺りでしょうか?ところがこの状態を横から誰かに見てもらうと背中が丸く曲がってしまっていることに気付きます。せっかく正しい手順で形をマスターしても、これでは背筋の伸びた美しいお辞儀とは呼べなくなってしまいます。頭から背中、そして腰までのラインがシャープな直線に近いラインを描くためには、目線は真下を見るのではなく、数メートル先を見ている状態が求められます。

最も一般的なお辞儀である会釈の角度は30度くらいですが、このときの目線はおよそ5メートル程先の床を見るような感じになります。目線を意識してみるとそれにより頭の角度が微妙に変化することがわかります。上半身を倒す角度が浅い場合は遠くを見たほうが背中がスッと伸びやすくなります。丁寧なお辞儀である敬礼は45度、この場合は3メートルくらいの先を見る感じでしょうか。身体を最も深く倒す最敬礼ではその角度が90度なので、ようやく目線が真下に落ちても背筋はまっすぐに伸びた状態となります。

ご自分の目が相手を捉えるカメラのレンズだと思ってください。始めは顔の中の目にピントを合わせ、そこから素早く胸元から足元へとレンズを移動させます。ここで一呼吸。そして今度は下から上へとゆっくりレンズを戻す感じ。このイメージをまずは頭で理解し、そこから実際に出来るを目指しましょう。

2006年9月20日水曜日

筋肉痛からの獲得!

私が社会人になって間もない頃の研修では、ナント!お辞儀の角度を正確に点検するための小道具としてお辞儀用の大きな分度器が存在していました。
今、思い出してもかなり笑える代物ですが、それをよってたかって真剣に使用していたのですから、しみじみ感慨深くもなります。昨今ではまったく見なくなりましたが、、、考えてみればお辞儀の角度がもたらすものが当時はそれだけ重要視されていた確かな証でもあります。

そして時は流れて、今日。お辞儀の角度などいっさい気にも留めない風の多種多様で、その実なんとも中途半端なお辞儀のスタイルの実情に果たしてこれでいいのか!と首を傾げたくなるのも、また真実。
そこであらためてお辞儀のポイントは①正しい立ち方で立ち、②腰から倒して上半身全体を素早く前に傾け③頭を下げる④この時、目線は相手の顔から順番に胸元、腰、足元へと下げていく要領で外す⑤手は身体の両脇につけたまま、もしくは身体の倒れる角度に添わせながら前に移動させて、両手を重ねる⑥角度を意識しつつ、頭の下げ止まり点で一旦静止する⑦その姿勢で一呼吸おいてからゆっくり身体を元に戻し⑧最後の仕上げに外した目線をもう1度、相手に戻す、となります。日頃、何気なく行っているお辞儀とは手順も形も随分、異なるはずですが、まずはゆっくりと順番に実践してみてください。頭の中で一つ一つの形を意識しながら筋肉に覚えこませるようなつもりで行なってゆきます。まっすぐ立って、上半身だけ倒すわけですから相当、腹筋が必要になります。つまり、おなかに力を入れることもお辞儀動作の大切なポイントです。ここがしっかり出来ていないと背中はなだらかな丸みを醸し出し、キリッと引き締まったお辞儀にはほど遠くなります。こうして少しづつ、滑らかな一連の動作としてのコツがつかめてきたら今度は全体のリズム感を意識します。
美しいお辞儀のリズムは【 素早く倒して、一呼吸おき、そこからゆっくり戻す 】となります。この実践に問われるものは精神論の美しさではなく、筋肉痛を伴う美しさの獲得と心得え、スポーツの秋の挑戦課題として、いざ!。

2006年9月19日火曜日

出会いの動作は民族の証

出会いに伴う動作を【お辞儀】と認識するのは、なんだかんだ言っても日本人の証拠。なぜならば、同じ挨拶でも欧米人の場合はお辞儀ではなく【握手】になるからです。握手は英語でシェイクハンド。なのでしっかり握ってしっかり振る。さらにこのとき、アイコンタクトが不可欠です。お会いできて嬉しい!という気持ちをしっかりと眼に込めて、お互いの目を合わせます。そうしないと出会いが嬉しくないという意思表示になるのできっちりアイコンタクトは欧米系挨拶の重要なポイントになります。世界各国の出会いの挨拶動作は様々ですが、大別すれば狩猟民族系と農耕民族系に二分され、前者は握手、後者はお辞儀となります。獲物を追いかけて食料を確保する狩猟民族にあっては獲物を追いかける途中で、当然、他の部族とも出会うことになります。この時、部族の長がお互いに害を加えるつもりはないことをアピールするために、何も武器を隠し持っていないことを左手で示し、右手で握手をして、挨拶を交わしたのが始まり。しかし、決してお互いに油断はしていないので目線は絶対に相手からは外しません。なので現在は好意的なメッセージを伝えるためのアイコンタクトもはじめは実は我が身を守るための最大の手段だったという事になります。

さて、農耕民族の場合は田畑を耕し、農作物を育てるためには仲間同士が力を合わせなければ乗り越えられない課題が沢山あります。そこで仲間に対して、心からの敬意と信頼の証としてお辞儀という動作が編み出されました。それはちょうど犬が自分より強い相手に対して、おなかを見せて服従を誓うように、相手に対して腰から上半身を倒して頭を深く下げることで首の後ろを無防備な状態でさらけ出すことで、強い信頼の念を表わしています。なのでその下げ方が深いほどより敬意も深いお辞儀として、角度により種類が異なるものとなっています。正しい立ち方を基準に上半身が90度の角度まで下がるお辞儀を最敬礼といいます。この半分の45度くらいが敬礼。さらに30度くらいが会釈、その半分の15度くらいが目礼とか黙礼の頭を下げる角度の目安になります。

そして信頼を表わすための最大のポイントは目線を外すことにあります。ここで欧米系のアイコンタクトのように目線を残してしまうと、信頼していないというメッセージと貴方を警戒しているという雰囲気が見事に漂うことになります。お辞儀動作にあっては目線は一旦外す、但し動作を戻したときには目線も戻す!ここが大きなポイントになります。何気なくしているお辞儀、まずはこのあたりを点検してみてください。悪気なく目が残っていませんか?

2006年9月18日月曜日

出会いの定番動作

世の中、広いようで狭いものです。これ偏に見る側の心のありように起因いたします。随分、昔に作者は不明ですが、小学生の作文として紹介された一文でそのことを強烈に自覚させられました。
『遊んでいるとき、狭いな狭いな運動場。石拾いのとき、広いな広いな運動場』という文章です。どなたの記憶にも同じようなものがありはしませんか?お昼休みや放課後に場所を取り合って遊んだ運動場は、本当にすぐ誰かとぶつかったり、邪魔されて小競り合いになったり、なんでこうも狭いのかと子供心にも首を傾げたくなったものです。ところが月に1度か2度全体朝礼みたいなものが運動場で行われ、校長先生のお話を聞いた後に引き続き全員で石拾いをさせられたときには、なんて広く感じたことでしょう。同じ運動場なのに!

これと同じことがいくつになっても様々な場面で繰り返され、ひとつひとつ世の中の真理に近づいてゆけるのかも知れません。それはともかく、最近では実感として世間は狭い!と痛感しております。おそらく社員の方々に夢を持て!の岡村氏も同じ思いを日々、体感されていることかと思います。とにかく出会いがもたらすものが単純に1対1ではなくなってくるのがその理由のようです。つまり初対面の出会いがあって、アレコレ話してゆくうちに驚くような過去からの接点があったり、知人の誰かがお仲間だったり、それこそ学校が同じだったり、趣味の世界でつながっていたり、、、とその瞬間に一気にまだ見ぬ知り合いが複数で誕生してしまうような経験が年齢とともに確実に増えてまいります。これ、あまり語りかける方がいらっしゃらないので世間に浸透してはいませんが、『人間が年齢を重ねる醍醐味のひとつじゃないか』と受け止めております。

但し、このことは逆から見れば油断大敵!という事態でもあります。つまりある一定以上の年齢を超えたときに、過去の対応やら付き合い方やらが束になって、自分自身が紡いできたつもりの他者との信頼の絆の強度点検に襲い掛かってくるようなものとでも申しましょうか。となるならば、現在のいつ、いかなる時のどんな出会いも決しておろそかにしてはいけない事になります。それがやがて未来に継承される以上当然といえば当然。これを肝に命じて、今週からは出会いの定番動作、お辞儀に取り組んでまいります。敬礼!