『たいしたことではないから、、、、』とつい見過ごしたり。
『そんな細かいことにいちいち口を出さなくても、、、』とためらったり。
そういう気分が半々ではなく、51対49のようなバランスになったとき、何かが崩れ始めたり、どこかに歪みが生じたりするのではないかと考えます。
『ま、いいか』と1度、見逃したことは、こちらはおおめに見たつもりでも見逃された相手にすれば、それ自体がどのようなことであれ、『この前は良くて今回はなぜダメなの?』と気づきの矛先がその段階ですでにぶれる危険性も孕んでいます。叱ることの難しさと重要性はここに強く根ざしていそうです。そのときその場で叱る、スリと同じで現行犯!と相当、明快に自覚していても嫌われたくないという思惑も手伝って、叱ることは至難の業へと登り詰めます。
先日、ある会に連絡もなく欠席された御仁から、数日たって行けなかった理由をご報告頂きました。正直言って、今更、理由を伺っても、だからどうなの?という気分であり、むしろ理由はどうあれ、連絡もなく欠席した行為に対してなぜ一言の謝罪もないのか、不思議でしょうがないのが率直な感想です。
たとえば約束の時間に遅れてきて、あれこれ遅れた理由をまくしたて、自己を正当化して『だから自分は悪くない!』と見事に証明して見せたつもりでも、待たされた相手がそれで納得するはずはありません。百歩譲って、たしかに最もな理由があったとしても、まず遅れた事実を謝る。素直に謙虚に誠実にあっさり謝る!ことがなぜか、出来にくいことになってきてはいないでしょうか。
そんなモヤモヤを抱えつつ、京都流を眺めていたら、【おやかまっさん】の中でドンピシャリのご指摘があり、少し背中を押して頂いた気分です。
謝ること!がまるで何かの負けを認めることであるかのような錯覚から早々に脱却し、それは決して自己否定ではないことに思い至りたいと考えます。
むしろ、謝ることは、その時点の自らの至らなさにをありのままに素直に潔く自己肯定する重要なプロセスのひとつではないでしょうか。それがあるからこそ、次なる成長のプロセスが始まる。いえ、そこからしか始まらない。
理由探しの責任転嫁の循環がやがてもたらすものと、謝罪に始まる自己鍛錬の再設計循環のもたらすものの違いは、とてつもなく大きい!
誰しも間違うし、しくじるし、そんな時、間髪いれずにごめんなさい!と言える体質こそ、ラッキーの種ではないかと思うのですが、、、、。
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