2006年11月30日木曜日

手の揃え方と動かし方

【おもてなしのマナー】が相手の立場に立って考えられるものである以上、
ご案内の動作ひとつもにも<美しさ>と<わかりやすさ>への工夫があります。

この基本動作はあらゆる場面で応用できるので1度身につけてしまえばとても
便利な代物といえるかもしれません。ぜひ、獲得してください。

まず、<美しさ>への工夫は【手の指先を揃える】ことで出来あがります。
4本の指を隙間なく揃え、親指は人差し指のあたりの手のひら側に添わせます。
こうするだけで何かのご案内をするときの手元が一挙に美しくなります。

手持ち無沙汰という言い方をしますが、逆に手に意識を集めてみると急にしっかりと全体の印象が引き締まるから不思議です。早速、お試しあれ。

次に<わかりやすさ>への工夫は手の動かし方が決めてになります。

遠い所を案内する場合は一旦、手を大きく上げ、下げながら指していきます。
手のひらを耳の横くらいのポジションから始動させて、一旦上方に振り上げ、上から下に動かしながら、その方向を指し示し、まっすぐに伸ばした腕全体が床と平行になったところでピタリと止めます。手の動作をこんなふうに大きくすることで結構、距離があることをわかりやすくお伝えする事が出来ます。

この時のもうひとつの大きなポイントは案内する側の目線にあります。
目線はお客様の顔に合わせ、お客様がこちらの手の動きにそって、ちゃんとその目当ての方向を見ておられるかどうかを確認します。

反対に近いところをご案内するときには、正しい立ち方できちんと身体の側面に沿わせている腕の肘から下だけを動かすようにします。つまりこの時の手の動きは下から上へ!となります。このわずかな動きで距離の近さを表わします。

応接室の上座席へのご案内などがこれに当り、椅子のそばで椅子の座面を指し示す時にこの動きを使います。手のひらは常にお客様の方を向いた状態です。

2006年11月29日水曜日

上座へのスマートなご案内

【おもてなしマナー】のステージがやっと応接室に到着しましたが、これで完了『さあ、退散』とはまだ参りません。自宅ならここまで来れば、フランクなおもてなしの雰囲気に一気に移行したいところですが、会社の場合はここでもいくつかの【おもてなしのためのポイント】があります。

ひとつはお座り頂く席へのご案内です。自宅で親しい方の場合は『適当にどうぞ』とか、『お好きなところにお掛けください』でも許されますが、初対面の相手や会社での基本は迎えたほうがお客様に上座の席をおすすめします。

だいたい和室でも洋室でも基本的には入り口に遠い席が上座になります。
和室の場合、床の間の前が上座。洋室の応接間では上座に長椅子、下座に肘掛椅子が配置されていますが、最近はすべて一人がけスタイルのものや、ドアや窓の位置によって上座がわかりにくい場合もありますので、あらかじめ社内で情報を共有化して、どこが上座かしっかり理解しておかねばなりません。

その上座の席をお客様におすすめするときには『どうぞこちらの席にお掛けになってお待ちくださいませ』くらいが言えれば、上出来ですね。

またこれからの季節にはたいていコートをお持ちになっていますので、席にご案内したら、続けて『コートをお預かりします』という段取りになります。

コートは両手で受けとめて、丁寧に扱いながらコートハンガーにかけたり、
あるいはロッカーの中に入れます。

ここまで出来たら、ひとまず応接室を退出し、お茶のおもてなしに移行することになりますが、何も言わずに出てしまうのはいかがなものでしょうか?

せめて『ただいま、お茶をお持ちいたします』とか『担当の者がすぐにまいりますので少しお待ちくださいませ』と挨拶の言葉を語先後礼<言葉を先に相手の顔を見てしっかり言ってからお辞儀動作を行う>で実践して退出できたら、しっかりした会社だな!と見事な好印象の獲得につながる次第です。

2006年11月28日火曜日

案内の基本動作

しっかりと歓迎の意思をあらわすことがお出迎えの極意なら、その成果を心地よく引き継いでゆくために【滑らかなご案内】が次に問われる課題になります。

自宅の場合は玄関から応接室やリビングまでの距離が短いので、そんなに難しくありませんが、会社の場合はいくつかのポイントやコツがあります。

たとえば、応接室までたとえ少しの距離でもご案内をする場合はお客様との関係において、どこをどう歩けばよいのかという課題が浮かんできます。

原則は案内する者がお客様の先を歩きます。時々、お客様優先を意識しすぎて後ろから付いて回る形で案内されることがありますが、見知らぬ会社の中にあってはいい迷惑。その都度後ろから『その先を左です』『しばらくまっすぐどうぞ』では、案内ではなく、指示されてるような按配です。
なので要注意。

案内の原則はお客様の2,3歩くらい先を歩きます。この時、ポジションはお客様の左前方となります。これは俗に言う『あの人の右に出る者はいない』になぞらえて、失礼のないように意識して左前方を歩きます。

長い距離をご案内する場合は時々、振り向いてお客様がちゃんと後ろに付いてきておられるかを確認しますが、この時にはお客様の顔ではなく足元を見るつもりで振り向くと、その都度、眼が合ってギクシャクすることもなく、それでいてしっかりと様子に気をつけている配慮が伝わります。

こうした気配りがいっさいなく、ただスタスタと先導するのでは、ロボットと同じ。ご案内の仕方ひとつにも相手のことをきちんと考えている姿勢が、やはり眼に見える形で表わせるものだということに気づけますね。

応接室に到着したら、手前に引くドアの場合はドアを開けて『どうぞ』と一言添えて先にお入りいただきます。中へ押すドアの場合は『お先に失礼致します』と先に入って、くるりとお客様の方に身体の向きを変え、ドアを押さえてからお客様を招き入れます。
案内ひとつもちゃんと練習がいりますね。

2006年11月27日月曜日

心が伝わるお出迎え

【おもてなしのマナー】のための環境整備である<しつらい>や掃除力に磨きをかけることが出来たら、一応ハードの側面はクリアしたことになります。
たまたま!ではなく、いつもきれいで快適!を目指して、BGMや香りの空間演出等もふまえて、意識して日々、準備万端を継続せねばなりません。

そこからいよいよ【ソフトなおもてなしの対応力】が問われることになります。

会社の場合も自宅においても、お客様をお迎えするというおもてなしにあっての基本的な姿勢に変わりはありませんが、プロセス毎に特に気をつけたい課題を取り上げてみたいと思います。まずは【お出迎え】のステージです。

『いらしゃることを心から楽しみにしていた』という想いを相手に伝える方法論はいくつもありますが、それが初対面の方の場合は!とか、懐かしい方の場合は!とか、あるいは親しい方へのサプライズは!という具合に事前にどれだけ相手のことを考えていたかが、相当見えてしまうのがお出迎えの瞬間です。

自宅の場合など『駅に着きました』と連絡が入ったら、行き違いにならない程度にお迎えに出かけてみるのも嬉しさが伝わりますね。
あるいはマンションなどではエレベーター前までお迎えに出るだけでもかなり暖かな歓迎モードが伝わって、そこから始まる時間が愉しみになります。

会社の場合は規模により対応は様々ですが、正面玄関でお待ちしていたり、応接室の前で待機していたり、歓迎しているならば、その気持ちが相手にストン!と伝わるような眼に見える実践での工夫が欲しいものです。

以前、とても仲良くしていた、ある料理屋のご主人は、お商売柄もありますがとても歓迎上手な方でした。ある年のお正月にご自宅にお邪魔した折のこと。お部屋に案内して頂き、着席した途端に『前方の窓の外にご注目ください!』と言われ、何事かと眼を凝らしたら、中庭の先の2階の子供部屋の窓から当時はまだ小さかった子供さんたちがエイ!と垂れ幕を垂らしてくれました。
そこには『歓迎!ようこそ水谷様、ごゆるりと!』と大きく見事な筆文字。
おもてなしの心を眼に見える形で教えて頂いた瞬間でした。

2006年11月26日日曜日

幸せが舞い込む・おそうじ風水術(著者:林 秀静)

タイトル:幸せが舞い込む・おそうじ風水術
著者:林 秀静(りん しゅうせい)
初版:2006年6月20日
出版社:成美堂出版
524円(税抜)

あいにくの天候ではありますが、さすがにここ数日、京都はどこもかしこもが凄い数の観光客で賑わっているようで、喜ばしい限りです。

本日、行きつけの美容院で仕入れた話では、哲学の道がまるで祇園祭くらいの人手で身動きが取れないらしいとか、東福寺の紅葉見物客が長蛇の列で大賑わいだとか。テレビの報道番組もひっきりなしに京都特集を組んでくださるおかげもあって、古の観光名所からは嬉しい悲鳴が聞こえてきそうです。

その一方で早くもクリスマスのイルミネーションがいたるところで輝きはじめました。ゴージャスな迫力で群を抜くのはやはり五条のロームさんでしょうが、たまたま昨晩、お見かけしたのは烏丸丸太町を北上した西にある、平安女学院のキラキライルミネーションでした。アレ?毎年やっておられましたっけ?

もしかして今年からでしょうか?案外、灯台下暗しで当方の認識不足やも知れませんが、あのあたりは日が暮れるとかなり真っ暗に近いせいもあって、なかなかに美しい光景が繰り広げられており、しばし夢見心地のシンデレラになったような気分を堪能させていただきました。

そういえば、初めてホノルルマラソンに挑戦したとき、夜も明けやらぬ暗い内にスタートして走り出した真っ暗な道のそこかしこにクリスマスイルミネーションが輝いていて、それがとても印象的だったことを思い出します。

それは常夏のハワイでもクリスマスをするんだ!と妙に感心した記憶です。

さて、昨今、妙に感心して個人的に心がけているのが掃除です。
その掃除に風水からのアドバイスを込めた1冊が本日のお薦めです。

2006年11月25日土曜日

雑巾と蔵金

【おもてなし】のための心と姿勢をまずは環境という視点で点検し、徹底した掃除で整備し、そして磨きをかけてゆくのが<しつらい>の基本でしょうか。

季節の佇まいを反映させるための様々な工夫がそこから生まれ、もてなす側の徹底ともてなされる側の評価が相まって、そこに生活の知恵が育まれた次第。

その伝承は基本的には家庭の躾として培われてきたはずですが、ここ数十年の間にどうも完全にそれが根絶えてしまった観があります。

たとえば、家の中に雑巾(ぞうきん)がありますか?
そしてそれは掃除の対象となる場所別にある程度、分別されていますか?
さらにそれをきちんとしっかり絞ることが出来ますか?
使った後、石鹸で洗って雑巾の汚れを取り除いていますか?
また次に気持ちよく使えるように乾かす場所や方法が決まっていますか?

今年大ヒットしたオールデイズ三丁目の夕日に描かれていた昭和30年代までならどこの家庭でも、あるいはどんな会社でも当たり前にされていたはずの掃除の主役、雑巾の使い方ひとつも継承されていないのが実情です。

そのことにハッキリと向き合えたのは社内研修開発に全力投球していた時代の
1990年代、ある朝、研修会場を参加者と共に掃除していたときに、とんでもない雑巾の絞り方を見咎めた瞬間でした。

確か新人研修だったはずですが、バケツの前にヤンキー座りでかがみこんでいるその新人は両手で拝むような形で雑巾を押さえつけていました。おそらく生まれてこの方1度も雑巾を絞ったことがなければ、当然と思える情景でした。

かくしてビショビショの雑巾でなでるように拭かれた机の上には何本もの筋が埃のように残ることになります。

【 『雑巾』を当て字で書けば『蔵と金』あちら拭く拭く、こちら福福 】と
詠んだのは確か太田蜀山人でしたでしょうか?

2006年11月24日金曜日

おもてなしの下ごしらえ

京都の年間行事を日々の生活の中でも有効に味わうために、数ヶ月に1度位のペースで自宅で何某かの宴会を企画開催するのが、この家に暮らし始めてからの大きな愉しみのひとつになっています。

今年の記憶を辿ってみますと、ご近所にあるお寺での有名な節分行事にちなんだ日本酒と酒かすおでんの会に始まって、葵祭のタイミングに合わせた、こちらは女ばかりでのお茶とお菓子のめずらしい茶話会。

そしてお盆の大文字送り火観賞という名の大宴会には東京、名古屋からも酒豪にご参集頂き、おかげさまで『生で見る大文字は生まれて初めて!』という感動体験を提供させて頂き、ちょっぴり京都暮らしが自慢の種にもなりました。

そろそろ年末年始のいずれかのタイミングを見計らった企画に取り組みたい頃合ですが、今朝、そんな気分でカレンダーをじっくり眺めていたら、来週の今日はもう12月!なのだという状況にあらためて驚いております。

決して年齢のせいだけではなく、おそらく地球温暖化のせいで年々、遅くなって来ている紅葉の時期の実態が体感時計に多少の影響を与えているせいもあるかと思いますが、年の瀬がそんなにも間近に迫ってきている気配がまったく無くはありませんか?どちら様におかれましても、、、。

さて、自宅での何某かの会を実にマメに行う表向きの理由は冒頭に記した通りですが、実は裏理由もちゃんと存在しております。それはその会を行うおかげで家の内外がそりゃもう!きれいになるからです。

もちろん自分で懸命に掃除をするのですが、そこはやはりお客様をお迎えするとなると見栄も手伝って日常とは掃除に向き合う気合が違ってまいります。
結果、なんとなく弛んでいた身体がちょとした集中ケアの成果で引き締まって見違えるかのように、【おもてなしの下ごしらえ】を通して家全体がすっきり垢抜けて見えるから不思議です。

掃除が苦手な方向きの荒療治ではありますが、誰かをお招きしてラッキーな環境整備に対処している方は意外に多いのではないでしょうか?

2006年11月23日木曜日

勤労をもてなす今日

【おもてなし】を英語で言えば、ホスピタリティ・Hospitality
この周辺用語としては【病院・Hospital】があります。
【Hospice】とくれば、そもそもは巡礼者の宿泊施設のことでしたし、現代においては緩和ケア病棟、すなわち癌などの末期患者用施設になります。

そこから来ているホステルは日本でも学生対象の宿泊施設としてすっかりおなじみでお世話になった遠い記憶からも懐かしさがこみ上げます。

そのせいでしょうか、言葉の響きはなんとなく相手を思いやったり包み込んだりする優しく、穏やかなイメージを持っていますが、語源はラテン語の【ホスティス・Hostis】であり、もともとの意味は<未知の人、または敵>とあって、現代訳とはいささか異なる気配が漂います。

でも、考えてみれば今ほど情報伝達手段が発達していない時代にあっては、見ず知らずの人は敵である可能性のほうがたしかに高かったかもしれません。

長い歴史を積み重ねた結果、今日の社会では人が人をもてなすことはごく普通のとても平和的かつ友好的な証として、【おもてなしの文化】が形成されていますが、昔は突然訪ねてくる客人はそれこそ敵か味方かわからない、善人か悪人かの手掛りもない非常に厄介な対象であり、そのせいで双方がとても不安な状況に追い込まれる歓迎すべからざるものであったはずです。

しかしこうした面倒な客人をそれでも何らかの形で迎え入れようとした習慣や作法は様々な形で世界各国に生まれ、初期においては命がけでさえあったソレが、営々と受け継がれて現代のおもてなしに至るようです。

大いなる危険にその身を晒してまでも、客人を受け入れようとした背景にあったものが何なのか、窺い知る事は出来ませんが、相手の身になって考えようとする精神こそがおもてなしの根源であり、それゆえに異なる相手に合わせた臨機応変な対応力の高さも求められることになります。

今日は勤労感謝の日、勤労を尊び、生産を祝い、お互いが感謝しあう日です。誰かを精一杯もてなすつもりで日頃の労をねぎらいつつ、今日はごゆっくり!

2006年11月22日水曜日

玄関美化のすすめ

【おもてなしマナー】の決意がはっきり表れるハード的側面の実態はそんなに難しいものではなく 誰が見てもその良し悪しがわかるものですが、【慣れ】が原因となって当の本人には見えなくなるようです。たとえば、店舗のショウケースの中のドライフラワーが明らかに色あせていたり、変色していてもそれに気づかなかったり、埃をかぶった置物の蜘蛛巣も見落としてしまいがち。

それはさながらスクリーンの中で描かれている、転落してゆく誰かの人生をながめるかのように、『そんなことしたらアカンやろ!』とつい窘めたくなるほどあきらかに間違った選択肢ばかりかも知れません。

人間は汚いよりきれいが好きな生き物である以上、身の回りをいつもきれいにする癖を<慣れ>にして、やがて習慣化することが賢明な選択といえそうです。

そこでいささか風水的にハードな課題を眺めてみると、日頃とはまた異なる趣で発見ひとしおです。会社にしても店舗であっても、もちろん自宅の場合も
風水的に最も重要視されるのは【人間と気】が出入りする玄関になります。

玄関は福気を取り込むとともにお客様を迎えるところでもあり、その建物の顔でもあるからです。基本はとにかくマメに掃除をすること。
それだけで良い福気が舞い込み、良いお客様が訪れるようになります。

故に物置になってしまっていたり、自転車置き場だったり、とにかく余分な荷物が出入りを邪魔するような玄関は運気の側面からは大いに問題あり!

自宅の場合は玄関のたたき<床>に靴が何足、出ているかを急ぎチェックしてみてください。基本はその家に暮らしている家族の人数分。つまり3人家族なら基本は3足。一人暮らしなら1足です。

下駄箱がいっぱいだから、、とか狭いから、、とか理由探しには事欠きませんが要は面倒くさいから脱ぎっぱなしの置きっ放しで、玄関のタタキがまるで靴置き場のような状況になっていませんか?
最近、どうもいまひとつなら、早速の玄関美化に励んでみては如何でしょう。

2006年11月21日火曜日

眼に見える決意

【おもてなしのマナー】は接遇、接客といったビジネスの場面でも問われますし、ごくプライベートな生活シーンでも求められます。それだけに十分、わかっているようですが、実際にどのくらい出来ているかというと日頃は診断されることがない分、適切な実態把握が難しい課題かもしれません。

そこで本気で自社のおもてなし力を鍛えたいのであれば、店舗診断というような方法で、その会社やお店のおもてなしの実態をハード・ソフトの両面から客観的に調査し、何がどのくらい出来ているか、あるいは出来ていないかを評価することからはじめなくてはなりません。

それはいってみれば健康診断のようなもので、どこがどう具合が悪いのか、その実態把握が出発点になければ、よほどの自覚症状が無い限り、手のうちようが無いからです。たとえば、ハードの課題として日頃、気をつけているものには何がありますか?ご家庭の場合、職場の場合?ここで具体的にいくつか徹底しているポイントを挙げてみてください。スンナリとそれが出てくるようであれば、ひとまず『わかっているかどうか』の知識レベルは及第点になります。

いつだったか、三食ほとんど手料理の友人から唐突に【自宅の冷蔵庫に入っているものを全部言ってごらん?】と問いかけられたことがあります。いわく実態が鮮明に掌握できていれば、かなり料理がうまいはず!ということらしいのですが、たしかにそうかも知れないなと妙に感心した記憶に繋がる領域です。

たとえば、店舗の場合、看板やシャッターなどの汚れや傷み具合・あるいはポスターや貼り紙がはがれたり、歪んでいたり、あるいは期限が切れていたり。
汚れた照明やいっぱいのゴミ箱、雨が止んだのに出たままの傘たて。ダンボールや新聞紙がうずたかく積まれた一人分のお客様の椅子。どこかで時間の止まった日めくりやずれている時計、指紋で汚れた窓や鏡。しおれたり、枯れかけている観葉植物やプランター、生け花。悪気無く、仕方なく、手を抜けば、それは確実におもてなしのマナーから遠ざかる決意を醸成してゆきます。

先日訪ねた蕎麦が有名な地方のあるホテルの自動販売機には【夏限定コーヒー】のPRがあり、サンプルも並んでいたので、まさかと思いつつ、試しに買ってみたら確かにソレが出てきて大変驚きました。この夏に売れ残ったものなのか、今も補充しているものなのか?
詳しいことは不明ですが、訪ねたのは紅葉の見事な11月中旬の話です。

2006年11月20日月曜日

わかって出来る、マナーのために!

今朝は静かな雨の朝、我が家の東側に広がるとあるお寺の紅葉が燃えるような姿をとうとう今年も見せ始めました。毎年、恒例の季節限定、思わず息を呑むような光景は実はここに家を建てたときには思いもよらなかった感謝感激の副産物のひとつです。それはわずかに1週間だけの劇場空間という次第。

取り分け、今朝のような強すぎない雨の後の姿はまるで湯上りのような気配、とでも申しましょうか。しばし時を忘れさせてくれる見事な眺めであります。

おそらく先週から今週末あたりが紅葉・京都観光のピークかと思われますが、お忙しいビジネスマン諸氏もぜひ、何かにかこつけて、心の滋養、目の保養、さらにはマイブームスポット探しのために今が見頃をお見逃しなきように。

そう言えば、10年を越す人気定番シリーズとして高い評価を獲得し、ついに写真集まで出版されたJR東海の広告・【そうだ、京都行こう】の中でも、随分前に『パリやロスに詳しいよりも京都に詳しいほうがかっこいいかも!』ってなコピーがありました。有名かつ人気の紅葉スポットだけでなく、市内に人知れず点在する絶景をいくつ知っているかは京都通の証として密かに隠し持ちたい武器のひとつかも知れませんね。

さて、密かに隠し持った相手を思いやる心を遺憾なく発揮して頂きたい公共マナーの世界は今週からは様々なテーマ別でさらに使える武器として掘り下げながら眺めてゆきたいと思います。

たとえば、おもてなしのマナー、訪問のマナー、年末年始には急に注目されるパーティやテーブルのマナー、あるいは贈り物やお見舞いのマナーに、結婚式やらお葬式などの各種セレモニーのマナーなど、ビジネスマナー以外にも実に多くのテーマ別マナーが問われる意味はそれが快適な対人関係に無くてはならない代物だからとあらためて向き合う覚悟を固めたいものです。

日々の生活を滑らかに心地よく紡ぐために、マナーは非常に大きな意味を持っています。相手を思いやる心と人に迷惑をかけない決意が生み出したマナーの実際とその向上に『わかって、出来る!』の現場感覚で向き合います。

2006年11月19日日曜日

大人の表現術(著者:中島孝志)

タイトル:大人の表現術
著者:中島孝志
初版:2004年9月20日
出版社:主婦の友
1、200円(税抜)

中国の諺に『困っている人に魚を1匹与えれば今日1日生きていけるが、釣り方を教えれば一生、生きてゆける』とあります。しっかりした言葉とその使い方が『身についていれば』同じことが人生に展開されるであろうことを年々、確信度を深めつつ実感しております。

故にそのうち、言葉に関しては話し方や書き方等もセットで取り上げてゆきたいと考えています。そこには敬語もあれば、電話応対も含まれることになりますし、さらに交渉力やらインストラクションというレベルへの発展も見据えますと大いに勉強させて頂けそうな未来図です。ですが、今しばらくは全体的フィールドでの表現力にマナーの観点からさらに言及したいと思います。

【ハーバード大学の卒業生でその後、ビジネス界で功成り、名を遂げた人に実施されたあるアンケートで『今の貴方をならしめた最も貢献度の高いスキルは何ですか?』という質問の答えは『Interpersonal skill』
つまり、日本語に訳せば、『人間関係構築力』というものだったそうです。
マーケティングでもなければ、マネジメントでもない、人間対人間を勉強したこと、この能力こそが表現力であり、これこそが最高のスキルという次第。】

カバーには著者の既刊として『大人の仕事術』1260円
『ホントにやりたいこと、見つかった?』1365円
『何が言いたいかをスッキリ伝える人になる』1365円の紹介有り

最新情報満載のホームページとメルマガも人気の著者だけに歯切れの良い物言いと軽妙でありながら核心的なテーマの切り取り方に個人的にはうなづくことしきり。【実力が同じならハッタリの効くほうが強い!】は名言かと存じます。

2006年11月18日土曜日

鍛えたい言葉と言葉使い

言葉と向き合うときに、つくづく感じるのは、言葉がなければ思いが相手に伝わらないという事実の重さです。『元気です!』も『今、頑張っています!』も、あるいは『最近、疲れ気味です』という気持ちもそれをドンピシャに表わしてくれる言葉があって初めて相手にもそれを伝えることが可能となります。

遠い昔に、自分の思いがうまく表現できなくていらだった記憶はありませんか?そうじゃない!っと喉元にこだまする思いが、でも言葉にならなくて、ただ押し黙っていた幼い頃のそんな経験はありませんでしたか?

どうしようもないもどかしさの中で、あるいは感激の真っ只中で、学んだばかりの言葉がまるで手品のように自分の思いを言い表してくれる瞬間の心地よさをどうも大人になるにしたがって人は忘れてしまうようです。

良くも悪くも人間関係は言葉によって築かれている!という厳然たる事実に1度はしっかりと向き合いたいものです。

そうすれば『ものは言いようで角が立つ』の言葉通り、どんな言葉をどう使うかで誰かに好かれたり、嫌われたりするのが人間模様と思い至ります。

いずれにしても自分以外の他人と良い関係を築きたいと願うならば、言葉の在庫、すなわちボキャブラリーを増やす以外に手はなく、いくつになってもこの努力を放棄するわけにはいかないようです。加えてその言葉を使いこなすためには正しい敬語の知識とその実践力が当然、求められることになります。

ところが研修などで『敬語は大丈夫ですか?』とお尋ねすると大半の方が堂々と胸を張って『ダメです、苦手です』とおっしゃいます。本来なら俯いて恥ずかしげに言うべきはずが、あっけらかんと言い切れるのは完全放棄の意思なのでしょうか?苦手なら得意になるよう努力するだけ。ペルシャの諺に『今、簡単なこともはじめは難しかった』とあります。ただ、それだけのことです。

2006年11月17日金曜日

口は災いの元

ここの所、数年ぶりに歯医者さんのお世話になっております。何年か前に治療した歯のかぶせ物が外れてしまい、これを元に戻して頂くために近所の歯医者さんを訪ねたところ、他にも多々、問題ありということでなんだか、長引きそうな様子になってまいりました。

おかげさまで元来、丈夫な方ですが歯だけは我慢して治るものではないだけに
まあ、しょうがないと覚悟を決めて通院しております。

確かに昔に比べれば技術は飛躍的に進歩し、痛みに対する配慮や施術、さらに環境もイケているのですが、先日は90分間の長丁場、この間、完全にまな板の鯉状態で横たわらされたまま!はさすがに堪えました。翌朝から首と背中が痛い!のなんの。歯医者さんのせいで、マッサージ代もかかりそうな日々です。

ちなみに私の担当医は治療中に気になることがあるとそれをそのまま独り言で言っちゃう癖のある御仁です。どうもこれが治療される側からすると、良くない影響力を持っているようで、『あれ?』と予想と違ったかのような反応をされたり『うーん?』と唸られたりすると、それだけでびくびくして内心、どうしよう、、、、と一層身体がこわばる気が致します。何とかならないものでしょうか。

そんなことを気にしていたら、先日、会った友人のご主人が同様に歯医者通いらしく、そのお医者さんがもっと凄い独り言の持ち主と聞かされました。

ご存知かどうか、今時の歯医者さんは初診の時、必ずレントゲンを取ってそれを即パソコン画面に映し出して、患者に見せながらどこがどう悪いのでどんな治療をしていくかという非常にビジュアルな説明をしてくださいます。

友人のご主人の担当医はこのレントゲンを見るなり『うわあ!』と大きな声をあげたらしく、『あんな失礼な医者は初めてだ!』ということで、別の歯医者さんにしたそうです。口は災いの元!と申します。何気ない一言でアンラッキーにならぬよう、くれぐれもご用心を!

2006年11月16日木曜日

譲れない何か。

京都御所の中は基本的に砂利道なので、歩くのも走るのも案外負荷がかかります。そこを自転車で走れば、場所によっては厚い砂利にタイヤが引きずられるような格好で、よろめくこともしばしば。そうした日常的な歴史の積み重ねの結果、御所の砂利道には自然発生的に自転車走行ルートが出来上がっています。

つまり、自転車が走るたびに砂利が少しづつ弾き飛ばされて、砂利の下の地面が顔を除かせた分、かなり走りやすくなっている道!という次第。

この自然ルートは概ね、東西のゲート間に形成されています。西の烏丸通り(今、この通りには迎賓館通りという別名がつけられています)から東の寺町通りまで、あるいはその逆に進路を取っての通勤、通学などの生活道路でもあります。

我が家にあっても時折は自転車で、あるいは徒歩で、そしてそろそろシニア世代に突入の愛犬のお散歩ルートでもあります。よくしたもので、ワンちゃんにしても分厚い砂利道はどうも歩きにくいらしく、フト気が付くといつのまにかちゃっかり、砂利の薄い自転車ルートの上を歩いております。

そして、この便利な自然ルートでもやはり【公共マナー精神】が問われることがしばしば起こります。すなわち、それはかたや東向きに走る自転車、かたや西向きに走る自転車のすれ違いざまの光景です。

見晴らしの良い御所の中だけに向こうから走ってくる自転車の姿は相当離れた場所からも認識できます。故にごく自然な光景としては双方がすれ違う少し手前あたりから自転車ルートを相手に譲り合って行き交うものとなります。

ところが現実にはどちらかが避けたルートをイケしゃあしゃあと我が物顔で走り抜ける姿であったり、反対にどちらも道を譲らずに危ない!という接触直前まで突進してゆく姿であったりします。

人生を生きてゆく上で、何が何でも譲れないものが誰にもひとつやふたつ有るのは当たり前ですが、それは決して自転車ルートではないはず!ですよね。

2006年11月15日水曜日

原因結果の法則

地方都市の駅前商店街の寂れ具合はいかな素人にも胸にこたえるものがありますが、皆さんのご実家のご近所やお知り合いの様子は如何でしょうか?

かつての商店街のシャッターが閉まったままなので、【シャッター通り】とはいかにも悲しい呼び名がついたものですが、、、長いスパンで見れば、浮き沈みのあるのが世の常で何とか知恵のある再生への手掛り発掘を強く願うばかりです。

持論で申せば、原因結果の法則の為せる技、今日の姿の原因は誰のせいでもなく、良くも悪くも過去のいずれかの時点で自ら蒔いた種の結果となります。

残念ながら『過去と他人は変えられない!』のセオリー通り、こうなったら『未来と自分は変えられる』というポジティブシンキングで邁進するのが得策。

豊かな未来を願うならば、今の自らの行いのひとつひとつを『さてこれは明るい未来のためのどんな種を蒔いているのか?』という客観的なフィルターで吟味する姿勢が不可欠です。取り分け、つい見ず知らずの人ばかりだからと油断しがちな公共マナーが問われる場面はその基礎体力を鍛えるための絶好の機会としみじみ思い至ります。誰のためでもなく、自分のためが出発点です。

それにしても、人は誰しも『誰も見ていないからいいや!』という物差しをどこかにひとつふたつは隠し持っているものです。やがて人間的に成長すればするほど、これを使わなくなるものですが、それは『だれも見ていなくても自分が見ている』ということにハタ!と気づいた証ではないかと考えます。

かといって、たまにしか車の走らないような田舎の道の信号機に頑なにしたがうような律儀さもいかがなものかと思える訳で、それなりの柔軟な使い勝手の余地を残しつつが理想ではありますが、、、。

自分で自分が誇らしくなるような振る舞いこそが、人を育み、街を育み、国を育む流れになり、それが公共マナーの根幹であってほしいと願います。

2006年11月14日火曜日

ベルの音にも品格あり

いよいよ、紅葉。御所名物の大銀杏も北西のソレがかなり色付いて参りました。
こうなるとあちこちが観光名所の京都市内の移動には徒歩、もしくは自転車が絶対にお勧めの按配になりますが、この難題はいつになったら解決するやら。

毎年、あーせい、こーせい!ばかりを耳にしますが、その割りに状況は一向に改善されず、京都に暮らす庶民にとっては謎が深まるばかりです。
詳しいことも、建設的な見解も、見えないままに今年も観光のメッカに暮らす皆さんにとっては買い物ひとつも不便な日々の幕開けという次第です。

とは言え、自転車に関してはおそらく、市内全域で恐ろしくマナーの良くない実態もあって、期間限定とはいいつつ、今以上にその総数が増えたら、交通安全の側面からまた新たな課題が噴出しそうな気配でもあります。

もともとの問題点として個人的に眉を顰めているのは、まず曲がり角でのスピードの出しすぎ、信号ぎりぎりの横断等の無茶苦茶な走行、歩道の走行、さらに二人乗り、そしてあわや正面衝突しそうな無灯火走行に、雨の日の傘差し片手走行、及び携帯通話中の片手走行というあたりでしょうか。

その結果、どのくらいトラブルが発生しているのかわかりませんが、交通ルールの整備徹底と公共マナーの側面での取り組みが急務かと痛感いたします。

さらに見知らぬ他人への配慮を問うという公共マナーの本質的な有り様に照らせば、実は<ベルの鳴らし方>にも問いかけたい課題があります。

結論から申せば、前を行く誰かに対して、後ろから追い抜いていこうとする時に『自転車ですよ!』とお知らせするのがベルの役目だとすれば、鳴らし方にも気を配れないものかと願っています。突然、背後から甲高い音量で『リンッリンッ!』とけたたましく鳴らされると『邪魔だ!どけどけ!』と聞こえて、心臓に悪いことこの上なし。反対に軽く、小さな音量で申し訳なさそうに『リン』と鳴らされると、『アッ、気づかなくてごめんなさい!』とこちらまで謙虚な気持ちさせて頂けます。どちらが望ましいかはいわずもがな。

2006年11月13日月曜日

習慣のもたらすもの!

『ご趣味は?』と聞かれることがほとんどない昨今、これって新しい出会いがないからでしょうか。いえいえ、むしろ、ネットワーク作りに奔走した昔に比べれば、随分簡単に実り多く、意義深い出会いに恵まれる今日この頃です。

気が付いたら聞かれないだけでなく、こちらもあまりそんなことを聞かないというか、そういう聞き方をしなくなったことに気づきます。
考えてみれば『お仕事は?』『お年は?』『ご家族は?』も同様ですが、かなり尋問系の取り調べモードの聞き方であって、初対面であれば尚更、良い対人関係作りとは反対の路線にある課題かもしれません。

さて、趣味のひとつにこの季節ならではの【編み物】があります。
昔はよく会社の昼休みなどにやおら編み物セットを持ち出して、セッセと手編みセーターなんかに取り組んでおりました。当時は出張など長い時間の列車の中は絶好の編み物タイム。そのせいで倍ほどに膨らむ荷物をものともせずに車中で編み物が大きな愉しみでもありました。

習慣とは怖いもので、どうせなら日頃の通勤車中も編み物タイムにもってこいとばかり、気が付いたら当時の交通手段のJRの行き帰りにも席に座れたら即、編み物という勢いになってゆきました。

ある日、通勤のJRの席で編み物に没頭していたら、突然、車掌さんから
『車内で編み物はおやめください』とお叱りを受けました。一瞬、たじろぎましたが、『なぜ、ダメですか?』と伺うと『突然、急ブレーキが踏まれることもあります。そのとき、向かい側の席の方に編み棒が突き刺さったらどうしますか』と問い返されて、ストン!とやってはいけない理由が理解できました。

以来、明快な理由は大いなる説得力を持つことを自認する手前、未だにそれが見つけられずに悶々としているのが公共交通機関の【化粧・化粧直し】の問題です。『何を恥ずかしいと思うかが文化である』とどなたの弁かは失念しましたがそろそろ本気で向き合う覚悟が求められる重大な課題と受け止めています。
アカンもんはアカン!これで変わるなら、苦労はないのですが、、、。

2006年11月12日日曜日

スピリチュアルブック(著者:江原啓之)

タイトル:スピリチュアルブック
著者:江原啓之
初版:2001年4月20日(2005年9月第77刷発行)
出版社:王様文庫(三笠書房)
1、200円(税抜)

京都は一気に冬モードの1日。かなり冷たい風の中、それでも早朝から元気にゴルフを楽しんで参りました。今日は久々にご一緒する顔ぶれで、もっと成長したところをお見せしたかったのに、とびっきりの下手な場面ばかりで、つくづくゴルフは難しい!とうなだれつつ、練習不足を深く反省しております

その帰り道、男子のレギュラーツアーで、すでにシニア入りしている、52歳の中島常幸が優勝した!という素晴らしいニュースが飛び込んできました。
ウーーン!年齢だけじゃないな!と多くの中高年ゴルファーに夢と元気を与えてくれた勝者のコメントは実に穏やかな温もりに満ちたものでした。

ゴルフをなさらない方にはチンプンカンプンの話題で恐縮ですが、何であれ、人に元気を与えられるって凄い!ということに共感 頂ければ幸いです。

さて、あなたは今、心身共に元気ですか?

風を引いていたり。持病の腰や膝が痛んだり。あるいは歯医者に通っていたり。
痛風のお薬が手放せなかったり、あるいは身体は丈夫なんだけど気分がいまいちパッとしない昨今だったり。どうも寝つきが悪い分、朝が苦痛だったり。
状況は人様々ですが、不思議なことに人は具合が悪くなってはじめて、それまで元気だったことに気づくように思うのですが、如何でしょうか?

とすれば、元気な時には、それに気づくことが難しいのでしょうか?
とすれば、病気のおかげで元気の有難さに気づけるということでしょうか?
とすれば、病気は良くないことではなく、何かのメッセージなのでしょうか

江原氏の書籍はいったいどのくらいあるのか見当もつきませんが今や、時の人だけに一家に一冊のつもりでお手に取っていただければと思います。

2006年11月11日土曜日

嫌いと苦手の隔たり

たしか、上賀茂にあるMKタクシーさんの京都本社ビルの食堂は社員だけでなく、一般市民にも開放されていて安くて美味しいらしい。バイキングスタイルで食べたいだけ!頂ける仕組みだそうです。但し、自分がお皿に取った食べ物を残したら罰金!というユニークなルールで運営されている点が注目だとか。

さて、食べる分だけ頂く!という基本マナーが世の中ではどれほど徹底されているのでしょうか?会社の食堂などの光景を思い出してみれば、きれいに空になったお皿より、適当に取って残したことも多々あったような、なかったような、、、。遠い記憶に向き合えば、食べ物を粗末にしちゃいけません!とごはん粒ひとつも残してはいけない躾の時代に暮らしたはずなのですが、、。

いわんや、好き嫌いなど言ってられなかった事実はどこにも面影がありません。

あくまでも個人的体験に裏打ちされた持論のひとつとして【食べ物の好き嫌いは対人関係のソレに比例する】と思っております。
食べ物に対して、あれ嫌い!これも嫌い!と好き嫌いの激しい人は、対人関係においても同様な傾向が大いに見受けられると思いますが、如何でしょうか?

作家の重松清さんがいつだったか新聞のコラムの中でこんなふうに書かれていました。【まだ小さい娘がほうれん草は苦手!と言う。ほんの少し前までは嫌い!と言っていたはずなのに。どうやら、「嫌い!」というと「好き嫌いはいけません」と叱られるので、言い方を変えたらしい。幼いながらになんと知恵があるものかとつくづく感心してしまった!】

嫌い!といってしまうと確かにそれ以上、取り付く島なし、万事休す!ですが苦手!と言われた場合は、いささか受け止める側のモードが変わる気がします。
「そっか、苦手ならしょうがないか!」みたいな感じは、きっぱり拒絶、拒否されないからこそ生じる穏やかな苦笑いで引き下がる図とでも申しましょうか。

いやはや言葉はやはり魔物です。言いたいことをどう言うか。言い方ひとつで
毒にも薬にもなる言葉に苦手意識を捨てて、謙虚に向き合いたいものです。

2006年11月10日金曜日

意識して変えたい、日々の行動

距離間とそのポジションの有りようで居心地の良さや悪さが決まる以上、あらためて研修会の中などで指導を受けて獲得を目指すのではなく、常に意識していれば、日常こそが基礎トレーニングの絶好のステージと気づけます。

ビジネスの現場で、家庭の中で、学校の仲間との交流の中で、さらには公共マナーの問われる大勢の見ず知らずの人たちと同席するどこかで!意識を持てば、行動は確実に変化するということを身をもって実践しながら鍛えたいですね。

そういえば、忙しい朝の出勤風景の中で以前から、気になっていることがあります。それは家族の誰かに駅まで車で送ってもらった時の行動です。
駅のロータリーに到着した車から、降り立つ人物は様々です。
お父さんだったり、奥様だったり,OLさん、サラリーマン、学生、中には小学生の可愛い姿も今時ではめずらしくありません。

その多くの誰もが、車を降りた途端にスタスタと駅改札に向かいます。
たまに小学生くらいなら何度か振り返って、見送る誰かに行ってきます!と手を振る光景を拝ませてくれますが、、、たいていは一目散に振り向きもせず。

一方、送ってきた車の方もサッサと発進して、混み合うロータリーに長居は無用の光景です。都会であれば致し方ない現実の何ら不思議でもないひとコマ。

ある日、いつもと違う光景に出会いました。車から降りた、その方はそのまま駅に向かわずに車の方に向き直り、運転手に軽く会釈をして『送ってくれてありがとう!』と手を挙げて感謝の挨拶。そして発進した車を見送ること数秒、くるりと背を向けて改札に歩き出すまで、30秒もかかってはいないはず。

その光景のなんと美しかったことか。忙しい朝に駅まで送ってくれた誰かに感謝して、それを行動で表わす。そんな当たり前のことが出来ていない!ことに疑問すら抱かなかった現実をグサリと突きつけられた瞬間でした。

何気ない日常の中で、感謝すべきことはいっぱいありそうなのに、いとも容易くそれを見落としている自分に気づけたら、ラッキーな今日の始まりかも。

2006年11月9日木曜日

ハの字、コの字でモードチェンジ

お互い様が真正面に向き合う二の字のポジションは何某かの緊張感とけじめのある距離間を演出しますが、もう少し柔らかく!とか もうちょっと親しみをこめた雰囲気にしたい時には『ハの字のポジション』を意識してみましょう。

『ハの字のポジション』を構築するためには、たとえば名刺交換やきちんとしたご挨拶の後に、相手の身体の正面から軽く1歩分くらい、自分の身体をどちらかに移動させて、相手と同じ方向を向くようなポジションに変化させます。

この状態を上空から眺めてみれば、双方の身体の向きが『ハの字』になって見えるはずです。こうすることで、お互い様の視線が直接ぶつからないためでしょうか、急に気楽でフレンドリーな場の空気が形成されやすくなります。

職場のそこかしこでのちょっとした情報交換や、ご近所同士の道端での立ち話などもよくよく観察してみると『ハの字ポジション』が多いのは、自然と無意識に緊張しない環境整備に努力している証かも知れませんね。

その意味からすれば、Gケースをはさんでの対面販売は致し方ないとしても、側面販売の場合はその文字通りに、お客様の側面にハの字を意識して向き合うことで、威圧感が軽減され、効果的なポジショニングとなるはずです。

故に今日は疲れたなという気分の時のお食事会は、カウンターがお薦め!
お互い様の視線だけでなく、気持ちも抜きやすいのでリラックスできますね。

さらに突っ込んで<膝詰め談判>なんて場合には『コの字のポジション』が有効です。L字型のコーナーに座れば、このポジションが可能になります。すぐ隣だけれど、適度な距離感もあり、ヒソヒソ、相談話モードになりそうです。

ともすれば命令、詰問、尋問の雰囲気の漂う『二の字』に対して、フランクな『ハの字』 そして親密さの『コの字』 状況に合わせて、否、状況をコントロールする手段として上手なポジショニングを使い分けたいですね。

2006年11月8日水曜日

誠意を表わす二の字のポジション

『起きて半畳、寝て一畳』と申します。人間が暮らしを営む上で、必要なスペースを<足るを知る>という観点から、看破した名言です。

確かにそうなのですが、でもそれじゃ、やっぱり満たされないというか、理屈はそうなんですが、それではあまりにも息苦しいと感じるのも人間ならばこそ。
『衣食住足りて礼節を知る』の言葉に照らせば、やはり最低限以上のわずかなりとも余裕を感じるような暮らしぶりの上に、初めて他者への気遣いやら慮る心というものが育まれてゆくのだろうと思われます。

さて、誰かと向き合うときの距離感と共に、お互い様の快適にためにぜひ、意識したいのが相手との向き合い方、つまり【ポジションの取り方】になります。

ビジネスの場面における初対面の挨拶や、商談など緊張を伴う状況では原則、お互いの身体の正面に相手を置く、ポジションを取っています。
この様子を、たとえば上空からカメラで撮影しているつもりで眺めてみると相手とこちらの身体が『漢字の二の字』のように相対していることに気づきます。

すなわち、しっかりと襟を正して相手に向き合わねばならないときにはこのポジションが求められることになります。御礼やお詫びの挨拶然り、職場で上司に呼ばれた時も『二の字のポジション』で向き合うことで、誠意を表わすことが出来ます。特に親しい間柄ではついつい、こうしたポジションがなおざりにされがちですが、このけじめが状況に応じて、つけられるかどうかが、良い対人関係の構築のためには思いの他、重要な鍵を握っていそうです。

日頃は仲良くしているし、よく知っているのだけれど、今回はその相手のために随分、骨を折ったし、世話をした!なんて思っているときに、あまりにもフランクに『助かったよ、ありがとう』なんて気楽に言われて『ムッとした』経験はありませんか?

威厳を持って、居住まいを正し!その誠意溢れる心を伝えるための『二の字』のポジションは大の大人なら美しく決めたい技のひとつです。

2006年11月7日火曜日

数字で捉える身体距離

京都のデートコースで、いかにも代表、いかにも定番と言えば、鴨川のほとり。真冬を除く、スリーシーズンには恋人同士が主に四条から三条の鴨川の西側サイトに腰掛けて語り合う姿がなかなかに微笑ましく見受けられます。

さて、この光景でおもしろいのは、その間隔の有り様です。遠目に見る限り、それは見事に一定で、まるで何某かの暗黙知に従うかのようにパターン化され、テキスタイルの柄のように恋人同士の姿が繰り返されることになります。

対人関係の距離間という観点からすれば、その間隔はおよそ3メートル。
いわゆる【パブリックゾーン】と呼ばれる間隔になります。

初対面やそれに近い場合にはこの距離間が自然で、不用意にここを飛び越えると不躾な感じや馴れ馴れしい雰囲気が醸し出されてしまいます。

反対に何度もお会いしているのに、この距離が一向に縮まらないと、なんとなく疎外感が漂ったり、極端な場合には嫌われているのかしら?という誤解を生むことにもなりかねませんので、なかなか難しい代物です。

つまり、【身体距離】はだんだんと近くなるのが自然で、常に一定の距離間が求められる【車間距離】とは根本的に異なるものと心得たいですね。

家族や夫婦、恋人同士の親密な距離は80センチ。なので職場の人間関係や商談、あるいは接客販売などの場面でこの距離になることは稀!と自覚を。
もちろん身体のサイズをお計りするような場面では、【縄張りゾーン】から【親密ゾーン】へと一気に急接近しますので、その際には必ず『失礼いたします』とか『お計り致します』と一言、お声がけします。
そしていかなる場合も声をかけた以上は必ず返事を聞いてから!が原則です。

時々、ベテラン販売員風情の方が『よろしいですか?』と言いつつ、すでにこちらの身体に触れている!なんてことがありますが、これなど大いなる失点!
悪気はなくても、その無神経さに顧客の足は遠のいてゆくことになります。

2006年11月6日月曜日

120センチの縄張りゾーン

公共マナーとはすなわちお互い様の快適を目指すための様々な約束事であり、同一民族であれば、その実践は本来それほど難しいものではなかったはずです。
簡単に言えば、自分がされて嫌なことは相手が誰であろうと『しない!』と決意できれば、相当な場面で居心地のよさがもたらされる筈です。

今週もまたそんな観点から、相互の快適空間やら快適な対応のための視点と具体論に手を変え、品を変え、迫ってみたいと思います。

そこでまず、あらためて意識したいのが【距離感】の問題です。
車を運転するときの車間距離の取り方に上手、下手があるように、対人関係においての適切な人間距離の取り方が求められますが、案外、表舞台に登場してこない課題でもあります。それゆえに獲得のための具体論も手薄な模様。

たとえば、親密な間柄の場合、初対面の場合、など状況は様々ですが、いったいぜんたい、どのくらいの位置関係で向き合えば良いのでしょうか?

ある日、ヤマアラシの夫婦があまりに寒いのでお互いに身体を寄せ合って暖を取ろうとします。しかし近かづき過ぎるとお互いのトゲが刺さって痛いし、離れすぎると寒い。痛い、寒い、その様子を称して『ヤマアラシのジレンマ』というお話になりますが、ようやく適切な距離を見出すまでには、その繰り返しの中でしか磨かれない技が問われることになります。

その技を獲得するために何度もヤマアラシのようにくっついたり、離れたりしてみるのも確かにひとつの方法ではありますが、ここはもう少し合理的に客観的な数字で望ましい距離間を捉えてみたいと思います。

ちなみに両手を床に平行にまっすぐ横に広げて、その片方の指先からもう片方の指先までを計ると、ほぼ身長分の長さになります。相手の身体に対して、この両手の範囲内に入るときには必ず、一声かける!が求められます。

この距離はおよそ120センチ。『ここから先は勝手に踏み込まないで!』という縄張りゾーンなので、この際、しっかり身体感覚化させたいですね。

2006年11月5日日曜日

ことばで『私』を育てる<ちょっとした口のきき方で生き方が変わる!>(著者:山根基世)

タイトル:ことばで『私』を育てる
著者:山根基世(NHKアナウンサー)
初版:1999年12月8日(2000年3月第3刷発行)
出版社:講談社
1、500円(税抜)

実はそれまではどうしても理解しきれていなかった、擬態語と擬音語の違いを『ありさまことば』と『オトマネことば』という置き換えで明快に獲得できたのは今日、ご紹介する1冊との出会いのおかげです。

言葉を扱うプロフェッショナルな立場にあって、言葉に向き合う真剣で真摯な眼差し、そしてその根底に流れる他者への暖かな思いと謙虚な自己把握。

久々に書棚から引っ張り出したこの本を眺めてみると、当時及びその後、いかにこの本から多くの気づきや教えを頂戴しているかが一目瞭然です。

本のいたるところがドッグイヤーされ、そこのページの何がポイントかという箇所にマーカーが引かれ、さらにそこにはコメントがポストイットに小さな文字でびっしり書き綴られて、あちらこちらに貼り付けられています。

そんなものにかれこれ1時間近く見入りながら、およそ8年前の出来事と、そしてそのときの自身のものの見方、考え方に思いがけず遭遇し、良くも悪くもそれらの観点がさほど変わっていないことに驚いたり、感心したり、、、本の力の為せる技につくづく頭が下がる気分に浸らせて頂きました

とりわけ最終章に紹介されている、『銀の雫文芸賞』の雫石とみさんの話は圧巻です。ご本人の著書『荒野に叫ぶ声』も即、購読しましたが、言葉はこころにあふれるものを語り、言葉がなければ考えることすら出来ないという、その当たり前すぎて見落としがちな原点にガツン!と向き合わさせてくれます。

2006年11月4日土曜日

オトマネ言葉

やはり地球温暖化の影響でしょうか、11月とは思えない穏やかな気温の毎日。市内各所の紅葉の見頃もこれでは月末から12月初旬になりそうな気配です。

先日、ご紹介した擬態語、すなわち【アリサマ言葉】でこの陽気を表現すれば、『ポカポカ!』がぴったりきますね。さて、擬態語とくれば、忘れてならないのが擬音語。こちらもナイスコミュニケーションのためには非常に有効な武器のひとつになります。

擬音語は【オトマネ言葉】と解釈すれば、グッと身近なものに思えてきます。
たとえば、落ち葉が散る風情をオトマネしてみると、はらはら!でしょうか。
穏やかな風はそよそよ、激しく吹き付ける風はビュビューとか、ゴウゴウ。
強い雨はザアザア。静かな雨はシトシト。雪はしんしんと降り積もり、その空気の冷たさの中、手足の指先がジンジンと痺れてきます。

水道の蛇口から勢いよく、水がザアザア!と流れています。そこで水道栓を少し閉めると水の流れはチョロチョロに変わりました。さらにもう少し、水道栓を閉めると、蛇口からはポトン!ポトン!と水滴が流し台のシンクに落ちて音を響かせることになります。

さて、ここでオトマネ言葉力の点検です。
この水滴の落ちるところにアルミホイルを置いてみると、その音はどんなふうに変化するでしょうか?実際に試してみる前に、頭の中でイメージをしてみてください。これがオトマネ言葉を鍛えるためのひとつのドリルでもあります。

水滴の音はポトン!ポトン!からパラン!パラン!に変化しますね。

オトマネ言葉やアリサマ言葉が担う役割は、まるで実際に体感しているような臨場感と目の前で繰り広げられているようなビジュアルな効果に集約されます。

何かの情報に関する、伝達精度を飛躍的に向上させる手掛りとして、擬態語と擬音語を意識して上手に活用し、胸に溢れる想いを滑らかに他者に伝えることが出来る、基礎体力を培っていきたいですね。

2006年11月3日金曜日

こぶし腰浮かせ!

暖かな好天続きの中、京都御所は今年も秋の一般公開の時期を迎えました。
いつもなら少し色づき始めている大銀杏も今年はまだ、まだ。

ちなみに銀杏の葉っぱに雄と雌の2種類があるのをご存知でしょうか?
全体に縦長で先端がはっきり二股に分かれているのが雄。
全体に横広がりで先端の切れ込みがあやふやなのが雌の葉っぱだそうです。
京都市内のそこかしこで銀杏の葉が色づき、風に舞うまでには今少し、時間が必要ですが、木枯らしの季節の楽しみのひとつに加えてみてください。

さて、ここしばらくのメインテーマである公共マナーに直結する【しぐさ】においても、銀杏の葉っぱさながら、雄雌ではなく【優劣】という区分がはっきりと存在しているようです。その【優劣】はやがて対人関係の良し悪しに繋がり、ひいては人生の展開にも深く影響しそうです。

昔、江戸の町民の間で使われた言葉に『こぶし腰浮かせ』というのがあったそうです。これは乗合船が出る矢先、誰かが乗り込んでくると、混み合って座れそうもない中、先客たちがこぶしをつくり、そのこぶしを船底に押し付け、両腕に力を入れて、腰を浮かせ、身体を少しづつずらして、1人分の座れる空間を作るためのしぐさの呼び名です。これなど、間違いなく心が柔らかになる優れたしぐさのひとつですね。

良いしぐさを磨けば、人間関係が良くなり、人間関係が良くなれば、商いが繁盛する。これを【江戸の繁盛しぐさ】と称したそうです。

譲り合いの精神や思いやりの心を育んだしぐさの記憶が言葉の消失とともに消えかかるのを何としてもこのあたりでストップさせたい気分です。

何気ないそのしぐさが見ず知らずの誰かの微笑みを誘うものか、反対に眉間にしわが刻まれそうなものなのか、大の大人ならそのくらいわかるはずです。
連休の人混みの中で誰かの心が温もるようなしぐさの種蒔きに!意識して挑戦してみませんか?それがやがてラッキーの種を確実に育みます。

2006年11月2日木曜日

アリサマ言葉

ここ数日、滋賀県のとある所でゴルフの集中レッスンに取り組んでおりました。携帯の表示がたいてい圏外になるような凄いところですが、おかげさまで下界よりは数週間早い、紅葉に見とれながらの甘美な時間を堪能させて頂きました。

雰囲気は一見、ゴージャスのようですが、実際はかなりアスリートモード。
朝、9時くらいから午前中いっぱい、打球練習。そして昼食休憩1時間。
午後90分ほどアプローチ、パター、もしくはバンカーの練習。
そこからプロが付いてくれてのハーフのラウンドレッスン。
終了後、5時くらいから更に、ナイター設備の中、軽く打球練習。
バタンキューでぐっすり眠った翌日は日頃、使っていなかった筋肉がギシギシパンパン!という擬態語がピッタリの状況で始まり、これを何日か連続。

さて、【擬態語】という観点からも公共マナーを考えて見たいと思います。

他者とのナイスコミュニケーションのために【擬態語】はとても重要です。
意識して使っているかどうかは別にして、【その物事や状況の有様を表現する言葉】である【擬態語】が適宜、使用されていると、会話はわかりやすく、リアルな臨場感を伴います。たとえば、ムキムキ筋肉のプロレスラーがドスンドスンと入場してきた!とかヨチヨチ歩きのお孫さんを嬉しそうにニコニコ眺めているおじいちゃん!とか。擬態語、つまり【アリサマことば】があれば、イメージはかなり豊かに伝わりやすくなります。かつて様々な中継番組でこの手腕を振るいに振るった達人といえば、やはり古館一郎さんではないでしょうか。

その【擬態語】に表わされる、ひとりひとりのアリサマが他者との関係性において居心地の良い方向に向かっているかどうか、そもそも、この視点の有無が問われる状況が多々、見受けられるのが昨今の公共マナーの実態のようです。

交通機関でドサッと投げ出すように床や座席に置いてある大きな荷物や紙袋。
入り口付近でたむろして、乗車妨害のような仲間同士。大きく広げすぎの新聞。
悪気ないでは済まされない景色は枚挙に暇がありません。

ゴルフの有様向上のため、繰り返しプロから指摘されたことは『しているつもり!はダメです。』『決意して、行ってください』ということでした。
この際、公共マナーの何かを決意して行う!そんな誓いを実践しませんか?

2006年11月1日水曜日

ささいなことの価値

個性的ロック歌手の第一人者で、すでに還暦を越えられた今も独自の世界に君臨されている内田裕也氏が、昔、米国のホテルに滞在されていた折の話。
当時、世界ヘビー級チャンピオンだったマイクタイソンにホテルの通路で出会ったことがあるそうです。そのとき、さほど広くない客室前の通路で、双方がすれ違うためにマイクタイソンがサッと壁に身を寄せて道を譲ってくれた瞬間、内田氏はタイソンの大ファンになったといいます。
以来、『何があっても俺はタイソンのファン!』とは内田氏の弁。

渡哲也さんも似たようなことをどこかで話されていました。
『初対面のとき、すでに大スターだった石原裕次郎氏が先に席を立って挨拶してくれた、以来、大の裕次郎ファンです。』

こうして眺めてみると、とてつもなく凄いことがあって人は誰かに惹かれるものではなく、むしろ何気ないしぐさみたいなことが、非常に重要な決め手であることに改めて気づきます。そしてそれが人間関係にもたらすものは、もしかしたら、我々の予想を遥かに上回るほど大きいのではないでしょうか。。

たしかに他から見たら、取るに足らないような、ささいなことを許せないのが人情で、だからこそ、ちょっとしたことがとても大切なのかもしれませんね。

あくびひとつも生理現象だからしょうがないだろう!と開き直って正々堂々の無礼より、せめて手で口元を覆ったり、慌てて俯いたりをする仕草を好ましく眺めるのが人の本音です。さらにこれからどんどん寒くなる季節ならではの課題としては風邪を引いたときの公共マナーに照らした配慮が求められますね。
本人にしたら咳くらい、、、でも、他人からすればマスクしてよ!が当たり前。

見ず知らずの誰かは、もしかしたら数分後に知り合うことになる誰かかもしれません。人生、どこでどんな出会いが待っているのかなんて、神成らぬ身にわかるはずもなく、ならばこそ、赤の他人に対しても『袖すり合うも多生の縁』の精神で、気持ち良いマナー、さわやかなしぐさで向き合いたいものです。