2007年6月4日月曜日

大人の話し方

コミュニケーションを<意思疎通を伴う会話>と定義して、その精度向上に取り組み始めてすでに20年以上の歳月が経過しました。

思えば、誰よりも苦手だったはずの課題にいつのまにか、ここまでしっかり向き合うことになろうとはつくづく人生ってわからないものですが、未だに恐ろしく不出来なおかげで、自らの言動をバッドサンプルにしながら、仕事兼ライフワークとして愉しみながら勉強していきたいと願っております。

それにしても<話し方>は本当に難しいものとしみじみ思い至ります。それはちょうど学問の世界で、<知れば知るほど、知らないことが多いことに気付く>という、至ってさわやかな逆説に似た感覚なのかもしれません。

そんな環境に日々、身を置く故かもしれませんが、先日、ある会合で同席した後輩女性の話し方に終始、不快感を覚えるというめずらしい体験をしました。

俗にいう<声そのものが耳障り>だとか、<滑舌が悪い>訳ではなく、<話し方>そのものは上手な方と評価できます。ではなぜ、不快かと申せば、それは話している内容、すなわち考え方における根本の姿勢がおそらく不快原因の大本であり、それが<話し方>に滲み出た結果であろうと思っています。

彼女の話は精一杯の気配りで周りのメンバーを持ち上げながら、進みますが結局は自分の自慢話にどんどん移行していきます。いかに自分が頑張っているか、どんなふうに評価されているか!こういう<話し方>をオレが!オレが!の<オレガッパ式>というらしいのですが、久々にそんな実物に出会い、あらためて話すと言うことの難しさを突きつけられた気がいたします。

つまり何気なく話しているその<話し方>には、しっかりと自分の内側で考えていることが表れてしまうという難しさです。それはリンカーンの言う<40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て>と同じ視点の課題です。この難易度大の課題に<大人の話し方>というテーマで今日から向き合って参ります。

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