時まさに秋の運動会シーズンですが、中高年、かつ日頃の運動不足の各位にあっては記憶の中の運動能力と現状のそれの格差がはなはだ激しいため、いかなる競技においても参加のための必須条件は無理は禁物ということになります。
毎年、この時期の休日明けには運動会での無理な活躍が仇となり、やれ靭帯が伸びた、切れた、骨折した、肉離れで動けない等などの、故障に至る実話の在庫が多いせいか、くれぐれも油断大敵、全力投球でない挑戦をお薦めしたいと思います。その運動会やら様々な競技会の結果はもとより、人生の様々な局面でもよく『運が良かっただけ』とか、『運に見放された』とか、『運も実力の内!』などと申しますが、そもそも『運』とはどういう意味なのでしょうか?
早速、辞書を引いてみますと【移動・回転する】【めぐる・はたらかせる・はこぶ】あるいは【人知では計り知れない身の上の成り行き】とか、【人の身に降りかかる幸、不幸を支配する人間の意志を超えた働き】とあります。何かわかったようで、わからなくはありませんか?
吉田兼好こと兼好法師が徒然草の中で、【運は日にあらず、人なり】と綴られた意味に照らして、しばし考え深めて見ますと、、、、。
『運命』とは、運ばれる命のこと。では何によって運ばれるのかというと、これは時によって運ばれます。つまり運命とは時のこと。
では『運勢』とは?すなわち、時の勢いの良し悪しをいいます。
そこで『幸運』とは幸せな時が続いている状態。ちなみに幸せに対して不幸といいますが、幸運に対して不幸運とは言わず、不運といいます。『不運』とは幸せな時がないということになります。
つまり、『運』はそれ自体が【時】をあらわしているが故に、時の集まりである日の中で左右されるものではないということを兼好法師は看破しておられたことになります。
運の良し悪しはその日の気分や時間によるものではなく、どのような人と関わるかによるという次第。良い対人関係が望まれる訳はここにもありました。
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