2007年5月3日木曜日

常識の揺らぎに向き合う

<そんなの当たり前>とか、<それくらいは常識>と思えることが意外にもひとそれぞれであることを普段は案外、見過ごしているのかもしれません。

なぜならば、割と単純な発想からお互い様に概ね感じることは似たり寄ったりと思い込んでいる安心感のせいかもしれません。

たとえば同じ日本人だからとか、関西人だからとか、京都市民だから、年齢が近そうだからといったような、至って不明瞭かつ曖昧なものがさも同じ認識の土台の一部であるかのような視点は確かにどこかに存在しています。

しかし厳密に意見の検証をしてみれば、予想外の回答に驚くことになるのかも知れず、そんなことをあらためてジックリと考えさせられる出来事にたまたま 昨日、遭遇してしまいました。

それは最寄のバス停で市バスを待っている時のことです。そこへ歩きながらけっこう大きな声で携帯通話中の若い女性が登場しました。

そのバス停にはすでに10名近くの方がバスを待っておられましたが、そこに加わった彼女の話し方は見事なまでに明るく屈託なく大きな声で続けられます。

その状況に対して、呆れ顔で眉をしかめて非難の眼差し向ける自分に気付きましたが、同時にそこに居合わせた他の皆さんのいたって平然、無関心、我関せずの風情にも驚きを持って気付かされました。

どう考えても<公共マナー失格>のその大きな声が聞こえていないはずはなく、だとすれば、一様に不愉快な眼差しとけん制の身体モードが雰囲気として然るべき空気を醸成するはずなのに、そんな気配が微塵も見えません。
それはさながらそこにそんな事実が起こっていないかのような不思議な光景。

大きな声で電話を続けながらバスに乗り込む後姿を見送りながら、こうしたマナー違反への凛とした向き合い方をあらためて構築せねばと痛感した次第です。

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