2007年5月12日土曜日

難易度大のあいづち

その昔、観たカンフー映画で、主役の男の子が修行をして強くなってゆく過程で、その師匠の自宅に呼ばれ、およそ意味のない家事手伝いにこき使われます。実はそのひとつづつが重要な基礎訓練のためというストーリーでした。

1番強烈に覚えているのは壁塗りの作業です。師匠の家の庭の外側の壁を塗り替えていく作業でカンフーのための手首の使い方、腰の動かし方などを毎日、朝から晩まで繰り返すことで筋肉の記憶にしてしまうという次第。

いつもいつも考えていることが自分を創り、同様にいつも行っていることが身体を作ってゆきます。あまりにも当たり前のこの事実をなぜか忘れがちです。

<あいづちことば>はその意味で眺めてみれば、いつもいつも誰かと向き合うときに意識せず誕生し、悪気なく使われ、魂胆無く行き来し、そして改めて取り上げられることも無く、まるで話の間を漂うだけの無意味な要素であるかのような誤解を強いられてきたことにこの際、深く反省したいものです。

間があればこそ、活きてくるもの。つなぎがなければ見えないことは沢山あります。あらためてその価値と重要性に気付き、これからは意識して<あいづちことば>を極める決意を固めたいものです。それは何より滑らかで快適な対人関係のためだけでなく、結果として自身の居心地の良さに直結する課題です。

ちなみに<きわめる>には同音異義語が3つありますが、浮かびますか?

<極めるは北極・南極の極なので限界までいきつく、達成すると言う意味。頂上を極めるとか、見極めると使います。>
<究めるは研究、探求から学問や芸などを深く学び本質を掴むと言う意味>
<窮めるは行き詰るということなので、進退窮まるという使い方になります>

さて、進退窮まるような長い話を勇気を持って打ち切りたいときには<とても勉強になりました・大変結構なお話でした>あたりが有効な<あいづちことば>でしょうか。ひたすら爽やかに言う練習が問われる難易度大の課題です。

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