<本音の一文>は当然のことながらワンセンテンスに限る!という意味では決してありません。むしろここで伝えたい内容が多ければ、それこそお便りの価値も高まり、書くという技量を鍛える上からも非常に喜ばしい限りです。
何より、そのお便りを受け取った側にしてみれば、ここが最も嬉しい箇所であり、特に何かお世話になったことに対して<お礼>を申し述べる折に、たった1行程度の本音では、感謝の思いは伝わりにくいと心得ておきたいくらいです。
これは世話した側の視点になれば当然の事と言えます。
たとえば、時間を割いた、手間を掛けた、知恵を絞った、頭を下げた、実際にどんな労力を費やしたかにもよりますが、何はともあれ、面倒を見た以上はその価値を最大限に評価して欲しいと考えるのがいくつになっても人情です。
ここのところの人間の気持ちの機微は確かにわかりにくい側面でもあります。
ありがちなパターンとしては「いいのよ、お礼なんて、みずくさいわよ」とか、「こちらが好きで勝手にしたのだから気にしないで」みたいな言葉を掛けていただくとそのまま額面通りに受け止めて、<なしのつぶての対応>が許されるものと悪気なく、勘違いをしてしまいます。
しかし一般的に見て、これが許されるのはやはり個人としては若い内だけのことであり、ビジネス的にはありえない話。すなわち、何事によらず、<なしのつぶて>的対応はメンバー限定、期間限定の特別措置であることをこの際、改めて認識しておきたいものです。
こうして考えてみると、まず何某かのご縁があって後日、そのフォローとしての<お便り>が書かれるというのが普遍的パターンとなります。
となれば、<本音の一文>につながる思いのチャンスはいざ、便箋やハガキに向き合うその時ではなく、出会っているその瞬間に生じるものと思い至ります。
瞬間の思いや感情を記憶する自信がなければ、記録する。
ちょっとしたメモの大切さは、実はこんなところにもつながる課題という次第。
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